2002年 8月1日(木) ― 17日(土)
行 程 ル ー ト 図 〔 緑 線 〕 |
Copyright(C)2008 ZENRIN CO.LDT |
はじめに |
小生が定年退職した2002年の春、祝いをしてくれた席での、「記念に二人で旅行でもしてきたらどう。資金は提供するよ。」という子供たちの大変ありがたい提言で、少し長めの退職記念旅行をすることになりました。時期は、嘱託としてすることになっていた仕事の関係で、7-8月、行き先は、連れ合いが京都・奈良より西に行ったことがなかったこともあって九州ということになりました。 6月になり、具体的なことを考え始めて、まず、どういう旅行にするか迷いました。列車・バスで行くか、自分の車で行くか。列車・バスだと体は楽だが、行ける所はかなり限られてしまう。何度も行ける所ではないから、どうせ行くなら一通り見てきてしまいたい。車だと日数・体力の面で大変。飛行機でレンタカーということも考えたが、未経験なので乗ったことのない車というのが不安。いろいろ考えた結果、往復にフェリーを使い、自分の車で使える日数いっぱい九州内を走り回ることにしました。 次は、どこをどう回るか。これもかなり迷いました。が、結局、二人の興味・関心が共通する所を基本にして、九州は初めての連れ合いのために主要な所を一通り回り、それに小生が以前に普通の旅行で回ったときに行かなかった所、もう一度行ってみたいと思っていた所をプラスするということにしました。それやこれやの結果が以下に記したコースです。かなりあちこち回りましたが、日数、時間、コース等の関係で残念ながら予定していたのにカットしたり、秋月、日田など、最初からあきらめたりした所が幾つもあります。いつかまた機会があったら今度は是非行ってみたいと思っています。 もっとも、事前にしたのは、こういう所を、こういう風に回ろうと大まかなプランを立てただけで、細かなルートプランまで全部立てたわけではありません。実際の走行ルートはほとんど現地で、その日、その日、明日はどうしようという形で決めていったものです。従って、宿泊先もほとんど、当日、今日はあそこまでいけそうだと午後2-3時頃になってから電話して決めたものです。休前日など、込みそうな時・所の場合だけは2-3日前に決めたことがあったように思いますが。 このドライブ旅行に使った車は、普通乗用車の日産・プレセアでした。カーナビはなし。パソコンもインターネットも始めたばかりで、事前にコースなどの細かな所まで調べることはできませんでした。そのため、毎日、夕食を済ませた後、翌日のコースを決め、持って行った地図、ガイドブック等で、細かな分岐・右左折地点などを調べるのが大変でした。時間切れで調べきれずに出たとこ勝負で行った所もありました。当然、街中で場所がわからず、行ったり来たり、ぐるぐる回ったりという所がありました。というわけで、行程表の時間・距離の中にはそうしてロスした分も含まれてしまっています。申し訳ありませんが、その点、ご承知おきいただきたいと思います。 以上、この九州ドライブ旅行記録の前提になることをいくつか書きました。こうした事情をご理解に上で、この記録をご覧いただきたいと思います。大変不十分なものですが、多少なりとも参考になるところがあれば幸いです。 2009.5 山寺行好 |
|||
☆ この旅行中は、事情があってデジカメではなく、フィルムカメラを使っていたため、全体としてあまり写真がありません。限られた写真の中から何とか選んでここに掲載した写真も、ネガフィルムをフィルムスキャン(一部はネガ行方不明でプリントスキャン)してデジタルに変換したものであることをご承知おきください。 |
行程表について ○R118=国道118号線 K329=地方道(都道府県道) 329号線 ※印=推定時刻・距離 ○移動時間の中には場所・時間などを記してありませんが、移動途中の休憩・食事などの時間も含まれています。 ○道を間違えたための迷走、カーナビの誤誘導・遠回り誘導などによって生じたそれほど大きくはない時間のロスはそのままにしてあります。 |
〔第1日〕 8月1日( 木 )
地域・場所 | ルート・観光・見学箇所等 | 着時刻 | 発時刻(通過) | メーター | 説 明 ・ 案 内 等 |
東京・豊田 | 自 宅 | 16.00 | 0.0 | ||
…R16…保土ヶ谷バイパス…K3号狩場線…本牧JCT… 湾岸線…横浜ベイブリッジ…浮島IC… |
都市高速道など普段はほとんど利用しないためかなり緊張して走った。分岐点で方面を間違えるとかなり面倒なことになるので、事前に細かく調べてルート図を作り、それを見て確認しながら走った。 | ||||
川 崎 | 浮島フェリーターミナル | 18.25 | 21.00 | 65.5 | [ 1日走行距離 65.5 ㎞ ] |
フェリー | マリンエキスプレス (船中泊) | 宮崎県日向細島港行。 ☆マリンエキスプレスは2005年に運行休止。現在は運航されていない。 |
「マリン エキスプレス」 パンフレット(2002.2)より | 日の出(船尾) | 日向細島港 |
〔第2日〕 8月2日( 金 )
地域・場所 | ルート・観光・見学箇所等 | 着時刻 | 発時刻 | メーター | 説 明 ・ 案 内 等 |
フェリー | マリンエキスプレス (船中) | ||||
日 向 | 日向細島港 | 17.10 | 17.30 | 65.5 | (ひゅうが) 宮崎県 |
BH・ルミエール日向 (泊) | 17.45 | 70.5 | [ 1日走行距離 5.0 ㎞ ] |
〔フェリー〕 小生は北海道旅行時(往復=直江津→岩内、小樽→新潟)や、四国遍路時(東京・有明→徳島)に長時間のフェリー乗船を経験したことがあったが、連れ合いは初めてだったので少々心配したが、船が揺れるたびに、浴槽の湯が大きく波打つ展望風呂が面白かったし、海を見ながらの入浴もけっこうよかったとか、デッキでのんびり海を眺めたり、本を読んだりするのもよかったなど、1泊1日半ほどの船旅を楽しんでくれたようなのでほっとした。 以前の経験から、どこのフェリーでも同じだが、二等の大部屋はプライベートなスペースがないためつらいと思っていたので、2等寝台C(二段ベッド)を予約時にとっておいた。カーテンを引けば人目を気にせず寝起きしたり、着替えしたりできるので落ち着いて時間をすごすことができる。 なお、乗船予約については、日程がなかなか決められず、やっと1ヶ月前(予約は2ヶ月前から受付)の7月2日になって、帰りがお盆にかかる日程だったのでどうかなと心配しながら、往復予約の電話を入れた。幸い往復ともほぼ希望通りの予約が取れ、予定通りに出かけられることになった。 ☆ 上にも書きましたが、川崎ー日向・宮崎間運航のマリンエキスプレスは2005年に運航休止になり、現在は運航されていません。東京ー北九州、大阪ー宮崎間のフェリーは別会社で運航されているようです。 |
〔第3日〕 8月3日( 土 )
地域・場所 | ルート・観光・見学箇所等 | 着時刻 | 発時刻 | メーター | 説 明 ・ 案 内 等 |
日 向 | BH・ルミエール日向-R10 - -延岡南道路 - |
7.50 | 70.5 | ||
延 岡 | 延岡・昭和町-R218- | 8.20 | 92.2 | ||
日之影町 | 道の駅・青雲橋-R218- | 9.02 | 9.16 | 130.5 | 国道218号沿いに位置していて、水面からの高さ137メートル、長さ410メートルの、国道に架かる道路橋としては東洋一の規模を誇るアーチ橋「青雲橋」を一望することができる。 |
高千穂 | 天岩戸神社 (東宮・西宮・天安河原) |
9.45 | 10.25 | 149.9 | 天安河原(アマノヤスガワラ)・仰慕窟まで徒歩で往復。 |
高千穂神社-R218-K203- | 10.40 | 10.53 | 157.9 | ||
高千穂峡 | 11.00 | 11.45 | 159.6 | Pから峡谷沿いの遊歩道を往復。ボートに乗りたかったのだが、時間の関係で断念。 | |
国見ヶ丘-K203-R218-R325- | 11.56 | 12.10 | 165.7 | ||
高 森 | 昼食休憩〔高森峠P展望台?〕 -R325- |
13.05 | 13.32 | 210.5 | 記録漏れで場所を特定できず。 |
白水村吉田 | -K111・阿蘇パノラマライン- | ||||
阿蘇山 | 阿蘇山ロープウエイ乗り場西駅 | 13.52 | 224.7 | ||
中岳噴火口 | 現在も活動を続けて白い噴煙を吹き上げている。 | ||||
阿蘇山ロープウエイ乗り場西駅 | 14.44 | 224.7 | |||
草千里が浜 | 14.50 | 15.15 | 226.9 | 火口跡に広がる盆地状のゆったりとした草原。 | |
-阿蘇パノラマライン-阿蘇駅前-R57-竹田・天神-R502- | |||||
豊後竹田 | 岡城跡 | 16.20 | 17.20 | 276.6 | (ぶんごたけた) 「荒城の月」で知られる城跡。 |
トラベルイン吉富(泊) | 17.25 | 277.6 | [ 1日走行距離 207.1 ㎞ ] | ||
[商店街の七夕祭り] |
〔高千穂〕 「渓谷美あふれる神話の舞台」「神々の里」などといわれる所。記紀(「古事記」と「日本書紀」)に記された天孫降臨(てんそんこうりん)※ の神話に登場する天岩戸(アマノイワト)・天安河原(アマノヤスカワラ)などの地名が点在する、緑豊かな渓谷を中心とした町。延岡からくる高千穂鉄道の終点の町。毎年11月から2月にかけて行われる、秋の実りに感謝する氏神祭りの「夜神楽」も有名。 ※〔天孫降臨〕 記紀の神話で、天孫 《天つ神の子孫、特に天照大御神(アマテラスオオミカミ)の孫》 である瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)が高皇産霊尊(タカミムスヒノミコト)・天照大御神の命を受けて高天原(タカマガハラ)から日向国の高千穂に天降ったこと。[広辞苑第六版] |
||
〔天岩戸神社〕 高千穂町から北東に7kmほど離れた所にある天岩戸開伝説※でよく知られている神社。天照大御神(別名オオヒルメノミコト)を祀っている。 岩戸川を挟んで東本宮と西本宮があり、東本宮は天岩屋であると伝えられる洞窟を、西本宮は天照大御神を祀っているとされている。通常天岩戸神社と呼ばれているのは西本宮。西本宮の対岸崖上にある天岩屋は、西本宮内に遥拝所があるだけで直接見ることはできないとのこと。 岩戸川を500mほど遡った所には、岩戸隠れの際に八百万の神々が集まって相談した場所と伝えられる「天安河原(アマノヤスカワラ)」があり、そこには仰慕窟(ギョウボガイワヤ)と呼ばれる洞窟がある。 ※〔天岩戸開伝説〕 天照大御神は、弟の荒ぶる神、須佐之男命(スサノオノミコト)の乱暴な振る舞いの多さに怒って、岩屋の奥に隠れてしまった。そのため、この世は光を失い闇に閉ざされてしまった。困った八百万(やおよろず)の神々は仰慕窟の前にある天安河原に集まってどうするか相談した結果、岩屋の前で宴会を開くことにする。芸の達者な天鈿女命(アメノウズメノミコト)が天岩戸の前で賑やかに舞い踊り、神々はその周りで宴会を始めた。その騒ぎが気になった天照大御神が岩戸を少し開いたところを手力雄命(タヂカラオノミコト)が岩戸をこじ開け、岩戸を投げ飛ばしてしまった。こうしてこの世に再び光明が戻ったというのである。(このときの舞踊が後に高千穂神楽の原型になったと伝えられているとのこと)。 |
||
〔高千穂神社〕 神武天皇の兄・三毛入野命(ミケヌノミコト)が天孫・瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)以下三代の神々を祀ったのがこの神社の初めという。高千穂88社の総社。毎日午後8:00から9:00まで境内の神楽殿において観光神楽が奉納されている。境内には、その「由来記」に「此の二本の杉は…根元が一つになって如何なる事があっても別れられない形を現して居ります」と書かれている「夫婦杉」がある。また、源頼朝が、畠山重忠を代参として天下泰平の祈願をした際、重忠が手植えしたという樹齢約800年の秩父杉などもそびえ立っている。 |
||
〔高千穂峡〕 高千穂峡(五ヶ瀬渓谷)は何万年も前の二回の阿蘇火山活動の際に、噴出した溶岩流が五ヶ瀬川に沿って帯状に流れ出し、急激に冷却されてできた侵食谷で、深い淵のような流れの両側に柱状節理のそそりたつ断崖が続く。川幅が狭まった部分には、日本の滝百選の一つである「真名井の滝」があり、ボートに乗ればすぐ下まで行くこともできる。 |
||
〔国見ケ丘〕 神武天皇の孫・建盤龍命( タテイワタツミノミコト)が祖宗の神霊を祀り、ここから四方を眺めて「国見」をしたという伝説の地で、標高513mの小高い丘。晩秋の早朝に見られる雲海の名所としても知られている。また、神武天皇(瓊瓊杵尊の曾孫)が諸国平定に出発する際に軍勢を召集した所ともいう。 |
天岩戸神社 | 天岩戸神社西本宮 | 天安河原と仰慕窟 |
高千穂神社・夫婦杉 | 高千穂峡・真名井の滝 | 高千穂峡・高千穂大橋(上)と神橋 |
〔阿蘇山・中岳噴火口〕 阿蘇山には火口がたくさんあるが、現在も活動を続けて白い噴煙を吹き上げているのは中岳の火口だけ。火口はおよそ南北1100m、東西400m、深さ125m程あるという。活動が激しく活発な時期には登山禁止になる。 |
||
〔草千里が浜〕 直径1キロほどの火口跡に広がる盆地状のゆったりとした草原。中央にある池の周辺では牛馬の放牧も行われていて、牧歌的な雰囲気も漂う。 |
||
〔岡城跡〕 源平合戦において豪傑として知られた武将「緒方三郎惟栄(これよし)」が、源頼朝と仲違いをした源義経を迎え入れるため、文治元年(1185)に岡城を築城したと伝えられている。その後、岡城は志賀氏17代の居城となったが、文禄3年(1594)、中川氏が入城、以来13代に受け継がれて明治に至ったという。 稲葉川と白滝川に挟まれた、両河川が合流する地点までの舌状台地の上に築かれ、川岸からそそり立つ断崖上のこの城は天然の要塞であった。かつて「難攻不落」と言われたこの城も現在残っているのは、中川氏によって拡張・増築された、本丸、二の丸、三の丸、西の丸などの跡だけである。なんと惜しいことに、その城館は明治7年、大分県によって入札・払い下げされ、取り壊されてしまったのだという。現在は残された石垣が当時の姿をしのばせてくれるだけとなつてしまい、文字通りの「荒城」のイメージになってしまったが、春には桜、秋には紅葉と四季折々の美しい姿を見せてくれるという。この岡城跡は『日本さくら名所100選』に、 「岡城跡の松籟(しょうらい=風に吹かれて松葉がゆれ動く時に立てる音)」は、『日本の音風景100選』に選定されているという。 岡城跡に着いたのは四時半過ぎ、照り付ける暑い夏の日差しも落ちかかって、緑濃い木々の木陰と時々その下を吹き抜けるひんやりとした風が気持ちよかった。ほとんど人影もなく静かであった。所々で高い城壁のうえから崖下をのぞきながら、広大な城跡の一角を順番にたどっていくと「荒城」の感がひしひしと迫ってくる。 まだ日の落ちきった夜にはなっていないため、なみなみと酒の注がれた「盃」にさし、植えられた木々のように何本も地面に突き立てられた白刃にきらりとひかったであろう、あの「月影」=「月光」こそ見ることもできず、浴びることもできないが、「光」=「栄光」と勝手に置き換えてみれば、「昔の光今いずこ」と心底感じざるを得ず、「荒城の月」の世界に浸りきったひとときであった。 ☆ 岡城跡入口の受付で観覧料を払うと、板目模様の地に「登城手形」と書かれた短冊形のしおり(領収証代わり)と、両面に岡城の歴史、城の古絵図、城跡の見取り図などを印刷した巻子本(かんすぼん。巻物。20cmほどの木の軸に長さ50cm位の両面に印刷した紙を巻いたもの)をくれた。よくできたもので、こういうものをもらったのは全国を旅していて、ここが初めてであり、大変うれしく、いい記念品になった。 |
||
〔「荒城の月」〕 少年時代を竹田(たけた)ですごした瀧廉太郎が、何度も登っては遊んだ、印象に深く残る岡城のイメージをもとに、明治34年(1901)に当時の旧制中学校唱歌の懸賞募集への応募作品として「荒城の月」を作曲したのだという。作詞は土井晩翠。城内二の丸跡に廉太郎像があり、本丸跡には土井晩翠の歌碑もある。 なお、「荒城」については、瀧廉太郎は竹田の岡城、晩翠は自身の出身地である仙台の青葉城、または会津若松の鶴ヶ城と言っていたらしい。歌碑もこの三ヶ所にある。 |
阿蘇山 中岳噴火口 | 阿蘇 草千里 | 岡城跡 |
岡城跡 | 岡城跡 | 岡城跡 滝廉太郎像 |
〔第4日〕 8月4日( 日 )
地域・場所 | ルート・観光・見学箇所等 | 着時刻 | 発時刻 | メーター | 説 明 ・ 案 内 等 |
豊後竹田 | トラベルイン吉富 | 8.30 | 277.6 | 〔ぶんご・たけた〕 | |
竹田 徒歩観光・見学 | ホテルPに車を置いて徒歩で観光・見学 | ||||
観音寺・十六羅漢 | 観音寺石垣下の岩上に腰を下ろした十六羅漢の姿が印象的。 | ||||
円通閣 | 中国の寒山寺の門を模して造られた楼門。 | ||||
愛染堂 | 中川氏二代藩主久盛が建てた四面葺き下ろしの堂で、国重文。 | ||||
滝廉太郎記念館 | 瀧廉太郎が12歳から14歳まで過ごした居宅の一部を、記念館として公開している。 | ||||
連太郎トンネル | トンネルに入ると「荒城の月」などのメロディーが流れてくる。 | ||||
歴史資料館 | 竹田ゆかりの竹田・廉太郎らの作品・遺品などを展示している。 | ||||
旧竹田荘 | 江戸後期の南画(文人画)家・田能村竹田(たのむらちくでん)の旧居。清高淡雅な画趣に独自の風格を示したという。 | ||||
殿町武家屋敷 | 中級武士の白壁・長屋門のある屋敷などがひっそりとたたずみ、続く。 | ||||
キリシタン洞窟礼拝堂 | 江戸初期、キリシタン禁止令が出た後外国人神父を保護した所という。 | ||||
広瀬神社 | 日露戦争時に軍神と言われた広瀬武夫中佐を祀る神社 | ||||
トラベルイン吉富 -R57-宮地駅前- |
10.05 | 10.15 | 277.6 | 観光終了後、ホテルに戻って出発 | |
宮地駅前 -K11(やまなみハイウエイ )- |
10.55 | 阿蘇山北側の一の宮から別府までを結ぶ県道11号の別称。大部分はなだらかな高原を走る。九重町の長者原あたりの風景がよい。 | |||
九重 | 城山展望所 -K11-K45(ミルクロード)- |
11.05 | 11.21 | 317.5 | 阿蘇のカルデラや阿蘇五岳などが一望できる標高748mの展望所。 |
大観峰〔だいかんぼう〕 -K45(ミルクロード)-K11- |
11.35 | 11.45 | 328.7 | 標高936m、阿蘇外輪山の最高地点で、阿蘇で一番眺めがよいといわれる展望台。 阿蘇五岳、遠く九重の山々、眼下には阿蘇谷の田畑など、雄大な阿蘇の姿を眺められる。昔は遠見ガ鼻と呼ばれていたが、熊本出身の徳富蘇峰によって、大観峰と名づけられたという。 | |
給油 | 12.05 | 12.10 | 346.9 | ||
長者原ビジターセンター(休憩) | 12.30 | 12.45 | 360.3 | [ちょうじやばる] | |
レストハウスやまなみ(昼食) -K11(やまなみハイウエイ )- -R210-K216- |
12.48 | 13.28 | 361.4 | ||
湯布院 | 由布院駅 | 14.05 | 14.20 | 392.5 | |
湯布院民芸村 | 14.30 | 15.10 | 394.1 | 移築された庄屋屋敷や武家屋敷門があり、民芸品や古民具を展示。陶芸・和紙・ガラスなどの工房、古陶磁を展示する古陶院などもある。 | |
金鱗湖 | 15.15 | 15.30 | 394.4 | 街の東端にある小さな湖。湖畔に茅葺の共同浴場「下ん湯」がある。周辺には店や美術館があり、ここと民芸村辺りが湯布院観光の中心。 | |
三角旅館 | 15.40 | 16.30 | 396.9 | (休憩・荷物整理) | |
由布院駅近辺商店街 (買い物・散策) |
旅館に車を置いて徒歩で買い物・散策 | ||||
三角旅館(泊) | 18.00 | [ 1日走行距離 119.3 ㎞ ] |
〔豊後竹田〕 山々にかこまれた盆地の中、北側の稲葉川と南側の白滝川、この二つの川に挟まれた地域に東西にひらけた街。周囲にはトンネルが多いため「レンコン町」とも言われるという。街の東側から南側に掛けての山沿いの高台になった所に、行程表に記したような観音寺・十六羅漢をはじめとするこの街の見所が続く。竹田観光の中心ともいえる岡城跡は町並みを外れて東北側の台地に上ったところにある。全体として落ち着いて静かな、しっとりとした街である。 |
||
〔由布市湯布院町〕 「湯布院」と「由布院」、町中にも両者が混在してややこしいことになっているが、町名とIC名は「湯布院」、駅名と温泉名は「由布院」らしい。町村合併の関係でこういうことになったらしいが、ここではガイドブックなどの表記を参考にして適当に書いてあります。 由布院盆地の田園風景の中にホテル、旅館、民宿などが散在する「湯の里・ゆふいん」は、豊後富士とも言われる美しい姿を持つ由布岳の山麓に広がっている。さまざまな私設美術館があったり、「映画祭」や「音楽祭」などのイベントが行われたりして、ちょっとした「芸術・文化の里」として有名になっているが、一つの温泉郷としてのまとまった印象やそれらしい風情・情緒などはあまり感じられなかった。数十年にわたる町づくりは、旧来の温泉地のようにはしたくないという意向のもとでの町づくりだったようなので当然のことなのかもしれない。 短期間でたくさんの所を見て回ろうという、しかも安上がりな旅をする、「駆けずり回り」型の小生などには、この町の味をつかみきれなかったというのもこれまた当然のことだったかもしれない。 |
||
☆ 民芸村、金鱗湖などを見て回った後、カメラのフィルム・トラブル発生。湯布院で撮った写真はほぼ全滅。 そのため、残念ながら民芸村、金鱗湖などの写真はなくなってしまいました。申し訳ありません。 |
竹田 観音寺石垣下の十六羅漢 | 愛染堂(重文) | 旧竹田荘 |
武家屋敷 | やまなみハイウエイ 城山展望所 阿蘇 | 由布岳 |
〔第5日〕 8月5日( 月 )
地域・場所 | ルート・観光・見学箇所等 | 着時刻 | 発時刻 | メーター | 説 明 ・ 案 内 等 |
湯布院 | 三角旅館 | 8.20 | 396.9 | ||
湯布院IC ―大分自動車道― | 8.35 | ||||
別 府 | 別府湾SA ―大分自動車道― | 8.50 | 9.13 | 423.8 | |
臼杵IC | 9.45 | ||||
臼 杵 | 臼杵石仏 | 9.49 | 11.30 | 475.7 | 全国初の国宝指定を受けた臼杵磨崖仏四群59体などがある。 |
〔うすき〕 | 稲葉家下屋敷前駐車場 | 11.40 | 481.6 | ||
稲葉家下屋敷 …徒歩… | 明治四年に建てられた旧臼杵藩主稲葉家の豪壮な邸宅。 | ||||
野上弥栄子文学記念館 | 大正から昭和の終わりにかけて活動した小説家・野上弥生子の生家。 | ||||
稲葉家下屋敷前駐車場 | 12.50 | 481.6 | |||
臼杵IC―大分自動車道― | 13.00 | ||||
―大分―別府IC― | |||||
別 府 | 海地獄前P…徒歩で地獄巡り | 13.35 | 532.9 | ||
(海地獄・山地獄・カマド地獄・鬼山地獄・白池地獄・金龍地獄) | 「ご注意」やルート地図などもついている『地獄めぐり 観覧券』綴りが大変便利。 説明パンフレット『ようこそ「地獄」へ』もユニークで面白い。 | ||||
海地獄前P | 15.16 | 532.9 | |||
血の池地獄P…地獄巡り・続き | 15.22 | 536.1 | |||
(血の池地獄・竜巻地獄) | |||||
血の池地獄P | 16.10 | 536.1 | |||
別府・中央町 | 亀の井ホテル | 16.35 | 17.30 | 544.9 | (休憩・荷物整理) |
竹瓦温泉(砂湯) | 徒歩(片道15分)で温泉へ。帰りに買い物・散策・夕食 | ||||
亀の井ホテル(泊) | 20.30 | [ 1日走行距離 148.0 ㎞ ] |
〔臼杵石仏〕 臼杵石仏は、平安時代後期から鎌倉時代にかけて彫られたといわれ、遠く千年の歴史・文化を伝えてくれる。「 木彫りとみまごうばかりの見事な彫刻技術、そして仏の数は、他に類を見ることなく、国の内外で文化遺産としての高い評価を得ている。 」(臼杵石仏パンフレット) 臼杵の石仏群は、場所によって、下記の四群(拝観順)に大別され、それぞれの群の構成・特徴は次のようになっている。 ホキ石仏第2群……2龕(がん)※に分かれ、九品(くほん)※の阿弥陀像・阿弥陀三尊像 ホキ石仏第1群……4龕に分かれ、地蔵十王像・如来三尊像・如来三尊像・如来三尊像 山王山石仏 ……三体の如来像 古園石仏 ……大日如来像を中心にした十三体 「 中尊の大日如来像は、切れ長の目に引きしまった口元が極めて端正で気品あ ふれる表情を作り、各方面から限りない絶賛を受けている。以前は、落ちた仏頭 が仏体下の台座の上に安置され、長く人々に愛され続け、世界的にも有名であ ったが、保存のための修復に合わせて仏頭も昔日の見事な姿に復位された。 」 (臼杵石仏パンフレット) ※龕(がん)= 仏像などを安置するお堂のような形のもの。 ※九品(くほん)= 極楽浄土に往生する者の生前に積んだ功徳の違いに応じて分けた九等 の階位。上品・中品・下品(げぼん)の三品に、それぞれ上生・中生・下生(げしょ う)の三等がある。三三品(さんさんぼん)。観無量寿経に基づく。[ 広辞苑第六版] ☆すべてのランクの衆生を救おうということで造られたのが九体仏。 奈良(正式には京都府木津川市加茂町)の浄瑠璃寺(九体寺)の九体阿弥陀仏が有名。 |
||
臼杵に現存する60余体の石仏(単独石仏・磨崖仏)は、そのうち59体が国宝の指定を受けており、いずれも日本を代表する石仏だが、誰が、何のために、いつごろ造営したのか、文献等が残っていないためはっきりしたことはわかっていない。が、ほとんどは平安時代後期から鎌倉時代にかけて彫られたのではないかされているようである。 また、造営に関しては、土地の人々から「真名の長者」と呼ばれた炭焼の古五郎夫妻が、都に戻った求婚者の皇子のもとへ行く途中、大渦巻きに呑まれて海で悲しい最期を遂げた娘・般若姫の供養と、自身の罪障消滅のために、中国から渡来した蓮城法師や彫刻師らの力を借りてここ深田の里に大石仏群の造営を行ったという伝説もあるという。 |
||
〔野上弥生子〕 明治十八年に酒・味噌・醤油などの生産・販売などを営む小手川家に生まれ、十四歳まで臼杵で過ごした。その後上京した弥生子は明治女学校で自由主義的教育を受けたりした後、同郷の夏目漱石門下の野上豊一郎と結婚。夫を通じて漱石の指導を受け、小説を書き始める。臼杵で実際に起こった遭難事件をモデルにした「海神丸」が出世作となった。以後、昭和の戦中・戦後を通じて、その倫理性や知性を軸に、ひろく同時代の市民生活や社会問題を取り扱った大作を書くなどの活動を続け、「迷路」で読売文学賞、「秀吉と利休」で女流文学賞を受賞。昭和四十六年には文化勲章を受章。昭和六十年に九十九歳で没するまで現役の作家として活躍した。「女性である前にまず人間であれ」などの言葉を残している。 |
阿弥陀三尊像 | 如来三尊像 | 地蔵十王像 |
古園石仏(右 大日如来像) | 稲葉家下屋敷 | 野上弥生子生家 |
〔別府・地獄めぐり〕 『地獄めぐり 観覧券』綴り 末尾の解説 引用 「 波静かな別府湾のふところ深く鶴見連峯の山裾に別府八湯と呼びなす温泉郷「国際観光都市別府」の泉源と言われる地獄があります。地下二百米の深さから℃百度内外の噴気や熱湯そして熱泥を色とりどりに地上に噴き上げる様相も物凄く奇観の極みであります。 地獄とは平安朝の頃おい発生しました言葉で仏教の伝来によって経典の焦熱地獄になぞらえたものであります。千年前の豊後風土記には湯井と記されその名を慍湯(いかりゆ)の井と呼びなされていました。 この地獄こそ別府観光の随一を誇るもので見のがすことのできないものでありまして修学旅行には社会科の教材ともなっています。皆様のお来観を心からお待ち申しています。」 パンフレット『JIGOKU ようこそ「地獄」へ 別府地獄めぐり』 の説明文 引用 地獄めぐりコース 一度見たら死んでも忘れない Beppu "JIGOKU" Tour 地獄の名称由来 ここ鉄輪(かんなわ)・亀川の地獄地帯は、千年以上も昔より噴気・熱泥・熱湯などが噴出していたことが「豊後風土記」に記せられ、近寄ることもできない、忌み嫌われた土地であったといわれています。そんなところから、人々より「地獄」と祢せられるようになりました。今も鉄輪では 温泉噴出口を「地獄」とよんでいます。 海地獄… 神秘的で涼しげなコバルトブルーの池。じっとみていると海のようですが、実は摂氏98度もあるの です。今から1200年前に、鶴見岳の爆発によってできました。 山地獄… 山のいたるところから噴気が上がっているため“山地獄”といいます。温泉熱の利用により保育さ れている世界各国の珍しい動植物はみんなイキイキ。泉温90度。 カマド地獄… 昔から氏神竈門(かまど)八幡宮の春秋二度の大祭に地獄の噴気で御供飯を炊いてお供えす る習わしがあるところから、この名称がつきました。 猛烈な噴気と共に高熱温泉を湧出していま す。泉温90度。 鬼山地獄… 鬼山という地名に由来する鬼山地獄は、別名「ワニ地獄」の名で親しまれています。大正12年 に日本で初めて温泉泉熱を利用し、ワニの飼育を始め、現在150頭のワニを飼育しています。 泉温98度。 白池地獄… 噴出時は、無色透明の熱湯ですが池に落ち、温度と圧力の低下により青白色を呈してきま す。園内では、温泉熱を利用して、各種の大型熱帯魚を飼育しています。泉温95度。 金竜地獄… 湧出量は別府随一。11ヶ所の市営温泉の供給源てす。その噴気が朝日のなか、あたかも金 色の竜が昇天するように見えるところから、金竜地獄と呼ばれています。泉温97度。噴気102度。 血の池地獄… 煮えたぎる粘土は、噴気までが赤色。万葉集に『赤池』と記された日本最古の天然地獄で す。ここから産出する熱い粘土で、皮膚病に効く“血の池軟膏”がつくられています。泉温78度。 竜巻地獄… 天然記念物指定の“間歇泉”。50メートル以上の力をもって熱湯が突然に噴き上がるのには、 ただただビックリ。ほぼ25分間隔で地球のチカラを見せてくれます。 |
||
〔竹瓦温泉〕 たけがわら温泉。別府温泉最古の市営浴場で、シンボル的な温泉。明治12年(1879)創設で、当初建築されたものは竹屋根葺きの浴場でその後改築されたものが瓦葺きであったため、竹瓦温泉の名称がついたと伝えられているとのこと。昭和13年(1938)に建設された現在の建物の正面母屋は入母屋造り(左側には寄棟造りの部分もある)、玄関の屋根は唐破風(からはふ)造りで、全体としてどっしりとした風格があり、何ともいえないレトロな趣がある。 男女別普通浴と砂湯があり、どうしようかと思ったが、めったにないチャンスなので両方に入ってみることにした。普通浴の浴室は昭和前期の浴室そのままの感じでそう広くはない。湯はかなり熱かった。名物の砂湯は浴衣を着て砂の上に横たわると砂かけさんが温泉で暖められた砂をかけてくれる。砂の重さとほんわかとした熱気が何ともいえず心地よい。 |
別府 海地獄 | 山地獄 | 血の池地獄 | |
竜巻地獄 | 地獄めぐり 観覧券とパンフレット | 竹瓦温泉 |
〔第6日〕 8月6日( 火 )
地域・場所 | ルート・観光・見学箇所等 | 着時刻 | 発時刻 | メーター | 説 明 ・ 案 内 等 |
別 府 | 亀の井ホテル ―R10― | 8.26 | 544.9 | ||
国東半島 | 下市北―K655― (寺巡り) | 9.05 | 国東六郷満山(寺巡り) | ||
熊野磨崖仏 | 9.14 | 10.10 | 577.7 | 高さ8mの不動明王と6.8mの大日如来磨崖仏。我が国最古・最大の磨崖仏とされている。国重文。鬼が一夜で築いたとされる石段もある。 | |
真木大堂(伝乗寺) | 10.15 | 10.48 | 581.3 | 六郷満山の本山本寺として最大であった伝乗寺の衰亡した各寺坊の仏像を収容している御堂。九体の仏像が重文、白牛にまたがった大威徳明王像は大きさ日本一と言われる。独特な宝塔の国東塔などもある。 | |
富貴寺 | 10.53 | 11.20 | 587.2 | 平安後期建立の簡素で優美な屋根を持つ金堂は日本三大阿弥陀堂(宇治の平等院鳳凰堂、福島の白水阿弥陀堂。諸説あり)の一つで国宝。内陣本尊の阿弥陀如来坐像・堂内壁画は重文。 | |
長安寺 | 11.35 | 12.10 | 596.5 | 藤原時代の秀作とされる像高1.6mの太郎天像(不動明王の化身)と両脇時の二童子立像、法華経を刻んだ19枚の銅版経が重文。 | |
天念寺・川中不動 | 12.20 | 12.35 | 603.1 | 天念寺前の川の中の大岩に素朴な表情の不動明王と矜羯羅童子、制多迦童子が刻まれている。 | |
無動寺 | 12.50 | 13.12 | 607.7 | 本堂には本尊不動明王の他、薬師如来、大日如来など十数体の仏像を安置。本堂裏山の石仏公園には十六羅漢像などがある。 | |
椿堂 | 13.14 | 13.33 | 608.2 | 弘法大師修行の故地にある寺院。豊後四国八十八ヶ所の四十八番(椿観音)、四十九番札所(椿大師)。九州三十三観音の第十二番札所。 | |
応暦寺 | 13.40 | 13.45 | 611.0 | 本堂には不動明王等の仏像を安置。寺内には観音堂前の仁王像と大地蔵尊像、石段下の灯明を掲げる童子像など、石造物が色々ある。 | |
休憩・並石ダム近くいやしの里 | 14.20 | 14.25 | 627.4 | ||
両子寺 | 14.43 | 15.28 | 636.2 | 山門手前、苔むした階段下左右に国東最大の石造仁王像があるほか、護摩堂、大講堂、奥の院本殿、国東塔※等がある。 | |
文殊仙寺 | 16.05 | 16.15 | 652.6 | 奥の院の岩窟中から湧き出る水が知恵の水として有名で合格祈願の参詣も多いという。老杉の茂る中、長く続く石段の脇に仁王像が立つ。 | |
岩戸寺 | 16.20 | 16.52 | 656.2 | 「弘安六年」(1283)の銘のある「最古最優」とされる国東塔(重文)、仁王像など鎌倉・室町期のものや平安後期の薬師如来像などがある。 | |
―K544―国東町・浜―R213― ―国見―R213・R10―宇佐― |
宇佐神宮にも寄る予定だったが、時間切れでやむなくカット。 | ||||
―給油(香々地付近)― | [かかぢ] | ||||
真玉付近 | 電話(宇佐のホテル探し)・休憩 | 20分位 | |||
宇 佐 法鏡寺 |
リバーサイドホテル宇佐(泊) | 18.31 | 712.5 | [ 1日走行距離 167.6 ㎞ ] |
※国東塔(くにさきとう)は、大分県国東半島を中心に分布する宝塔の一種。外観上の
特徴は、一般の宝塔には台座がないのに対して、国東塔には基礎と塔身の間に反花
または蓮華座、場合によっては両方からなる台座があることだという。
〔国東六郷満山〕 国東半島には六十余ものたくさんの寺があるというが、通常それらをまとめて「六郷満山」と呼んでいるようだ。「六郷満山」とは何なのか。 渡辺克己著 『国東六郷満山 霊場めぐり』 ( 国東六郷満山霊場会発行 ) という本の説明が簡潔でわかりやすかったのでその一部を引用させてもらいます。 |
||
|
国東半島 熊野磨崖仏 | 真木大堂(伝乗寺) | 富貴寺阿弥陀堂(国宝) |
川中不動(天念寺) | 無動寺 十六羅漢像 | 応暦寺 石段下童子像 |
両子寺 | 両子寺 石造仁王像 | 国東塔(重文) |
〔第 7 日〕 8 月 7 日( 水 )
地域・場所 | ルート・観光・見学箇所等 | 着時刻 | 発時刻 | メーター | 説 明 ・ 案 内 等 |
宇 佐 | リバーサイドホテル宇佐 |
8.00 | 712.5 | ||
―R10・R213・K110― | |||||
中 津 | 福沢諭吉旧居 | 8.47 | 9.25 | 733.8 | 諭吉が1歳から19歳まで過ごした家。諭吉が自ら改装して勉強部屋にしていた土蔵も残存。記念館には遺品等を展示している。 |
中津城 ―K110・R213― | 9.28 | 9.40 | 734.5 | 黒田如水が築き、細川忠興が江戸初期に大修築した城を昭和39年に復元したもの。美しい形の五層天守閣と二層の櫓がある。 | |
本耶馬溪 | おらんだ橋 | 10.08 | 10.10 | 750.1 | 長崎に多い石積み方式による国内唯一の八連アーチの石造橋。 大正12年完成。橋長116mは石橋では日本一の長さだという。 |
本耶馬渓 | 青の洞門―R213― | 10.12 | 10.32 | 750.4 | 菊池寛の小説「恩讐の彼方に」で知られた、禅海和尚が三十年の歳月をかけて掘り抜いたとされる洞門の一部が、そのまま保存されている。 |
羅漢寺(往復リフト利用) ―R213― |
10.48 | 12.15 | 754.8 | 羅漢山中腹のそば立つ絶壁に口を開けた洞窟に埋め込むように山門や本堂が建てられている。本堂二階舞台からの山の景色の展望は素晴らしい。石段を登っていく途中の無漏洞(むろどう)という洞窟には有名な五百羅漢や無数の石仏が安置され、願掛けのしゃもじがずらりと並ぶ。 | |
深耶馬渓 | 一目八景―K28・R213― | 12.45 | 13.50 | 778.8 | 海望嶺、仙人岩、群猿岩などと呼ばれる多くの奇岩を眺められる所。 |
―中津―R10―豊前―行橋― ―R10―(渋滞)― | |||||
小倉東IC ―九州自動車道― | 16.30 | ||||
門 司 | めかりPA | 16.45 | 17.26 | 882.5 | 関門海峡・下関を南側から眺めることができる。 |
関門海峡 | ―関門橋―下関IC―(一度出て戻る)―下関IC― | ||||
下 関 | 壇ノ浦PA ―関門橋― | 17.40 | 18.00 | 892.0 | 源氏と平家の最後の戦いの場である壇ノ浦を真下に見られるPA。 |
―門司港IC―K72―R3― | |||||
門 司 | 門司港レトロ駐車場 | 18.10 | 898.2 | (徒歩で見て回る) | |
国際友好記念図書館 | 大連市にあるドイツ風建築物を複製した洋館。茶と白のコントラスト、煙突・尖塔部分などが印象的な建物。 | ||||
旧門司税関 | 明治45年(1912年)に建てられた赤煉瓦造り、瓦葺平屋構造の建築物。昭和初期まで税関庁舎として使用された。 | ||||
ブルーウイングもじ( はね橋 ) | 全長108m、日本唯一の歩行者専用の跳ね橋。1日6回開橋。 | ||||
旧大阪商船 | 大正6年に大陸航路の待合室として使われた洋風2階建ての建物。オレンジ色の外壁と八角形をした塔が印象的。塔は灯台としても使われていた。 | ||||
旧門司三井倶楽部 | 大正10年(西暦1921年)、谷町に三井物産の社交倶楽部として建築。平成2年、JR門司港駅前に移築されたもの。木造二階建てのハーフティンバー様式で、白い窓枠と茶色の露出した梁や柱・灰色モルタル壁との対比が美しい。 | ||||
門司港駅 | 大正3年(西暦1914年)に建てられ、全国で唯一、国の重要文化財に指定されている九州で最も古い木造の駅舎。外観は、ネオ・ルネッサンス様式で、左右の造りが対称的なのが特徴。現役の駅舎。 | ||||
門司港レトロ駐車場 |
19.00 | 898.2 | |||
―R3―(渋滞)― | |||||
小 倉 | 北九州第一ホテル (泊) | 19.53 | 913.2 | [ 1日走行距離 200.7 ㎞ ] |
〔福沢諭吉〕 福沢諭吉といえば、「天ハ人ノ上ニ人ヲ造ラズ人ノ下ニ人ヲ造ラズト云ヘリ」というあまりに有名な一節で始まる『学問のすすめ』を思い出すが、この本を初め、福沢が書いたものの中には、確かにもう古くなってしまった内容もあるが、百数十年もたち、「民主社会」になったはずの今でも、我々がしっかりと心に刻み、いろいろ考えなければならない言葉もいろいろある。 世の中にむつかしきことをする人を貴き人といひ、やすきことをする人を賤しき人といふなり。本を読み、物 事を考へて、世間のために役に立つことをするはむつかしきことなり。されば人の貴きと賤しきの区別は、た だその人のする仕事のむつかしきとやすきによるものゆゑ、いま、大名・公卿・さむらひなどとて、馬に乗り たり、大小を差したり、形はりつぱに見えても、その腹の中はあきだるのやうにがらあきにて……ぽかりぽ かりと日を送るものはたいそう世間に多し。なんと、こんな人を見て貴き人だの身分の重き人だのいふはず はあるまじ。ただこの人たちは先祖代々から持ち伝へたお金やお米があるゆゑ、あのやうにりつぱにして ゐるばかりにて、その正味は賤しき人なり。 〔福沢諭吉『日々のをしへ』(幼児のために書いたもの)の一節 〕 |
||
〔青の洞門〕 鎖に頼って通るしかない断崖絶壁の難所で通行人が命を落とすのを知った諸国遍歴の途中の禅海和尚が、隧道(ずいどう)を掘って安全に通れる道を作ろうと、托鉢勧進して資金を集め、手助けしてくれる石工たちを雇って30年かけて完成させたといわれている。保存されている洞門の一部には当時のノミの跡も残っている。この話を元にして菊池寛が書いたのが小説『恩讐の彼方に』で、この小説の中でこの洞門が「青の洞門」とされている。 |
||
福沢諭吉生家 | 中津城 | 耶馬溪 競秀峰と青の洞門(右下) |
禅海和尚像 | 耶馬溪 おらんだ橋 | 羅漢寺 |
羅漢寺 無漏洞(むろどう) | 羅漢寺本堂 | 深耶馬渓 一目八景 |
〔門司港レトロ〕 明治から大正にかけての洋館が、昔、大陸との貿易の要衝として栄え、モダンでシックな洋風建物が立ち並んでいた門司港周辺に集められてレトロな街並みが再現され、異国情緒が漂っている。上記の建物などを見学しながら、海岸沿いのプロムナードを歩くのも楽しい。いろいろ変化する噴水を見ながら門司港駅前広場で休憩するのもまた心地よい。 |
||
〔小倉〕 小倉城・松本清張記念館・森鴎外旧居など寄ってみたい所がいくつかあったが、時間が足りず、寄れなかった。翌日以降も予定にゆとりはないので断念した。 |
関門橋(めかりPAから) | 門司港レトロ 国際友好記念図書館 | 旧門司税関 |
旧大阪商船 | 旧三井倶楽部 | 門司港駅 |
〔第8日〕 8月8日( 木 )
地域・場所 | ルート・観光・見学箇所等 | 着時刻 | 発時刻 | メーター | 説 明 ・ 案 内 等 |
小 倉 | 北九州第一ホテル | 8.10 | 913.2 | ||
小 倉 | 足立IC―都市高速四号線― | 8.15 | |||
八幡IC―九州道― | 8.35 | ||||
古賀SA―九州道― | 8.50 | 9.05 | 959.1 | ||
太宰府 | 太宰府IC― | 9.35 | |||
太宰府 | 大宰府政庁跡(都府楼跡)※ | 9.38 | 9.50 | 990.2 | 六世紀後半頃から筑前国に置かれ、西海道(九州)を統括し,外交と防衛の任にあたった政庁(「遠の朝廷(とおのみかど)」)の跡。現在は当時の威勢をしのばせる数十の礎石が残るのみ。 |
観世音寺 | 9.53 | 10.20 | 991.1 | 天智天皇が母斉明天皇の冥福を祈るために創建したとされる寺。建物は近世のものだが、九州随一の仏像彫刻の宝庫といわれる。 | |
太宰府天満宮 | 10.25 | 11.46 | 992.3 | 学問の神様として知られる菅原道真を祀った天満宮の総本社。 | |
太宰府IC―九州道― | 11.58 | ||||
鳥栖JCT―長崎道― 東背振IC―R385― |
|||||
吉野ヶ里 | 吉野ヶ里歴史公園 | 12.30 | 14.30 | 1033.8 | 佐賀の北東にある吉野ケ里遺跡は、今から2300~1700年前、弥生時代の遺跡としては最大級の環濠集落。 |
―R385―東背振IC(14.38)― ―長崎道―鳥栖JCT(14.47)― ―九州道― |
|||||
広川SA―九州道― | 15.00 | 15.15 | 1071.4 | ||
八女IC―R442― | 15.25 | ||||
八丁牟田―K23―矢加部― ―R208―下百町― |
|||||
柳 川 | 松月川下り(どんこ船)乗船場 | 16.00 | 北原白秋の故郷として知られる、柳川藩立花氏12万石の城下町。 | ||
川下り(どんこ船) | (一周・往復。※通常は「御花」西側の下船場までの片道) | ||||
松月川下り(どんこ船)乗船場 | 18.50 | 1092.1 | |||
平野屋旅館 | 18.54 | 19.30 | 1093.1 | (休憩・荷物整理) | |
ウナギ本家本吉(夕食) | |||||
平野屋旅館 (泊) | 20.30 | [ 1日走行距離 179.9 ㎞ ] |
※「太宰」と「大宰」 『 「百官の長」の意。古来、官名は「大」、地名は「太」と使い分ける。』(広辞苑)とのこと。 |
〔観世音寺〕 天智天皇が母斉明天皇の冥福を祈るために創建した寺とされるが、完成したのは発願から約80年も経った746年(聖武天皇治世)といわれている。現在残る観世音寺の建物はすべて近世の再建で、昔の面影はないが、梵鐘のみは日本最古のものの一つといわれ、国宝になっている。建物は早くに焼失したりしたが、仏像は平安末からの優れたものが多数残っており、九州随一の仏像彫刻の宝庫とされている。所蔵する仏像のほとんど、二十体近くが国重文になっている。 木造馬頭観音立像。像高5メートルを超える平安後期の大作。 木造不空羂索観音立像。像高5.2メートル。 木造十一面観音立像。像高5メートル。 など |
||
〔太宰府天満宮〕 学問の神様として知られる菅原道真を祀った、全国にある天満宮の総本社。905(延喜5)年に道真の門弟が祠堂を建てたのに始まり、919年に社殿が築造されたと伝えられている。京都の北野天満宮とともに天神信仰の中心。梅の名所としても知られている。1591(天正19)造営の豪壮華麗な本殿は国重文。 〔菅原道真〕は平安時代前期の貴族・学者。漢詩・書などにも優れた才能を発揮したが、宇多天皇に重用され、文章博士・蔵人頭・参議などを歴任した。遣唐使に任ぜられたが、その廃止を建議したりもした。醍醐天皇の時に右大臣となったが、901年(延喜1)政敵である藤原時平の讒言(ざんげん)により、醍醐帝に対する謀反を企てたとして、大宰権帥(だざいのごんのそち)に左遷された。宇多帝や都で亡くなった妻・残して来た子らのことを思い、都に帰ることをひたすら願いながら、二年後に、濡れ衣を晴らすこともできず、恨みを遺したまま、配所の太宰府で没した。死後、京都で種々の怪異なことが続いたため、道真の祟りとされ、その魂を鎮めるために天神として北野天満宮に祭られることになったという。その後は学問の神として尊崇されるようになって現在に至っている。 道真が都を去るにあたって、 「東風(こち)吹かば にほひおこせよ 梅の花 主(あるじ)なしとて 春を忘るな」 と歌を詠んだところ、あるじ(道真)を慕った梅は、道真の後を追うように一夜のうちに太宰府の道真の元へ飛んで来たという「飛梅伝説」がよく知られている。 |
大宰府政庁(都府楼)跡 | 大宰府政庁(都府楼)跡 | 観世音寺本堂(講堂) |
観世音寺 鐘楼(梵鐘は国宝) | 太宰府天満宮 楼門 | 太宰府天満宮 本殿 |
[吉野ケ里歴史公園] 佐賀の北東にある吉野ケ里遺跡は、今から2300~1700年前の遺跡で、弥生時代の遺跡としては最大級の環濠集落だという。発掘された銅剣や美しいガラス製の管玉などや、その集落跡と墓地の全容などはまさしく「魏志倭人伝」の世界を彷彿とさせ、当時の絶大な規模と権力を現在にリアルに伝えているという。 以下に、公園発行のパンフレットの説明の一部を紹介しておきます。 吉野ヶ里の歴史 弥生時代は約600年間も続く長い時代です。吉野ケ里遺跡では、この長い弥生時代の全ての時期の遺構・遺物が発見されています。しかもそれぞれの時期の特徴をよく表しているものが見つかっており、この時代にどのように社会が変化じていったのかが1つの遺跡で分かる極めて学術的価値の高い遺跡です。 吉野ケ里歴史公園では「弥生時代後期後半(紀元3世紀頃)」を復元整備対象時期として、これまでの発掘調査成果をもとに復元整備を行っています。 弥生時代前期(紀元前3~2世紀) 吉野ケ里の丘陵一帯に分散的に「ムラ」が誕生しました。やがて南 側の一画には環壕をもった集落が出現し、「ムラ」から「クニ」へと発展する兆しが見えてきます。 弥生時代中期(紀元前2世紀~紀元1世紀) 丘陵を一周する大きな外環壕が掘られます。首長を葬る 「墳丘墓」やたくさんの「かめ棺墓地」も見られます。集落の発展とともに、その防御も厳重になっ てきていることから「争い」が激しくなってきたことがうかがえます。 弥生時代後期(紀元1~3世紀頃) 国内最大級の環壕集落へと発展し、大規嘆なV字形の外環壕によ って囲まれ、さらに特別な空間である2つの内郭(北内郭・南内郭)をもつようになります。特に北 内郭では大型の建物が登場し、吉野ケ里の最盛期にあたります。 発掘された主な遺構 環濠 集落を外敵から守る壕(ほり)です。集落全体を守る大きな外壕と、その内側を区画する内壕があり ます。外壕は総延長2.5km、囲んでいる範囲は40ha、福岡ドームが約6個も入る広大なものです。 物見櫓 敵の見張りや集落の威容を示すシンボル的な役目を持つと考られる高層の建物です。半円形 に張り出した壕の内側に建てられており吉野ヶ里にだけしかない特色的なものです。 竪穴住居 地面を掘り下げて作った半地下式の住居です。時代や地域によって住居の形が丸や長四角 のもの、構造も2本柱や4本柱など様々なものがあります。 甕棺 甕棺とは棺おけのことで、弥生時代の北部九州だけに見られる特色的なものです。吉野ヶ里では、 長さ600mにも渡って2列に埋葬された「甕棺墓列」をはじめ、丘陵の各所にたくさんの墓地が設け られています。 遺跡の発掘と保存・活用 吉野ケ里遺跡は国の特別史跡に指定された大切な文化財です。公園の整備にあたっては、この遺跡を 損なわないように盛土で保存し、その上に建物の建築や樹木の植栽を行っています。 |
北内郭 主祭殿と物見櫓 | 主祭殿 2階展示 | 主祭殿を囲む板壁 |
防護用の 環濠と逆茂木 | 竪穴住居(「中のムラ」) | 甕棺墓列(発掘作業中) |
〔 柳 川 〕 水郷・柳川は、大昔、一面に葦の生い茂る湿原だった地に溝を掘り、その土を盛り上げて開拓し、干拓地を造成しながら灌漑と排水を担う掘割(クリーク)を網の目状に形成していってできあがった町だという。市内外に残る条里の遺構や地名はその営みの古さを物語っているともいう。この縦横に走り、あちこちに通じるクリークが柳川地方の景観の特徴となっている。慶長6年(1601年)から田中吉政が、元和6年(1620年)から立花宗茂がこの地を治め、その治水・干拓事業などにより今日の社会的、物的環境の基礎が整えられたという。
柳川は十三代400年ほど続いた柳川藩立花氏12万石の城下町だったのだが、柳川城の跡は本丸だったところの石垣がわずかに残る他、川下りに使っている内堀以外はほとんど残っていない。 |
||
〔どんこ舟〕 縦横に掘割が堀り巡らされている水郷・柳川観光の主役はやはり「どんこ舟」と呼ばれる川下り舟であろう。西鉄柳川駅から徒歩5分位の所にある乗船場から出発。両岸から掘割を覆うようにさしかける木々の枝をくぐるようにして進む所、水汲み・洗い場のある所、季節の花がきれいに咲いている所、赤レンガの並倉や白壁の土蔵が水面に影を落とす所など、次々に豊かに変化してゆく風景の中を、船頭さんのやわらかく、滑らかな説明の語りを聞きながらゆっくりと舟は進む。通常、白秋の生家に近い沖端付近の下船場までの1時間ちょっとの船旅だ。 通常と書いたのは、この時は特別だったからだ。吉野ヶ里を見てから柳川へ向かう途中、「どんこ舟」の営業時間を考え、やや焦り気味に走って、乗船場に着いたのがちょうど4時。ぎりぎりの時間だった。幸い、時間が遅いせいか他の客はなく、舟は当方二人の貸切になった。船頭さんも客が二人きりで気楽だったのだろうか、きさくに普通はしないであろうようないろいろな話や説明をしてくれて、大変楽しい船下りだった。そろそろ終点かなと思う頃、船頭さんが、「普通はこの先の下船場からバスで戻ってもらうんだが、今日はもうこのまま戻りだから、ついでに乗船場まで乗せていってあげるよ。」 と言ってくれた。「ラッキー」と喜んだことは言うまでもない。帰りは今までとは別の掘割を通るので、思いがけず一周することになったのだった。普通なら見ることのできない所まで見ることができて、本当に楽しく、満足した「どんこ舟」の船下りだった。 |
||
〔平野屋旅館〕 ビジネスホテルがいくつかあるだろうと宿は決めないまま柳川に着き、どんこ舟に乗る前に電話したのだと思う。時間を気にしながら調べてみると手頃な旅館は二つだけ。最初の宿は誰も電話に出ず。急ぎ二つ目の宿に電話すると、ご主人と思われるご老人が出て、「わし一人だから夕食は出せないが、朝食だけでよければ泊めてあげるよ」とのこと、近くに食事できるところはありますかと聞くと、「いいところがあるから教えてあげる」という。舟に乗る時間のこともあるので、お願いしますとここに決めて乗船場へと急いだのだった。 船下りを終えて宿に行ってみると、古い建物ではあるが、昔からの旅宿という感じの風格のある宿であった。ご主人は部屋に案内するついでに見せたいものがあるといって2階に上がり、一つのいい造りの部屋を見せてくれた。北原白秋が滞在していた部屋だと言う。「わし一人になってから掃除もできてないが」と言いながら、少々ほこりのたまった白い布をかぶせたソファーを白秋先生がよく座っていたものだよと教えてくれた。しみじみと昔を懐かしむ感じでいくつかの思い出話をしてくれた。後で、観光協会発行のパンフレットをよく見てみると、「北原白秋が最後の帰省をしたとき指定して泊まった 白秋ゆかりの宿」 として「平野屋旅館」を紹介してあったのだった。 〔うなぎ〕 ご主人の思い出話などををうかがった後、食事に行くというと教えてくれたのが、柳川名物のうなぎの有名な店「本吉屋」であった。教えてもらったとおりに5分ほど歩いて行くと、暗く人通りのない普通の住宅街に入っていく。「えっ、こんな所にあるの」と思いながら行くと、看板が見えた。やや立派な民家風のお店だった。ガイドブックで見た記憶はあったものの、食にこだわりがなく、ご存知のような安上がりの旅を続けている小生には縁がなく、普通ならわざわざ行くところではないが、宿を決めるときのいきさつもあるし、うなぎは好物でもあるので今回は特別、覚悟を決めて店に入った。美味しかったことは言うまでもない。渋い顔をしていたに違いないわが財布もこれならと満足しているようであった。 翌朝は、結婚して別の所に住んでいる娘さんと思われる人が来ていて、ちゃんと朝食を用意してくれていた。偶然、思いもかけず、人柄のよいご主人が守る、由緒ある昔ながらの「お宿」に泊まることができた、なにかうれしい感じの一宿であった。 |
柳川 川下り(ドンコ舟) | 柳川城水門 | 川下り |
川下り | 白秋「まちぼうけ」歌碑 | 赤レンガの並び倉 |
〔第 9 日〕 8 月 9 日( 金 )
地域・場所 | ルート・観光・見学箇所等 | 着時刻 | 発時刻 | メーター | 説 明 ・ 案 内 等 |
柳 川 | 平野屋旅館 | 8.50 | 1093.1 | ||
御花P | 9.00 | 1095.2 | |||
御花…徒歩6分… | 御花見学 | ||||
北原白秋生家・白秋記念館 …徒歩… |
北原白秋生家・白秋記念館見学 | ||||
御花P―K770― | 10.00 | 1095.2 | |||
―柳川署前―R208―矢加部― ―K23―八丁牟田―R442― |
|||||
八女IC― | 10.40 | ||||
広川SA―鳥栖JCT(11.12)― | 10.43 | 11.00 | 1117.7 | ||
金立SA― | 11.25 | 11.33 | 1158.8 | 電話(宿決め) | |
武雄北方IC(12.00頃)―R498―伊万里―R204― | |||||
今福港(昼食) | 13.13 | 13.48 | 1240.5 | ||
―R204―松浦―田平― | |||||
平 戸 | 平戸大橋 | 14.20 | 平戸は鎖国前の南蛮貿易港で、旧平戸藩(松浦氏)の城下町。 | ||
平戸城 | 14.25 | 15.05 | 1268.6 | 平戸松浦氏の平戸藩8代164年間の居城だった城。 | |
平戸港駐車場(徒歩で見学) | 15.12 | 1270.0 | |||
平戸観光資料館 | 「山鹿素行」関係の品を多数展示、「ジャガタラ文」などの展示もある。 | ||||
オランダ商館跡・常灯の鼻等 | 市街の北東端にあるオランダ商館関係の史跡。 | ||||
崎方公園 | ザビエル記念碑 | 宣教師ザビエルが平戸で布教したことを記念して建てたもの。 | |||
三浦按針墓 | 平戸で病没したウイリアム・アダムス(日本名・三浦按針)の墓。 | ||||
松浦資料博物館 | 旧藩主松浦氏の邸宅を利用したもので、多方面の資料を多数展示。 | ||||
平戸港駐車場 | 16.30 | 1270.0 | |||
ザビエル記念聖堂 | 16.38 | 16.45 | 1270.8 | ザビエルの布教を記念して造られたカトリック教会。 | |
最教寺 | 16.53 | 17.35 | 1272.6 | 「西の高野山」と呼ばれる古刹。 | |
プチホテルたびらんど (泊) (旧国民宿舎たびら荘) |
17.46 | 1278.1 | [ 1日走行距離 185.0 ㎞ ] |
〔御花〕 1697(元禄10)年に造営された柳川藩主立花氏の別邸で、当時「御花畠」と呼ばれていた地にあったことから「御花」と呼ばれてきたという。正門の正面には明治43年建造の「西洋館」と呼ばれ、迎賓館として使われたという白壁と緑青の屋根が美しい鹿鳴館風の洋館、その奥には総桧造りの本館がある。さらにその奥、本館大広間の前には、松島を模して造られたという国指定名勝庭園の松涛園が広がっている。 明治維新後は立花氏の本邸となったが、現在は割烹旅館として利用されている。資料館「殿の倉」には歴代藩主着用の甲冑・陣羽織を初め、さまざまな生活用具等、旧藩主の生活ぶりや武家文化の一端をうかがわせる数々の品が収蔵・展示されている。 |
||
〔北原白秋生家・記念館〕 明治・大正・昭和と生き、童謡や詩歌の分野に大きな足跡を残した北原白秋は代々柳川藩御用達の海産物問屋を営む旧家に生まれ、19歳で上京するまでこの地で育ち、暮らした。16才の時に家が大火にあい、傷心の白秋は詩歌の創作に熱中したといわれる。大学のときには早くも、詩壇に知られるようになって活躍を続け、数多くのすぐれた作品を残した。「水郷柳川は、我詩歌の母体である」と述べ、57才で亡くなるまで生涯柳川を愛した白秋の作品の中には柳川の風景をつづった詩が数多く残されているという。 造り酒屋でもあった白秋の生家は、明治34年の大火で酒蔵などその大半は焼失。この母屋だけが残っていたが荒廃していたため、昭和44年11月に復元され、一般公開された。それが、なまこ壁の美しい現在の建物。裏手にある白秋記念館〔柳川市立歴史民俗資料館〕内には白秋の著書や遺品等が陳列され、ありし日の白秋の面影をしのぶことができる。 |
御花 洋館 | 松濤園 | 御花 本館 |
御花の西 掘割 | 北原白秋生家 | 柳川観光案内図 |
〔平 戸〕 平戸は平戸島の北端近くにある街で九州最西端の都市。平安時代には大陸に向かう遣唐使船の最後の寄港地だったりして、古くから大陸交流の玄関口として栄えた所。1550(天文19)年のポルトガル船の入港以来、イギリス・スペイン・オランダなどの船が次々に来て、日本最初の国際貿易港としてにぎわうようになったが、鎖国後、1641(寛永18)年に貿易港が長崎だけにしぼられたため次第に衰退した。 イギリスやオランダが商館(オランダのは東洋一の規模だったという)を設置したり、日本に初めてキリスト教を伝えたフランシスコ・ザビエルが布教活動を行ったりして、平戸にはさまざまな南蛮文化が伝えられ、根付いた。 平戸が「海賊とキリシタンの島」と言われることもあるのは、平戸が、鎌倉から戦国時代にかけて、来襲した蒙古軍に応戦したり、倭寇(わこう)と呼ばれる海賊として大陸沿岸を荒らしたりしたことで知られる「松浦(まつら)水軍」の活動の拠点だったからだという。 |
|||
〔平戸城〕 平戸市街の港を挟んだ対岸の、平戸港や平戸市街一帯を見下ろす高台に建つ。松浦党の一派であった平戸松浦氏の平戸藩8代164年間の居城だったもの。元の城は維新後に解体されたが、現在は、その時残された狸櫓と北虎口門(搦手門)のほか、昭和37年(1962年)に建造された三層五階の模擬天守、復元の見奏櫓・乾櫓・地蔵坂櫓・懐柔櫓などがある。明治に解体された城は、1718年に江戸時代の儒学者・兵学者であった山鹿素行の軍学に沿った縄張りによって再築されたもので、珍しいものだったという。天守内は松浦党などの資料館となっており国重文の環頭大刀なども展示されている。 |
|||
〔オランダ商館跡〕 平戸桟橋の東側一帯はオランダ東インド会社平戸支店があった所で、オランダ商館があったという。商館の台所にあったオランダ井戸、オランダ船が出入りに使った埠頭、倉庫の壁の一部、目隠しのためのオランダ塀、航行の目印にした常燈の鼻と呼ばれる防波堤などが現在残っている。 |
|||
〔崎方(さきかた)公園〕 商館跡の北側から西側にかけての高台にある公園。オランダ塀沿いに石段と坂道を登った所にある。ここには、ジャガタラ娘像、三浦按針の墓、ザビエル記念碑などがある。 |
|||
〔ジャガタラ娘・ジャガタラ文〕 徳川幕府は鎖国した際、オランダ人などの外国人を国外に退去させたが、同時にその日本人妻や混血の子供たちもジャガタラ(インドネシアのジャカルタ=バタヴィア)に追放した。その日本人妻や混血児たちが、故国の親戚や知人に送った手紙を「ジャガタラ文(ぶみ)」という。 現在四人のものが残存しているというが、故郷日本を思う情の切々たるものが書かれた、「ジャガタラお春」と 「こしょろ」という女性のものがよく知られている。 ジャガタラお春の文 (略) おもひやるやまとの道のはるけきもゆめにまぢかくこえぬ夜ぞなき 御ゆかしさのまゝ、腰おれかき付まいらせ候。 (略) 松かさ、この手がしわのたね、杉のたね、はうきぐ さのたね、御ゐんしん(音信)たのみまいらせ候。かへすがへすなみだにくれてかきまいらせ候へば、しど ろもどろにてよめかね申べくまゝ、はやはや夏のむしたのみ入候。我身事今までは異国の衣しやう一日 もいたし申さず候。いこくにながされ候とも、何しにあらゑびすとは、なれ申べしや。あら日本恋しやゆか しや。見たや見たや見たや。 じやがたら はるより 日本にて おたつ様まいる こしょろの文 (ジャワ更紗で作られた袱紗(ふくさ)に書かれたもの) 日本こいしや こいしや かりそめにたちいでて 又とかえらぬふるさとと
おもへば心もこころならず なみだにむせびめもくれ ゆめうつつとも さらにわきまへず候へども あまりのことに ちゃづつみ一つ しんじまいらせ候 あらにほんこいしや こいしや こいしや こしよろ うばさままいる ☆ 「ジャガタラお春」のことは「長崎物語」という流行歌にも歌われている。 (昭和14年 作詞 梅木三郎 作曲 佐々木俊一) |
|||
1 赤い花なら 曼珠沙華(まんじゅしゃげ) 阿蘭陀(おらんだ)屋敷に 雨が降る 濡れて泣いてる じゃがたらお春 未練な出船の あゝ鐘が鳴る ララ鐘が鳴る |
2 うつす月影 彩玻璃(いろガラス) 父は異国の 人ゆえに 金の十字架 心に抱けど 乙女盛りを あゝ曇り勝ち ララ曇り勝ち |
||
3 坂の長崎 石畳 南京煙火(はなび)に 日が暮れて そぞろ恋しい 出島の沖に 母の精霊が あゝ流れ行く ララ流れ行く |
4 平戸離れて 幾百里 つづる文さえ つくものを なぜに帰らぬ じゃがたらお春 サンタクルスの あゝ鐘が鳴る ララ鐘が鳴る |
||
〔三浦按針=ウイリアム・アダムズ〕 イギリス人の航海士で、日本に来た最初のイギリス人といわれる。オランダの会社が東洋に派遣した船隊の一隻リーフデ号に乗船し、1598年にロッテルダムを出港したが、1600(慶長5)年、豊後の臼杵(うすき)に漂着した。後に徳川家康の信任を得て、外交顧問として仕え、造船、測量、貿易などを指導したという。相模三浦郡逸見(へみ)に250石の領地を与えられてのち、三浦按針(あんじん)と名乗った。(ちなみに、「按針」は磁石の針の動きによって航路を決める、船の水先案内を意味する言葉。) 1613(慶長18)年、イギリス船が平戸に入港した時には平戸に来て自国船隊のためにいろいろ力を尽くしたりした。帰国を強く望んだが、いろいろなことがあって結局実現せず、平戸に留まったままイギリス商館長コックスの下で貿易発展のためにいろいろ働いたが、1620(元和6)年、平戸で病没(57歳)した。(1564~1620) |
|||
〔フランシスコ・ザビエル(シャビエル)〕 スペイン・バスク地方にあったナバラ王国の貴族で、イエズス会創設者の一人。イエズス会(耶蘇会)はローマ教皇によって認可された男子修道会で、プロテスタントの勃興に対抗してカトリック界の刷新をめざしたり、海外布教や青少年の教育に力を入れたりして活躍した。ザビエルは日本に渡来した最初のイエズス会士という。イエズス会を創設したのち、ポルトガル国王の後援を受けてンドで布教にあたっりしていたが、1547年、マラッカで鹿児島出身のアンジロー※に出会って日本での布教を志した。 1549(天文18)年、中国船により日本人パウロ(アンジローの教名)その他を同伴して鹿児島に上陸した。当初 鹿児島でキリスト教を伝え、布教を行ったが禁止され、平戸に向かった。平戸でも1ヶ月程布教を行った後、日本中央での布教・伝道を目指すザビエルは、山口を経て51年1月(天文19年12月)に上洛し、天皇・将軍の布教許可を得ようとした。が、応仁の乱後の荒廃した京都に失望し、山口の大内義隆に謁見して城下で布教した。さらに大友宗麟に招かれて豊後府内(大分)で布教活動を行ったりした。1551年秋、日本での本格的な伝道準備のために日本を離れたが、中国広東付近で病死したという。その後、イエズス会の宣教師が次々と来日してキリスト教布教活動の盛んな時期を迎えた。 ※アンジロー(弥次郎ともいう) 殺人の罪を犯し、役人に追われて日本を離れた薩摩出身の貿易商 人らしい。マラッカでザビエルに出会い、1548年、ゴアの聖パウロ学院でキリスト教の洗礼を受け た。ザビエルとともに鹿児島に上陸したのち、通訳ならびに案内の役を務めたという。 |
|||
〔聖フランシスコ・ザビエル記念聖堂〕 キリスト教を日本に伝え、平戸でも布教したザビエルの来島を記念して1931(昭和6)年に建てられたカトリック教会。ゴシック式の高く細い尖塔を持つ天主堂は白と緑の色の取り合わせが美しいが、その内部もまた白を基調にした、アーチが幾重にも続く美しい構造を見せてくれる。庭内にはザビエル記念像や殉教者慰霊碑がある。 このあたりにはこの教会を取り囲むように仏教寺院があり、寺院の山門や鐘楼越しに高い教会の尖塔が見えるという独特な異国情緒の漂う地域になっている。 |
|||
〔最教寺〕 806(大同元)年、弘法大師空海が唐での留学を果たして帰朝した際に護摩修法を行った聖地といわれ、「西の高野山」と呼ばれる古刹。朱塗りの三重大塔は昭和63年に作られたもので、高さ33.5m、日本一の規模を持つという。霊宝館には国重文の仏涅槃図(ねはんず)を初め、多くの仏像、書画等が展示されている。この寺で節分に行われる子泣き相撲はよく知られている。 |
|
平戸城跡 模擬天守閣 | 平戸市街・平戸港(西) | 平戸市街・平戸港(東) |
常燈の鼻 | 三浦按針の墓 | ザビエル記念像 |
聖フランシスコ・ザビエル記念聖堂 | 記念聖堂内 | 最教寺 大塔 |
トップページに戻る | 「はじめに」へ | 「後半行程」へ |