2002年 8月1日(木) ― 17日(土)
前半〔日向~別府~門司~平戸〕 後半〔平戸~熊本~鹿児島~日向〕 行 程 ル ー ト 図 〔 緑 線 〕 |
Copyright(C)2008 ZENRIN CO.LDT |
行程表について ○R118=国道118号線 K329=地方道(都道府県道) 329号線 ※印=推定時刻・距離 ○移動時間の中には場所・時間などを記してありませんが、移動途中の休憩・食事などの時間も含まれています。 ○道を間違えたための迷走、カーナビの誤誘導・遠回り誘導などによって生じたそれほど大きくはない時間のロスはそのままにしてあります。 |
〔第 10 日〕 8月 10 日( 土 )
地域・場所 | ルート・観光・見学箇所等 | 着時刻 | 発時刻 | メーター | 説 明 ・ 案 内 等 |
平 戸 | たびらんど ―R204―佐世保―R35― |
8.20 | 1278.1 | ||
佐世保大塔―西九州自動車道― | 9.45 | ||||
武雄JCT―長崎自動車道― | 10.05 | ||||
大村湾PA | 10.20 | 11.20 | 1367.2 | 長崎の宿探し。週末のためか満室が多く、なかなか決まらず。 | |
―長崎多良見IC―長崎バイパス―K113―R206― | |||||
長 崎 | 平和公園地下駐車場 | 12.15 | ここから徒歩で見学。 | ||
平和公園・平和祈念像 | |||||
永井隆記念館・如己堂 | (にょこどう) | ||||
浦上天主堂 | |||||
原爆資料館 | |||||
原爆中心地公園 | |||||
平和公園地下駐車場 | 14.36 | 1409.5 | |||
県営松ヶ枝駐車場 | 15.05 | 1414.7 | ここから徒歩で見学。 | ||
大浦天主堂 | |||||
グラバー園 | |||||
長崎伝統芸能館 |
日本三大祭りの一つ「長崎くんち」に使われる豪華絢爛な出し物・道具等を展示している。館内の大型スクリーンで祭りの様子を見られる。 |
||||
十六番館歴史史料館 | 長崎ビードロ・ギヤマン・グラバー氏遺品・キリシタン資料等、長崎の歴史・出島貿易関係資料を展示している。 | ||||
孔子廟・中国歴代博物館 | |||||
東山手洋風住宅群 | 明治20年代後半頃に建築された、狭い所に密集して建つ7棟の木造洋館群。現在は6棟が町並み保存センター、資料館等として活用されている。 | ||||
オランダ坂 (活水女子短大下) |
当時「オランダさん」と呼ばれた外国人の居留地付近の坂の呼び名。 | ||||
県営松ヶ枝駐車場 | 17.55 | 1414.7 | |||
ミナトパーク長崎 (泊) | 18.05 | 1415.7 | [ 1日走行距離 137.6 ㎞ ] |
〔平和公園〕 平和公園は長崎市北部、原爆落下中心地北側の丘の上にある。木々の緑に囲まれた園内には、長崎のシンボルであり、平和のシンボルでもある平和祈念像があるほか、「平和の泉」やさまざまなモニュメント、石碑や彫刻などが点在する。 〔平和祈念像〕 彫刻家・北村西望(長崎県出身)制作の平和祈念像は高さ9.7mのブロンズ像で、天を指差す右手は原爆の脅威を、水平に伸ばした左手は地上世界の平和を、軽く閉じた眼は原爆犠牲者の冥福を祈っているのだという。 〔平和の泉〕 平和祈念像の正面奥(南側)には「平和の泉」があり、噴水の南側にある碑には、次のような被爆少女の手記の一部が刻まれている。 のどが乾いてたまりませんでした 水にはあぶらのようなものが 一面に浮いていました どうしても水が欲しくて とうとうあぶらの浮いたまま飲みました ― ある日のある少女の手記から 〔原爆中心地公園〕 平和公園と道路一つ隔てた南側に原爆中心地公園がある。昭和20年8月9日午前11時2分、この地の上空500m程のところで原爆が炸裂して一瞬のうちに長崎の街が焦土と化し、15万人余の死傷者を出したという。落下中心地点には黒御影石の標柱、原爆落下中心地碑がその上空に向かって立っている。公園内には原爆で破壊された浦上天主堂の遺壁、「平和を祈る子の像」等もある。 〔長崎原爆資料館〕 被爆50周年を記念して平成8年に開館した資料館。被爆した浦上天主堂の側壁(再現造型)をはじめ、被爆の惨状を伝えるさまざまな資料を展示している。 |
||
〔如己堂(にょこどう) ・ 永井隆記念館〕 永井隆は、自身のことを省みず、懸命に被爆者の救護に当たったことで知られている医学博士。「長崎の鐘」「この子を残して」の著者。 永井博士は、長崎医科大学物理的療法科部長としての長年の放射線研究による被曝で白血病になり、6月に余命3年の宣告を受けたばかりのうえに、8月の原爆の被災によって頭部に重傷を負ったりまでしながらも、懸命に被爆者への救護活動を続けて9月には昏睡状態に陥ったりした。 原爆で妻や家を失ったうえに、病に倒れた永井隆博士のために、1948(昭和23)年春、浦上の隣人たちやカトリック教会関係者たちが用意し、博士に寄贈した畳二枚、一間の家が如己堂だという。「如己堂」という名は、聖書にある「己の如く人を愛せよ」という言葉から付けられたのだとのこと。如己堂の隣には、「永井隆記念館」があり、博士の遺品・書画・原稿・著書などが展示されている。 博士は二人のお子さんとともに亡くなるまでの3年ほどをこの病室兼書斎の小さな家で暮らしたが、その間病気と闘いながらも原爆に関する医学的な研究や「長崎の鐘」などの多くの著作を残した。昭和23年には来日中のヘレン・ケラーが、24年と25年にはローマ教皇の特使が見舞いに訪れたという。 1951(昭和26)年5月1日、43歳で逝去。 |
||
〔浦上天主堂〕 明治6年まで続いた厳しいキリシタン弾圧に耐えてキリスト教信仰を捨てなかった浦上の人たちがようやく禁制を解かれた後、1879(明治12)年に仮天主堂をもったが、1895(明治28)年から本格的な大聖堂の建築を開始し、30年の歳月をかけて1925(大正14)年にようやく完成させた建物で、双塔レンガ造りの東洋一の教会と言われていたという。が、1945(昭和20)年の原爆投下によって一瞬のうちに破壊されてしまった。現在の天主堂は1959(昭和34)年に跡地に再建されたもの。遺構の一部は原爆中心地公園に移され、保存されている。 |
平和公園 平和祈念像 | 平和公園 平和の泉 | 浦上天主堂 |
大浦天主堂 | グラバー邸 | 孔子廟 |
〔大浦天主堂〕 1863(文久3)年、フランス人フューレ神父が天主堂建設を計画、その協力者プチジャン神父らが天草出身の棟梁・小山秀たちを指導して建設を進め、翌1864(元治元)年年末に、表面を白く漆喰で塗った煉瓦造りの天主堂が完成した。豊臣秀吉の禁教令によって、1597(慶長元)年2月、西坂の丘(長崎駅近くの西坂公園付近)で十字架にかけられて殉教した26聖人にちなんで「日本二十六聖殉教者天主堂」と命名された(通称は地名をつけて「大浦天主堂」)。日本最古のゴシック様式の天主堂で国宝。 |
||
〔グラバー園〕 長崎の街に異国情緒を醸し出していたさまざまな洋館が次第に少なくなってきたのを機に、1970(昭和45)年、そうした洋館を保存しようと、もともと外国人居留地だった所で、旧グラバー住宅などがあった長崎港を見下ろす南山手の丘を整備し、市内各所に散在していたさまざまな明治建築の洋館を移築・復元してグラバー園としたのだという。 園内には九棟の洋館があり、そのうち三棟が国の重要文化財に指定されている。 旧グラバー住宅 …… 日本最古の木造洋館。四葉のクローバーの形をした住宅。 ☆ グラバーは造船・採炭・製茶事業を通して日本の近代化に大きな功績を残したという。 旧リンガー住宅 …… 外壁石造りの木造住宅。重厚優雅な南欧風建築。 旧オルト住宅 …… 高い天井を支えているタスカン様式の列柱が特徴。 その他 旧三菱第二ドックハウス ・ 旧長崎高商表門衛所 ・ 旧長崎地方裁判所長官舎 旧ウオーカー住宅 ・ 旧スチイル記念学校 ・ 旧自由亭 三浦環(みうら・たまき)像 ・ プッチーニ像 ☆ グラバー園はオペラ「蝶々夫人」(プッチーニ作曲)ゆかりの地※とされており、ヒロイン蝶々 夫人を何度も演じ、この物語を世界的に有名にしたオペラ歌手・三浦環の記念像がある。 ※ グラバー夫人の「まつ」が蝶々夫人のモデルだという説があるという。 |
||
〔孔子廟・中国歴代博物館〕 1893年、清国政府と在日華僑の協力によって中国山東省曲阜の総本山・孔子廟なみの伝統美にあふれた孔子廟が造られ、その後何度かの改築を経て現在の本格的な中国式孔子廟になったという。大成殿の東側にある中国歴代博物館は、2Fが北京故宮博物院提供の宮廷文物展、3Fが孔子廟・中国歴代博物館所蔵品展の会場になっており、中国国外ではここでしかみることができないという、中国の国宝級の文物・美術・工芸品などが多数展示されている。 |
〔第 11 日〕 8月 11 日( 日 )
地域・場所 | ルート・観光・見学箇所等 | 着時刻 | 発時刻 | メーター | 説 明 ・ 案 内 等 |
長 崎 | ミナトパーク長崎 | 7.58 | 1415.7 | ||
県営松ヶ枝駐車場 | 8.03 | 8.10 | 1416.7 | (-徒歩・市電利用-) | |
崇福寺(-徒歩-) | |||||
興福寺 (強い雨に降られ、ここから タクシー利用→風頭公園) |
興福寺―TAXI―眼鏡橋―TAXI―風頭公園(かざがしらこうえん)… …徒歩…亀山社中跡…徒歩…二十六聖人殉教地…長崎駅前―市電―出島和蘭商館跡……駐車場 |
||||
眼鏡橋(TAXI途中停車) | |||||
坂本龍馬像(風頭公園) | |||||
亀山社中跡(徒歩) | |||||
二十六聖人殉教地(市電) | 長崎駅前ー(市電)ー出島 | ||||
出島和蘭商館跡(徒歩) | |||||
県営松ヶ枝駐車場 | 11.55 | 1416.7 | |||
―R34―切通―R251―愛野――R57― | |||||
雲 仙 | 雲仙地獄―R57― | 13.23 | 14.42 | 1476.8 | 雲仙は日本で最初に国立公園の指定を受けた所。 |
島 原 | 島原城 | 15.30 | 16.00 | 1502.1 | |
武家屋敷 | 16.05 | 16.52 | 1502.9 | ||
岩永旅館 (泊) | 17.00 | 1504.4 | [ 1日走行距離 88.7 ㎞ ] |
〔崇福寺〕 そうふくじ。寺町南端にある黄檗(おうばく)宗※の古刹。さまざまな文化財があるので、崇福寺の パンフレットの説明を引用します。 〔※ 曹洞宗・臨済宗とともに日本三禅宗の一つ。江戸時代初期、明(みん)の僧・隠元(いん げん)が京都の宇治に黄檗山万福寺(まんぷくじ)を建立して広めたもの。黄檗宗の禅は明 朝風の禅で、日本では独自な宗風を持つ一宗。伽藍様式や法要・法具法服・修行様式な どすべて明風だという。〕 創 建 寛永6年(1629年)長崎に在留していた福州人たちは、故郷の福州の僧超然を迎え て、寺を造りました。 これが崇福寺の初まりです。 特徴(1) 建築 明の末期~清の初期(17世紀)の南支建築様式をそのまま輸入したものでわが国で は他に類例がありません。 特徴(2) 聯額 享保年間(18世紀初)唐僧の渡来が絶えましたが、それまで渡来して来た唐僧には書 画に秀れた人が多く、寺にかけられでいる扁額や柱聯は、これら唐僧の墨跡です。 三門〔重要文化財〕 俗に竜宮門といわれています。嘉永2年(1849年) 棟梁大串五郎平が、中国人の 指導を受けて造りました。 第一峰門〔国宝〕 唐門、赤門、海天門などともいいます。正保元年(1644年)創建。元禄9年(1696年)改 築。寧波で切組み唐船で輸入して組立てた。 軒下の複雑な斗供と、即非禅師の扁 額「第一峰」で有名です。 大雄宝殿〔国宝〕 崇福寺の本堂です。本尊は釈迦如来。脇侍は迦葉と阿難。正保3年(1646年)創建。 十八羅漢は黄檗系彫像の代表作です。 護法堂〔重要文化財〕 向って左に章駄天、右に関帝(関羽)、中央に観音を祀っています。享保16年 (1731年)再建。精巧な柱礎があります。 鐘鼓楼〔重要文化財〕 享保13年(1728年)の再建。楼上に正保4年(1647年)開創時の檀越たちの名を 連ねた梵鐘がかかっています。 媽祖堂門〔重要文化財〕 文致10年(1827年)再建。媽祖堂に対する門と仏殿と方丈を連絡する廊下を 兼ねている。 媽祖堂〔長崎県指定史跡〕 往時唐船主たちが海上安穏を祈願して海の神様媽祖(ぼさともいいます)を 祀ったものです。現在でも旧暦3月23日華僑が盛大なお祭りをします。 大 釜 天和年間の飢饉のとき、住持千獃(千呆とも書きます)禅師が、書籍什物を売って施 粥をしました。そのとき鍛冶屋町の鋳物師に注文して造ったものです。4石2斗を炊く と伝えています。 涅槃図〔重要文化財〕 明 ・万暦38(1610)年 呉彬筆 |
||
〔興福寺〕 山門が朱色であることから、「赤寺」も呼ばれている、国内最初の黄檗禅宗の唐寺。ここも特色のある 寺なので、興福寺のパンフレットの説明を引用します。 興福寺は、国内最初の黄檗禅宗(おうばくぜんしゅう)の唐寺でその由来は古く、中国・明の商人が長崎 と行き来を始めた頃に渡米した中国人が、一六二〇年ごろ航海安全を祈願してこの地に小庵を造ったこ とに始まります。この時代は、幕府のキリスト教禁令が厳しく、長崎在住の中国人に もキリシタンの疑い がかかったため、仏教徒であることを証明するためにも、崇福寺、福済寺、聖福寺など、つぎつぎと唐寺 が建てられたといわれます。 日本最古の石橋の眼鏡橋を架設した第二代黙子如定、南画の祖と称される第三代の逸然、さらには明 の高僧隠元隆琦禅師が住職として興福寺に滞在されたころには、大きな堂宇が建ち並び、全国から僧 や善男善女が参集して禅の一大センターとなりました。 大雄宝殿(本堂) 国重要文化財 寛永九年(一六三二)第二代黙子如定禅師が建立。元禄二年再建、さらに明治十六年再建し現 在に至る。中国工匠による純粋の中国建築で、氷裂式組子の丸窓、アーチ型の黄檗天井など珍 しい。 瑠璃燈(本堂内) 市有形文化財 上海から運ばれ、本堂内で組み立てられた瑠璃燈は、中国工匠による清朝の精緻な工芸品 。 媽姐堂(まそ・ぼさどう) 県有形文化財 寛文十年(一六七〇)の扁額「海天司福主」がある最古の建物。唐船に祀る守護神の嬌祖小像 を在泊中、安置した。 鐘鼓楼 県有形文化財 寛文三年の市中大火のあとの元禄四年(一六九一)再建。二階建て上階は梵鐘を吊り太 鼓を置 き階下は禅堂とした。 三江会所門(さんこうかいしょもん) 県有形文化財 江南・浙江・江西三省出身者が明治初期に設立した集会所。原爆で大破し門だけ遺存。 豚よけの高い敷居が中国風。 山 門 県有形文化財 三間三戸八脚の入母屋造単層屋根・総朱丹塗りの豪壮雄大な山門。上部の扁額「初登宝地」 は隠元禅師の御書。 旧唐人屋敷門(長崎市所有) 国重要文化財 元禄二年(一六八九)に完成した広大な唐人屋敷に遺存した門を昭和三十五年、保存のため興 福寺に移築。 中島聖堂遺構大学門(長崎市所有) 県有形文化財 儒者向井元升の流れをくむ聖堂、学舎の門で正徳元年(一七一一)に竣成。昭和三十四年 保存のため興福寺に移築。 魚板(魚 ケツギョ) 庫裡の入口にさがる巨大な魚鼓は、寺院の衆に飯時などを告げた江南の魚の木彫。 日本に唯一残る明朝魚鼓の粋。 隠元隆琦禅師 黄栗宗の開祖隠元禅師は中国福州から承応三年(一六五四)長崎へ渡海、興福寺住職として一年滞 在した。将軍家綱に謁見したのち京都の宇治に万福寺を開山。黄槃宗の渡来は日本の建築、彫刻、 絵画、書、茶、料理に多大の影響を与えた。禅師が中国から携えた豆は「いんげん豆」として現在も食卓 にのぼる。後水尾天皇より大光普照国師の号を贈られた。 |
||
〔眼鏡橋〕 街の南部を東西に流れる中島川にかけられた日本最古の唐風アーチ型石橋で、興福寺の2代目住職・黙子如定が、1634年(寛永11年)に架けたもので、1982(昭和57)年の長崎大水害においてその一部が崩壊したが、翌年復元されたもの。この中島川沿いには他にも11の石橋が架かっているが、2連アーチはこの眼鏡橋だけだという。 |
||
〔風頭公園〕 街の南東部の風頭山北側の高台にある、長崎港や市街地を一望できる見晴らしのいい公園。坂本龍馬の銅像や司馬遼太郎の「竜馬がゆく」の文学碑がある。駐車場はない。 |
||
〔亀山社中跡〕 亀山社中見学時にもらった「亀山社中 ば 活かす会」発行のパンフレットにあった説明 の一部を引用させてもらいます。 亀山社中と幕末の長崎・伊良林 |
||
〔日本二十六聖人殉教地〕 西坂の丘(長崎駅近くの西坂公園付近)にある26人のキリスト教信者が処刑されて殉教した所。1597(慶長元)年2月、豊臣秀吉のキリシタン禁止令により、大阪と京都で布教活動などをしていて捕縛されたフランシスコ会宣教師ペトロパプチスタ神父ほか外国人宣教師・修道士6名、パウロ三木ほか日本人修道士と信者18名(12歳と13歳の子供二人を含む)、それに長崎へ連行される途中で捕縛された日本人2名、合計26名がこの地で十字架にかけられ、槍で脇腹を刺されて処刑されたという。 この殉教の話がヨーロッパその他の地に広く伝わり、1862年、ローマ教皇によってこの26名の殉教者は聖人に加えられた。1962(昭和37)年、この26聖人の列聖100年を記念して、高さ5.6m・幅17mの御影石の台座に、二十六聖人の等身大のブロンズのレリーフがならぶ記念碑が作られ、資料を展示する記念館が建てられた。 |
||
〔出島和蘭商館跡〕 出島は埋め立てによって作られた扇形の人工島で長崎のオランダ人居住地だった所。1854(安政元)年に結ばれた神奈川条約(日米和親条約)によって下田や函館が開港されるまで唯一の海外貿易の場であった。1634(寛永11)年の幕府の命でポルトガル人の居住地として作られたが、39年にポルトガル人を追放し、41年に平戸からオランダ人を移住させた。役人と遊女以外の日本人の出入りは禁止され、オランダ人も無断で外に出ることは許されなかったという。1859(安政6)年にオランダ商館は閉鎖され、その後は外国人居留地とされた。 出島は明治になって三方を埋め立てられたが、石垣の一部は残っており、出島橋近くに商館跡の記念碑がある。跡地には、約15分の1のスケールで再現されたミニ出島があり、当時の様子がよくわかるようになっている。 日本初の神学校として建てられた建物を利用した出島資料館(本館)、幕末の石倉を復元して出土遺物などを展示する出島資料館(分館)や、当時の建物を復元したものなどもある。 |
崇福寺 | 興福寺 | 眼鏡橋 |
亀山社中跡 | 日本二十六聖人殉教記念碑 | 出島和蘭商館跡・ミニ出島 |
〔雲仙地獄〕 雲仙は、かつて九州の軽井沢とも言われた所で、明治時代には欧米人向けの避暑地として知られ、洋風ホテルや西洋館などがハイカラなムードをかもし出している所だという。 長崎でも雨に降られたが、この日は天気が悪く、ようやく着いた雲仙温泉は雨こそ降っていなかったが、真っ白なガスの中。道路沿いのホテルや旅館の玄関先がなんとか見える程度で、あたりの様子はほとんどわからなかったが、雲仙地獄のある所はガスも切れていてほぼ全体を見渡すことができた。 あたり一面に硫黄の匂いが漂い、岩間の噴気孔から真っ白い水蒸気が噴き上がっている雲仙地獄には、それぞれの由来や伝説にちなんで、「大叫喚地獄」「お糸地獄」「清七地獄」などと名付けられた三十余りの地獄がある。ここはキリスト教禁教令が出ていた江戸期に拷問や処刑の場としても使われ、キリシタン殉教の舞台でもあったという。 |
||
〔島 原〕 島原は島原半島の北部東岸にある街。東側の有明海、西南側の雲仙普賢岳東麓の眉山に挟まれるようにしてある、かつて松平氏七万石の城下町として栄えてきた街で、島原城や武家屋敷など多くの史跡が残っている。市内には60ヵ所以上の湧水源があり、その湧水群は名水百選の一つになっていて、「水の都」とも言われるという。 それまでの領主、キリシタン大名有馬晴信の子・直純が延岡藩に転封となった後、1616(元和2)年、松倉重政がこの地に来て島原城を築いた時からこの町の歴史が始まったという。重政は領民に重い年貢を課して厳しい取立てをするなどの苛酷な統治を行ったり、キリシタンに激しい弾圧を加えたりした。重政の後を継いだ勝家は父以上の苛酷な統治を行ない、キリシタンを厳しく取り締まったという。この苛酷な勝家の統治に対して遂に領民の怒りが爆発し、1637(寛永14)年に天草四郎を総大将として有名な島原の乱を起こした。領民の怒りは凄まじく、松倉軍の中にも領民側に寝返る者が現われたりしため、松倉軍単独ではとても鎮圧できない状態になった。幕府もこの状況を重く見て、わざわざ鎮定軍を派遣する事態にまで発展するのである。 四ヶ月に渡った島原の乱が平定された後、藩主松倉勝家は幕府にその責を問われて処分された。その松倉氏の後に入ったのは、島原の乱の徹を踏まないようにするためか、いずれも徳川氏譜代の家臣である高力・松平・戸田の三氏であった。戸田氏の後には再び松平氏が入り、以後8代にわたって統治を続けて明治維新を迎えたのである。 島原はこうした日本の歴史に大きくその名を残す事件の舞台となった地でもある。 |
||
〔島原城〕 1624年(寛永元年)に完成した島原城は、雲仙岳の東麓にあり、有明海を眼前にして、四面を堀に囲まれた高く頑丈な石垣を特徴とする、安土桃山様式の五層天守閣を中心にした壮麗な城であったという。島原藩四万石藩主であり、当時築城の名人といわれた松倉重政がそれまでの居城(日野江城)が手狭であったために七年掛かりでこの城を築いたのだとのこと。以後、四氏十九代の居城として約250年の風雪に耐えてその姿を保ってきたが、明治維新で廃城となり、1876年(明治9年)に惜しくも解体されてしまったのだという。1964年(昭和39年)、本丸に天守閣が復元され、その前後に三つの櫓(やぐら)や長塀なども復元されて、現在は全体が城跡公園となっている。 なお、天守閣内は、キリシタン資料館となっており、島原の乱に関係する多くの資料が展示されている。また、巽(たつみ=辰巳=南東の方角)の櫓は、長崎平和祈念像の作者・北村西望の記念館になっている。 |
||
〔武家屋敷〕 島原城築城の際、城周辺も整備され、外郭の西側に下級武士たちの屋敷が並ぶ街区が造られた。その地域はのちに何度か拡張されて二倍ちょっとになったという。が、現在は、最初に作られた古丁・中の丁・下の丁という南北に通じる三本の道筋のうち、中の丁だけが、その道の中央に生活用水の流れる水路のある、ほぼ昔のままの姿を残す形で武家屋敷地区として保存されている。 真ん中に水路のある道の左右両側には石垣がずっと続く。石垣にそって歩いていくと、その内側の果樹などの木々に囲まれるようにしてそれほど大きくはない武家屋敷の屋根が見えてくる。時代や時間の流れを忘れてしまうような空間がしばらく続く。今、自分はどこにいるんだろう、ふとそんな気になってしまうような空間である。 |
||
〔岩永旅館〕 この旅館は、当日二時半過ぎ、いつも使っている『宿泊表』※という雑誌で安い宿泊先を探していて偶然見つけて泊まった旅館で、最初に電話したホテルは満室と断られ、二番目に電話してOKがとれた旅館である。ごく普通の、それほど新しかったり、大きかったりする旅館ではないが、この旅館が特筆に価するのは、その夕食のすごさである。さまざまな魚、貝などの料理が普通のテーブルだけではのりきらずに小さなテーブルを並べて置くほどたくさん出たのだ。食べても食べても、まだあるの、という感じだった。それぞれが新鮮で美味しいものだったことは言うまでもない。 連れ合いが風呂場で一緒になって話をした人たちは、市役所に行って「いい旅館はないか」と聞いたらここを紹介されて来たのだそうで、その際、「普通なら高価なすごい料理が出るから、宿賃はただみたいなものですよ。」と言われたという。 いつまでも忘れられない旅館の一つであり、今はどうなっているのかわからないが、もう一度泊まってみたい旅館の一つでもある。 ※「全国版 宿泊表」 旅行出版社発行の季刊誌。全国の旅館・ホテルなど の宿泊所・施設を県別・地域別に表形式で一覧できるようにしたもの。 |
雲仙地獄 | 島原城 | 武家屋敷地区 |
〔第 12 日〕 8月 12 日( 月 )
地域・場所 | ルート・観光・見学箇所等 | 着時刻 | 発時刻 | メーター | 説 明 ・ 案 内 等 |
島 原 | 岩永旅館 ―R251― | 8.08 | 1504.4 | ||
原城跡 | 原城跡 ―R251― | 8.50 | 9.22 | 1532.5 | 1637(寛永14)年の島原の乱の際に一揆勢が入城して戦った城。 |
口之津 | 口之津港フェリーターミナル | 9.36 | 10.15 | 1542.5 | |
~~(フェリー)~~ | |||||
天草・鬼池 | 鬼池港―R324― | 10.45 | 10.46 | 1542.5 | |
五和町 | 観光イルカ船発着所 | 11.10 | 11.25 | 1553.5 | 鬼池港から西へ11㎞程のところにある。 |
イルカウオッチング | 所要約1時間程。 | ||||
観光イルカ船発着所 ―R324―R389― |
12.35 | 12.40 | 1553.5 | ||
苓北町 | 昼食・熊本のホテル探し予約 ―R389― |
12.50 | 13.35 | 1558.6 | |
下田温泉付近 | 休憩・ルート検討。 | 13.55 | 14.10 | 1565付近 | 大江天主堂・崎津天主堂の見学を予定して来たが、熊本での宿泊予定を考えると時間的に無理と判断して断念。戻る。 |
―R389―R324― | |||||
本 渡 | 天草切支丹館(殉教公園内) ―R324( ロザリオライン ) ―渋滞 |
14.50 | 15.30 | 1601.6 | 天草キリシタン館は本渡市立の資料館で、世界三大聖旗の一つとも言われることのある国重文の「天草四郎陣中旗」などを所蔵する。 |
天草五橋 | 四号橋(前島橋)手前コンビニで休憩 ―R266パールライン― | 16.40 | 17.05 | 1630付近 | 天草五橋は松島町から大矢野島を経て三角町にいたる天草パールラインを結ぶ五つの橋。松島橋・前島橋・中の橋・大矢野橋・天門橋と続く。 |
天草五橋―R266―三角―R57―宇土―R3―長六橋― | |||||
熊 本 | リバーサイドホテル熊本(泊) | 18.32 | 1694.8 | [ 1日走行距離 190.4 ㎞ ] |
〔原城跡〕 はらのじょうあと。1496(明応5)年、島原半島南部、現在の南高来郡南有馬町に日野江城の支城として有馬貴純が築いた城。有明海に張り出した丘陵上にあり、本丸、二の丸、三の丸、天草丸、出丸などで構成されていた。1614(慶長19)年に有馬直純が日向国延岡に転封した後、1616(元和2)年に松倉重政が日野江城に入城したが、半島北部に島原城を新しく築城して移ったため、この原城も廃城となった。1637(寛永14)10月に起こった島原の乱の際に約三万七千人ともいわれる一揆勢がこの城に入って八十八日間籠城して戦ったが同年12月から幕府の大軍に包囲され、翌38年2月に落城した。「島原の乱」の終焉の地。乱後、幕府によって残存する石塁などは破壊された。国史跡。 ここに来たのは二度目である。最初に来たのはもう二十年位前、普通の旅行で初めて九州に来た時に寄ったのだった。学生時代に読んだ堀田善衛の「海鳴りの底から」という小説などの影響でキリシタンや島原の乱に興味を持っていたため、なんとしても寄ってみたかったのだが、電車で行ったのでは口之津から乗る予定のフェリーに間に合わないため、やむなくわざわざなけなしの金の一部を割いて島原からタクシーを使ってここまで来たのだった。有明海に面する草ぼうぼうの断崖の上に、木々と生い茂った草に囲まれて、天草四郎像、十字架を載せた石塔、小さな天草四郎の墓やいくつかの石碑、わずかに残った石垣、などがあるだけの城跡は昔とほとんど変わっていなかった。変わっていたのは小生の方だけだったかもしれない。 |
||
〔島原の乱〕 1637年から38年にかけて(寛永14‐15)、キリシタン大名有馬氏と小西氏の旧領であった島原・天草の農民が合流して起した一揆。島原・天草の乱(一揆)ともいわれる。両地域にはキリシタンが多く、両氏に仕えていた牢人(旧家臣)も百姓になったりして在住していた。島原藩主松倉氏と天草の領主寺沢氏、それぞれの過重な年貢の取立てをしたりする苛政とむごく厳しいキリシタン弾圧にたえかね、1637年秋、両地で牢人(旧家臣)たちが中心になって一揆を起こした。ある程度の成果を挙げた島原勢と形勢が不利になってきた天草勢は有馬氏の旧城・原城(はらのじょう)で合流、小西行長の遺臣・益田好次の子であり、キリシタンの間でカリスマ的な人気を得ていた当時16歳の少年、天草四郎時貞を総大将として決起した。そうしたなかで再生したキリシタン信仰を軸に結束を固めて一揆軍は籠城した。幕府が征討上使として派遣した板倉重昌は、38年元旦の原城総攻撃で討ち死に、続いて老中・松平信綱が九州諸藩の軍勢などの大軍を指揮して鎮圧した。幕府軍の攻撃とその後の処刑によって一揆勢は皆殺しにされ、最終的に老若男女37,000人ほどが死亡したという。生き残ったのは内通者であった山田右衛門作(南蛮絵師)1人であったという説もある。 |
||
〔イルカウオッチング〕 観光イルカ船発着所は五和町の二江漁港にある。この漁港の西にある通詞島周辺の海には、一年を通じて体長3m前後の野生のバンドウイルカが定住しているという。観光船が港を出てしばらくしてイルカに群れに近づいていくと船の周りをイルカが並走し始める。浮いたり沈んだり、時に跳ね上がったりしながら船と競走するかのように船の脇をまっすぐに泳いでついてくる大小のイルカの群れを見ていると年甲斐もなくついつい興奮してしまう。すべてを忘れて童心に帰り、夢中になってしまった一時であった。 |
原城跡 天草四郎像 | 原城跡 天草四郎墓 | 原城跡 石垣 |
五和町 イルカウオッチング | 天草切支丹館 | 切支丹灯籠 |
〔第 13 日〕 8月 13 日( 火 )
地域・場所 | ルート・観光・見学箇所等 | 着時刻 | 発時刻 | メーター | 説 明 ・ 案 内 等 |
熊 本 | リバーサイドホテル熊本 | 7.55 | 1694.8 | ||
熊本城 | 8.05 | 9.00 | 1696.2 | ||
水前寺成趣園 | 9.15 | 9.50 | 1700.3 | ||
―熊本IC―九州自動車道 | 10.10 | ||||
宮原SA | 10.32 | 10.52 | 1747.6 | ||
えびのPA | 11.38 | 12.00 | 1811.5 | ||
えびのJCT | 12.02 | ||||
小林IC ―生駒高原― | 12.10 | ||||
―K1霧島スカイライン― | |||||
えびの高原 | 不動池 | 12.36 | 12.43 | 1850.2 | |
えびの高原駐車場 | 12.48 | 13.25 | 1852.0 | (レストセンター・ビジターセンターなどあり) | |
―K1霧島スカイライン―霧島温泉丸尾―R223― | |||||
霧 島 | 霧島神宮 | 14.00 | 14.20 | 1893.5 | |
―K60―K2―R504― | |||||
溝辺鹿児島空港IC ―九州自動車道― |
14.55 | ||||
桜島SA | 15.05 | 15.30 | 1913.0 | ||
鹿児島 | 鹿児島北IC―R3―平田橋 ―R3―R10― |
||||
仙巌園(磯庭園)・尚古集成館 | 16.07 | 17.30 | 1940.2 | ||
南洲墓地 | 17.40 | 18.05 | 1943.3 | 駅北西の高台にある、西郷隆盛(南洲)以下、西南戦争での西郷軍二千余の戦死者が埋葬された墓地。南洲を祭る神社がこの北隣にある。 | |
鹿児島サンホテル(泊) | 18.20 | 1946.8 | [ 1日走行距離 252.0 ㎞ ] |
〔熊本城〕 日本三名城の一つとも言われる熊本城(別名・銀杏城)〔他に名古屋城・姫路城(大阪城)〕は、名将加藤清正が多くの実戦経験を生かして、1601(慶長6)年に着工してから7年の歳月をかけて築城したもの。広大な城域内に「大小天守、櫓49、櫓門18、城門29を持つ豪壮雄大な構えで、美しい曲線で築かれた石垣や自然の地形を利用した独特の築城技術が生かされて」(城パンフレット)いるという。大小天守などは大変惜しいことに明治10年の西南戦争の際に焼失してしまい、現在のものは昭和35に再建したもの。焼失を免れた宇土櫓を初めとする12棟の櫓、長塀などが重文となっている。天守閣は大きな千鳥破風の美しい、どっしりとした重厚感のあるもの。 |
|||
〔水前寺成趣園(通称水前寺公園) ・ 他 〕 加藤家の後をうけて肥後藩主となった細川忠利から三代80年にわたって造営された桃山式の回遊庭園。阿蘇の伏流といわれる清冽で豊富な湧水を池として利用するとともに、築山や浮石、松、芝などをバランスよく配置してあり、 全体として東海道五十三次を模して作られたものだという。 熊本には他に、文学に関係したものだけでも、夏目漱石内坪井旧居、小泉八雲熊本旧居、徳富記念園、横井小楠記念館、熊本近代文学館などがあり、見学してみたい所があったが、日程の関係でこの日のうちに鹿児島まで行かなければならなかったためにあきらめ、残念に思いながら熊本を離れた。 |
|||
〔えびの高原〕 霧島屋久国立公園内にあり、宮崎と鹿児島の県域にまたがる標高1,200m前後の高原。霧島連山の韓国(からくに)岳、甑(こしき)岳、白鳥岳などに囲まれたなだらかな高原で、年間を通して、夏の避暑(平均20℃程度)、冬のスケート、高原の野趣あふれる温泉めぐり、春のミヤマキリシマ、秋のススキや紅葉などを、また、池めぐり等のトレッキングや、山歩き等をも楽しむことができる所だという。 |
|||
〔霧島神宮〕 祭神について、社務所発行の「霧島神宮 参拝の栞(しおり)」の「御由緒」の初めに、最近ではほとんど使われることのなくなった語句を多く用いた文体で、次のように記してある。 「 当神宮は天祖天照大神の御神勅を畏み(かしこみ)戴きて三種の神器(皇位の御璽 =みしるし)を捧持し、高千穂峰に天降りまして皇基を建て給うた肇国(ちょうこく=国を ひらきはじめる)の祖神《天孫瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)》をお祀りしているお社です。」 いわゆる「天孫降臨神話」※を基にした神宮で、現在の社殿は第21代薩摩藩主島津吉貴が江戸時代1715(正徳5)年に造営寄進したものという。朱塗りの鮮やかな本殿・拝殿などは国重文に指定されており、「西の日光」と称されることもある。 |
|||
※ 「天孫降臨神話」は日向・高千穂町の項で触れたものと基本的には同じだが、ここでは降臨の地を日向の高千穂町ではなく、高千穂峰のある、ここ霧島の地と解釈しているのである。 |
|||
〔仙巌園(磯庭園)・尚古集成館〕 仙巌園発行パンフレットの説明を引用します。 「 桜島を築山に錦江湾を池にみたてた雄大な借景をもつ仙巌園は、万治元年(1658)、19代 島津光久がこの地に別邸を構えたのを始まりとします。 園内には永い歴史を物語る史跡が数多くのこされております。仙巌園の正門として作られ た錫門、明治時代には島津家の本邸としても利用された御殿、日本で初めてガス灯を灯した 鶴灯籠、琉球の国王から献上されたと伝えられる望嶽楼。そのほか、千尋巌や曲水の庭、江 南竹林など随所に中国風の造園を感じさせるものもあります。 また、園内には数多くの植物が栽培され、四季折々の景観をみせてくれます。」 「 尚古集成館は、大正12(1923)年に開館した永い歴史をもつ博物館で、島津家伝来 の史料を中心に約1万点を収蔵し展示する博物館です。 幕末維新期には、この付近一帯では日本の近代化を支える重要な事業が行われ ました。この地は斉彬が造った集成館という工場群のあった場所であり、反射炉・ 溶鉱炉などの軍需関係のほかに、ガラスエ場・鍛冶場・鋳物細工所なども立ち並ん でいました。 尚古集成館の本館は、慶応元年(1865)に造られた機械工場を利用しており外観 にも風格があります。現在、本館では常設展示を、別館では企画展を開催しています。 なお、本館の建物は重要文化財に指定されています。」 |
|||
もう二十数年も前のこと、初めて九州各地を旅行して鹿児島まで来た日の夕方近く、疲れて磯庭園の御殿の廊下に座ってぼんやりしていた時、いきなりドーンというにぶい大きな音がした。びっくりして視線を上げると正面にあった桜島の山頂から真っ黒な噴煙がきのこ雲のようにもくもくと上がっている。桜島が噴火したのだった。話には聞いていたがどんなものか想像もできないでいた噴火を直接見ることができてラッキーと興奮してしまったことを覚えている。翌日、鹿児島の街中を歩くと道路は勿論、車の上をはじめとしてあちこちが火山灰だらけで、観光客は喜んでも、この町に暮らしている人は大変だなと思ったことも忘れられない。 |
|||
熊本城 | 水前寺成趣園 | 霧島神宮 |
仙巌園(磯庭園)と桜島 | 仙巌園・磯御殿 | 西郷南洲墓 |
〔第 14 日〕 8月 14 日( 水 )
地域・場所 | ルート・観光・見学箇所等 | 着時刻 | 発時刻 | メーター | 説 明 ・ 案 内 等 |
鹿児島 | 鹿児島サンホテル | 7.45 | 1946.8 | ||
―鹿児島北IC(8.00)―指宿スカイライン―知覧IC(840)― | |||||
知 覧 | 知覧(知覧城跡) | 8.55 | 8.57 | 1996.2 | 山の上にある城跡への登リ口らしい所には着いたのだが、細い山道をかなり登らなければならないようなので断念、町へ向かう。 |
知覧武家屋敷群 | 9.02 | 10.13 | 1998.3 | ||
知覧特攻平和会館 | 10.23 | 11.10 | 2001.6 | ||
-K27―潁娃(えい)―R226― 開聞十町―K28― |
|||||
池田湖 | 池田湖―K28― | 12.00 | 12.05 | 2033.2 | 怪獣イッシー(ネッシーと同類?)がいるのではと騒動になった、周囲 19Kの九州最大の湖。大鰻が生息していることでも有名。 |
―指宿市開聞十町―R226― ―K242― |
|||||
長崎鼻―R226― | 12.25 | 12.56 | 2047.5 | 薩摩半島の最南端にある岬。岩礁の岬には浦島太郎伝説の龍宮神社と白亜の灯台が立つ。北西の砂浜からは開聞岳の姿が美しい。 | |
山川港~~(フェリー)~~ | 13.15 | 13.20 | 2058.2 | ||
根占港― | 14.10 | 14.15 | 2058.2 | ||
佐多岬―-R269― | 15.10 | 16.10 | 2097.4 | ||
大浜海浜公園―-R269― | 17.00 | 17.17 | 2131.9 | ||
鹿 屋 | 寿二丁目Aコープ―-R269― | 18.00 | 18.16 | 2163.2 | ホテルの場所がわからずここで休憩。電話して場所を確認、戻る。 |
ホテルさつき苑(泊) | 18.23 | 2166.3 | [ 1日走行距離 219.5 ㎞ ] |
〔知覧武家屋敷庭園〕 「知覧町武家屋敷庭園保存会」発行のパンフレットの説明を引用します。 | |||
悠久の時を越えて 母ケ岳の優美な姿を借景とし 250余年もの歳月を経て 歴史の息吹を今に伝える ここは薩摩の小京都 江戸時代、薩摩藩は領地を外城と呼ばれる113の地区に分け、地頭や領主の屋敷である御仮屋 を中心に麓と呼ばれる武家集落を作り、鹿児島に武士団を集結させることなく分散して統治にあ たらせました。知覧もその外城のーつです。 「知覧麓の武家屋敷群は、薩摩の麓の典型的な作例の一つで、折れ曲がった本馬場通りに沿っ て連なる石垣と生垣からなる景観にも優れ、我が国にとってその価値は高い。」として昭和56年に 国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されています。また同時に地区内の7つの庭園が「優 れた意匠で構成されており、またその手法は琉球庭園と相通じるものがあり、庭園文化の伝播を知 る上でも貴重な存在である。」として国の名勝に指定されました。指定された7つの庭園の中で森氏 庭園のみが池泉式で、ほかは全て枯山水式となっています。 武家屋敷通り(本馬場通り)の石垣と生垣のみごとにきちっと整えられた素晴らしさは言うまで もないが、各庭園の刈り込みの美しさが印象的で忘れられない。長く連なって山並みのように なっていたり、こんもりと丸まった小山が積み重なっているようになっていたりする。刈り込みに よってこんなにもさまざまなもの・形を美しく表現できることをここで初めて知ったような気がする。 刈り込みの向こうにどっしりとした感じの山が見える借景も見事というほかない。 |
|||
知覧麓の武家屋敷群 江戸時代の知覧は当初、島津家の分家である佐多氏が地頭として治めていました。佐多氏には 優れた当主が多く出て、薩摩藩の中でも重要な役目を果たしました。その功績によって佐多氏十 六代久達の時代に、知覧の私領地化と島津姓の使用が許されました。 現在残る武家屋敷群は、佐多氏十六代島津久達(1651~1719)の時代もしくは、佐多氏十八 代島津久峯(1732~1772)の時代に造られたものではないかとされています。地区内は石垣で 屋敷が区切られ、沖縄によく見られる石敢當(魔よけの石碑)や、屋敷入り口には屋敷内が見えな いように屏風岩(沖縄のヒンプン)があります。知覧のの港が江戸時代に琉球貿易の拠点であった ことから、武家屋敷も琉球の影響を多く受けているようです。 |
|||
〔知覧特攻平和会館〕 「知覧町知覧特攻平和会館」発行のパンフレットの説明を引用します。 | |||
知覧特攻平和会館 とこしえに み霊のとこしえに安らかならんことを祈りつつ りりしい姿を永久に伝えたい心をこめて ああ、南海の果てに消えた勇士よ (表紙より) 世界恒久平和を願いながら…… この特攻平和会館は、太平洋戦争末期、沖縄決戦に、人類史上類 のない爆装した飛行機もろとも肉弾となり敵艦に体当りした陸軍特別攻 撃隊員の遺影、遺品、記録等貴重な資料を収集・保存・展示して当時 の真情を後世に正しく伝え世界恒久の平和に寄与するものです。 知覧は、昭和17年、大刀洗陸軍飛行学校知覧分教所が開校、少 年飛行兵、学徒出陣の特別操縦見習士官らが操縦訓練を重ねていた が、戦況が緊迫し険悪となり、遂に昭和20年本土最南端の特攻基地 となり 「若き勇士が雲流るヽ果て、遥か逝いて帰らざる」 壮途につか れた思い出深い地であります。 沖縄特攻で散華された1、036柱の隊員は、知覧基地を主軸とする 万世・都城基地及び第8飛行師団は台湾各基地、義烈空挺隊は健軍 基地から出撃しています。 これら至情至純の霊が「とこしえ」に安らかならんことを祈念して全 国から浄財を集め、昭和30年に特攻平和観音堂、昭和49年に特攻 銅像、昭和50年に特攻遺品館が建立されて以来、年々ふえる観覧者 や遺品収集で手狭となったので、知覧町がまちづくり特別対策事業の 一環として、昭和60年度から2ヶ年継続で特攻平和会館を新築しまし た。 毎年5月3日の特攻観音慰霊祭には全国から参拝者が訪れています。 |
知覧特攻平和会館 パンフレット表紙 特攻銅像 母の像 |
||
特攻平和会館の周辺(知覧平和公園)には、特攻隊員銅像「とこしえに」や、軍指定の富屋食堂を営み、出入りする隊員たちの面倒を見たり、その特攻への出撃を見送ったりして隊員たちから「おかあさん」と慕われたという、
「特攻の母」として知られる鳥濱トメさんの像があるほか、出撃まで寝起きしていた三角兵舎、戦闘機の実物大模型、特攻平和観音、特攻隊員 1036柱の御霊のために建立された、道の両側に整然と並ぶたくさんの石灯籠、さまざまな記念碑・歌碑などがある。 |
|||
「お国のために」「国を守る」といって多くの若き人々が散華(さんげ=命を花と散らすこと)していった。 彼らが、さまざまな可能性を秘めた大切な命をささげた、その 「国」 とは、いったい何だったのだろうか。 この言葉は今もなお、その意味を曖昧にしたまま、「国益のために」「愛国心を」などと使われている。 「国」 とは、いったい何なのか、われわれ一人一人がしっかりと考え、行動していかなければ、また、 ある特定の人たちの考え方に引きずられて悲惨な歴史を繰り返すことになっていってしまうのではないだ ろうか。 |
|||
〔佐多岬〕 「佐多岬ロードパーク」発行の「到達証明書」(写真)裏面の説明を引用します。 |
|||
亜熱帯ムードただよう 北緯31度線 佐多岬 佐多岬は文字どおり亜熱帯の楽園、黒潮よせるさいはての岬だ。 色とりどりの亜熱帯の花が一年中咲き乱れるロードパークを走る と、途中カイロやニューオリンズと同じ北緯31度線を通過して暑い 国の仲間入りをし、エキゾチックな感慨も新たにやがて岬に着く。 そこからさらに昼なお暗い密林のジャングル遊歩道を通り抜ける と、断崖上の展望台に立つ。眼下にさかまく黒潮、西洋の古城を 想わせる日本最古の白亜の灯台、右手に秀峰開聞岳、そして果 てしもなく広がる大海原には、種子島、屋久島、硫黄島などの島 影が墨絵のように眺められる。また、周辺の海は日本で最初に指 定された海中公園で、サンゴの間を鮮やかな熱帯魚が群れ遊ぶ 姿は幻想的だ。 1995(平成7)年8月に北海道をドライブ旅行した際、25日に 稚内・宗谷岬に到着、「日本最北端到着証明書」(右写真)を 取得した。その時、今度はいつか最南端の到着証明書を手に 入れようと思ったのだが、やっとそれが今回できたのだった。 つまらないことだが、小生には小さな喜びの一つであった。 (実際にはどちらもその前に普通の旅行で行っていたのだが、 証明書は手に入れていなかった。) |
|||
〔 なお、沖縄本島の最南端・喜屋武岬と最北端・辺戸岬に は今年(2009)1月に行ってきました。〕 |
知覧武家屋敷通り | 森重堅氏邸庭園 | 平山亮一氏邸庭園 |
平和公園・三角兵舎 | 特攻平和観音堂 | 石灯籠 |
池田湖 | 開聞岳(薩摩富士) | 長崎鼻より佐多岬を望む |
佐多岬 | 佐多岬 | 佐多岬 |
〔第 15 日〕 8月 15 日( 木 )
地域・場所 | ルート・観光・見学箇所等 | 着時刻 | 発時刻 | メーター | 説 明 ・ 案 内 等 |
鹿 屋 | ホテルさつき苑―R220― | 7.55 | 2166.3 | ||
休憩(串間手前の高松海岸付近か)―R448― | 8.58 | 9.10 | 2210.1 | ||
御崎神社(手前P) | 9.52 | 10.00 | 2233.9 | ||
都井岬灯台 | 10.10 | 10.30 | 2237.9 | ||
御崎馬生息地 | 10.35 | 10.45 | 馬が道路上に出てきて道路脇の草をのんびりと食べていたりする。 | ||
展望所 | 10.55 | 11.05 | |||
南郷町手前の展望所 | 11.30 | 11.32 | 2265.7 | ||
南郷・外浦港 | マリンビューワーなんごう乗場 (半潜水式水中観光船) |
11.37 | 11.55 | 2268.5 | 満席で乗れず。次便を待つ時間の余裕はなく乗船を断念。この船からはテーブル珊瑚や熱帯魚に彩られた美しい海中を眺められるという。 |
飫 肥 | 飫肥城(おびじょう)駐車場 | 12.27 | 2288.0 | ||
飫肥城跡 | |||||
武家屋敷 | |||||
飫肥市街 | |||||
飫肥城駐車場(宿決め) | 15.26 | 2288.0 | |||
鵜 戸 | 鵜戸神宮―R220―日南富士トンネル手前を右折― | 16.05 | 16.51 | 2308.4 | |
瀬平崎 | サボテンハーブ園 (2005年3月末に閉園) |
17.03 | 17.35 | 2317.3 | 日南市の富士の海を見下ろす斜面に、約130万本のサボテンと3万本の竜舌蘭が植えられていた植物園。 |
富士漁港 | ホテル弥太郎(泊) (サボテンハーブ園の先すぐ近く) | 17.38 | 2317.9 | [ 1日走行距離 151.6 ㎞ ] |
〔都井岬〕 串間市の南東、日南海岸の最南端にある、太平洋に突き出した岬。崖上台地の広々とし た草原に国天然記念物の野生馬・御崎馬がのんびりと草を食んでいる風景で有名な所。高さ255mの 断崖の上には白亜の灯台が立っており、その南には、御崎神社、南国を思わせる蘇鉄の自生地なども ある。 |
||
〔飫肥(おび)城跡〕 戦国時代、伊豆の工藤祐経を祖とする伊藤氏は飫肥城をめぐって80年余 も島津氏と攻防を繰り返してきたが、豊臣秀吉に仕え、九州征伐で戦功を立てた19代の祐兵(すけた け)が1587(天正15)年に飫肥城を賜ってその争いにも決着がついた。以来、伊藤氏14代が明治維 新まで280年余、五万一千石の飫肥藩主として居住した城。飫肥城は、飫肥市街北部の丘陵に曲輪 を幾つも並べた群郭式の平山城で、もともと天守閣はなかったようだが、石垣や石段以外の城内すべ ての建物が明治6年に取り壊されたという。現在は大手門と松尾の丸が有名な飫肥の百年杉を使って 復元されている。 大手門を出た右手一帯は石垣塀・黒い板塀と白壁の立派な門や美しい植え込みの続く静かな武家 屋敷通りになっていて当時の姿の一端ををうかがわせる。この通りの奧には多くの優秀な人材を育て た旧藩校の振徳堂もある。大手門外には最後の藩主が城を出て移り住んだ屋敷、武家屋敷の面影を とどめ、格調高い日本庭園を持つ豫章館もある。 飫肥の町には江戸初期の町割がほぼそのままに近く残っているという。130年前に建てられた大き な商店の建物を利用した商家資料館などのある商人通りが昔の面影を残しているほか、鯉の泳ぐ水路 などもあったりして、全体として城下町としての風情と情緒があって風格の漂う町並みが残っていて、九 州で最も早く「重要伝統的建造物保存地区」に指定された飫肥の町は「南国の小京都」ととも言われて いる。 大手門近くに、「おび天 蔵」という店がある。ここは江戸期に藩役所などが置かれた「長倉」という建 物を利用した店で、「おび天」と呼ばれる飫肥の伝統的な郷土料理を食べることができる。「おび天」と いうのは、魚のすり身に豆腐、黒砂糖、味噌をつき混ぜ、それを手のひらで適当な大きさの葉形にして こんがりとキツネ色に揚げたものという。食べ物にうとい小生などには珍しいもので、美味しいものだっ た。 |
||
〔鵜戸神宮〕 鵜戸岬突端の洞窟内に朱塗りの社殿が建っている神社。祭神は神武天皇の父、ウガ ヤフキアエズノミコトで、漁業・航海・縁結び・安産の神だという。洞窟内には「お乳岩」があり、無事の安 産・育児を願う人たちがお参りしている。洞窟前の海中に立つ亀石の上部には窪みがあって、その窪み に投げた運玉が入れば願い事がかなうという。 |
都井岬遠望 | 御崎馬 | 都井岬 蘇鉄自生地 |
飫肥城大手門 | 武家屋敷通り | 鯉の泳ぐ水路(旧山本家付近) |
鵜戸神宮参道 | 岩窟内の鵜戸神宮社殿 | サボテン園 |
〔第 16 日〕 8月 16 日( 金 )
地域・場所 | ルート・観光・見学箇所等 | 着時刻 | 発時刻 | メーター | 説 明 ・ 案 内 等 |
富士漁港 | ホテル弥太郎―R220― | 8.22 | 2317.9 | ||
買い物(ローソン)―R220― | 8.35 | 8.53 | 2328.5 | ||
青 島 | 青島駐車場 | 9.02 | 2335.3 | ||
青島神社 | |||||
鬼の洗濯板(北側・海水浴) | |||||
青島駐車場―R220― | 11.25 | 2335.3 | |||
宮崎IC | 11.40 | ||||
清武JCT―東九州道― | 11.45 | ||||
西都IC―R219―K318― | 12.05 | ||||
西都原 | 西都原古墳群駐車場 | 12.25 | 2389.9 | さいとばる。宮崎市の北北西方約30km程の所にある。 | |
車で周りながら古墳群見学 | |||||
西都原古墳群駐車場―K318― | 13.45 | 2394.8 | |||
御舟町(昼食)―K318―K24―R10― | 13.50 | 14.30 | 2397.1 | ||
日 向 | 新生町―R327― | 15.20頃 | |||
東郷大橋付近 | 15.40頃 | 15.50頃 | よく調べていないまま若山牧水生家を目指したが、案の定、迷走。何度か地元の人に聞いてみたがよくわからず。結局、断念して引き返した。 | ||
日向市 | 日向・新生町 | 16.15頃 | |||
伊勢ヶ浜 | 16.20 | 16.50 | 2461.1 | 日向市細島港の手前にある小半島南側の根元付近の海水浴場。 | |
日向岬 | 17.00頃 | 17.05頃 | 上記半島の東端付近。 | ||
米ノ山展望台 (日向岬グリーンパーク) |
17.15 | 17.50 | 2475.2 | 上記半島の中央部付近にある。日向市街や細島港(フェリー乗り場)などを展望することができる。 | |
細島港フェリー乗り場 | 18.10 | 18.40頃 | |||
(買い物・夕食) |
|||||
細島港フェリー乗り場 | 19.30頃 | ||||
マリンエキスプレス 日向発 2030 | 2030 | ||||
(船中泊) | [ 1日走行距離 148.0 ㎞ ] |
〔青 島〕 宮崎市の南にある周囲1.5k程の小さな島。ビロウ樹など200種以上の亜熱帯植物がいたるところに群生し、その群落は特別天然記念物に指定されている。青島海水浴場から弥生橋が架けられているが、干潮時には歩いて渡ることもできる。 この島の中央には海幸彦・山幸彦神話の山幸彦を祭った青島神社がある。島の外周を一巡できる遊歩道もある。島の周囲には天然記念物の「鬼の洗濯板」と呼ばれる波状岩があり、干潮時にはその姿をあらわして独特な景観を見せてくれる。 今回の旅行は夏の真っ盛り。海が好きで泳ぎにも少々自信のある小生、実はどこか海のきれいな適当なところで時間があったら是非泳いで来たいと思い、その支度をして出かけてきていた。ここまでは全然そのチャンスがなかったのだが、ここ青島まで来てやっとそのチャンスがめぐってきた。島の一番奥・東側まで来ている人はほとんどいなかったし、目の前には「鬼の洗濯板」がずっと続いている。連れ合いには砂浜のビロウ樹の木陰で休んでいてもらうことにして海に入った。とはいえ、「鬼の洗濯板」の溝の部分であるため、幅のない細長い海水プールに入っているような感じであった。それほど大きなものではなかったので、泳ぐというよりただ浸かっているというだけだったかもしれない。が、念願かなっての旅の途中での海水浴、気分よかったことは言うまでもない。 |
|||
〔西都原古墳群〕 宮崎県西都市・西都市観光協会発行のパンフレットの 説明の一部を引用します。 特別史跡 ・ 西都原古墳群 東西2㎞、南北4㎞、標高約70mの平坦な洪積層台地に4世紀頃から 7世紀に築造されたと推定される311基のさまざまな形をした古墳が横た わっています。昭和27年に国の特別史跡に指定され、さらにわが国第1号 の風土記の丘※として昭和41年から44年にかけて整備されました。その 古墳の大部分はいまだ発掘されないまま、多くの古代の謎を秘めて千数百 年の時を眠り続けています。 引用者注 ※「風土記の丘」についての 〔 フリー百科事典『ウィキペディア』〕 の説明を後にあげておきます。 |
|||
主要な古墳 鬼の窟(いわや)古墳 周囲に土塁をめぐらせた国内唯一の特色のある円 墳(径36.4m、高さ約7m)横穴式石室には巨大な岩石(畳三畳大)が使われ、 その神秘さから鬼の窟伝説が生まれたといわれています。 男狭穂塚・女狭穂塚(おさほづか・めさほづか) こんもりと繁った森の中に、 見つめあうような男狭穂塚(全長249.1m、高さ19.1m)・女狭穂塚(全長 221.8m、高さ14.6m)。男狭穂塚はニ二ギノ尊、女狭穂塚はコノハナサク ヤ姫の御陵(お墓)と伝えられ、九州では最大の古墳です。ふたつの古墳には、 ロマンチックな伝説が数多く残されています。 |
|||
本当に広々として木々や草草の緑にあふれ、きれいに整備された園内は、心の底からゆったりとした気分になれる所であった。二週間近く、九州内をせわしなく走り回ってきた最後にたどり着いた場所であったせいもあったのだろうか、ああ終わったという解放感と重なっていたのかもしれない。とにかく気持ちよかった。 園内数箇所に駐車場があり、道路もきれいでゆったりとしていて、広大な園内のあちこちに点在する古墳は車で移動しながら見て回ることができるようになっている。青空の下、人がほとんどおらず、緑あふれる中をゆっくり車を走らせては古墳を一つ一つ見てゆく。パンフレットに「悠久の浪漫を秘める、西都原」とあったが、本当に時の流れを忘れるようなひとときであった。 |
|||
風土記の丘(ふどきのおか)は、文化庁の風土記の丘設置構想に基づき、遺跡及び歴史資料の保存及び活用を目的として設置された史跡等の遺跡を中心とする野外博物館・公園である。 |
青島 | 青島 鬼の洗濯板 | 西都原 鬼の窟古墳 |
鬼の窟古墳 横穴式石室 | 西都原 13号墳 | 日向岬米ノ山展望台より 細島港のフェリー |
〔第 17 日〕 8月 17 日( 土 )
地域・場所 | ルート・観光・見学箇所等 | 着時刻 | 発時刻 | メーター | 説 明 ・ 案 内 等 |
川 崎 | 浮島フェリーターミナル 着 1600 予定 | 1645 | 16.55 | 2484.9 | |
夕食(相模原付近) | 17.42 | 18.20 | 2528.3 | ||
東 京 | 自宅 到着19時頃 | 19.10 | 2551.2 | [ 1日走行距離 148.0 ㎞ ] |
〔マリンエキスプレス〕 台風の影響があって多少船が大きく揺れたり、到着時刻が遅れたりということはあったが、出かけるときにも利用した航路なので船内の様子もわかっているし、二週間余にわたる九州ドライブ旅行を無事に終えることができたという安堵感や満足感もあって、ゆったりと落ち着いた気分で帰りの船旅を楽しむことができた。 |
宿 泊 先 一 覧 2002年8月
宿 泊 先 | 電 話 | 最寄駅 ・ 場所 | 種類・条件 | 二人料金 | ||
マリンエキスプレス | ※TR=ツインルーム | |||||
1 | 日 向 | BH ルミエール日向 | 0982-53-8800 | 日向市駅より徒歩10分 | TR・全込 | 9,155 |
2 | 豊後竹田 | BH トラベルイン吉富 | 0974-62-3185 | 豊後竹田駅より徒歩11分 | TR・全込 | 11,130 |
3 | 湯布院 | 旅館 三角屋 | 0977-84-3856 | 湯布院駅より徒歩10分 | 二食付全込 | 21,300 |
4 | 別 府 | 亀の井ホテル | 0977-22-3301 | 別府駅より徒歩8分 | TR・全込 | 11,640 |
5 | 宇 佐 | リバーサイドホテル宇佐 | 0978-33-2222 | 柳ヶ浦駅より車10分 | TR・全込・朝食 | 10,500 |
6 | 小 倉 | 北九州第一ホテル | 093-551-7331 | 小倉駅より徒歩15分 | TR・全込・朝食 | 12,835 |
7 | 柳 川 | 旅館平野屋 | 0944-72-2037 | 西鉄柳川駅より徒歩20分 | 全込・朝食付 | 11,000 |
8 | 平戸(田平) | プチホテル たびらんど | 0950-57-1410 | たびら平戸口駅より車3分 | 二食付全込 | 13,860 |
9 | 長 崎 | BH ミナトパーク長崎 | 095-827-1311 | 市電築町駅より徒歩2分 | TR・全込 | 9,500 |
10 | 島 原 | 岩永旅館 | 0957-62-2121 | 島原駅より徒歩10分 | 二食付全込 | 18,573 |
11 | 熊 本 | リバーサイドホテル | 096-355-3110 | 市電辛島町駅より徒歩3分 | TR・全込・朝食 | 13,545 |
12 | 鹿児島 | 鹿児島サンホテル | 099-225-5511 | 市電いづろ駅より徒歩3分 | TR・全込・朝食 | 13,185 |
13 | 鹿 屋 | ホテルさつき苑 | 0994-40-1212 | バス停女子校前より徒歩3分 | TR・全込・朝食 | 14,819 |
14 | 日南市富士 | ホテル弥太郎 | 0987-29-1052 | 伊比井駅より車5分 | 二食付全込 | 18,480 |
マリンエキスプレス |
トップページに戻る | 「はじめに」へ | 「前半行程」へ |