2004年 7月29日(木) ― 8月5日(木)
輪島ー能登金剛-千里浜-那谷寺-永平寺-三方五湖-
(帰途) 三方五湖-越前岬-東尋坊-高岡-糸魚川
行程表について ○R329=国道329号線 K29=地方道(都道府県道) 29号線 ○ルート表示は主要部分のみ ○※印は推定時刻・距離 ○移動時間の中には場所・時間などを記してありませんが、移動途中の休憩・食事などの時間も含まれています。 ○道を間違えたための迷走、カーナビの誤誘導・遠回り誘導などによって生じたそれほど大きくはない時間のロスはそのままにしてあります。 |
〔第5日〕 8月2日(月)
地域・場所 | ルート・観光・見学箇所等 | 読み方 | 着時刻 | 発時刻 (通過) |
メーター | 説 明 ・ 案 内 等 |
輪 島 | 民宿 海辺 | 7.40 | 589.2 | |||
輪島朝市駐車場 | 7.45 | 590.3 | ||||
朝市見物・買物 | ||||||
輪島朝市駐車場 | 9.55 | 590.3 | ||||
…K38… | ||||||
男女滝 | なめたき | 10.20 | 10.30 | 608.9 | ||
…K38・R249… | ||||||
門 前 | 総持寺祖院 | そうじじそいん | 10.50 | 11.45 | 620.7 | |
琴が浜(鳴き砂の浜) | 12.00 | 12.25 | 636.3 | |||
…R249・K49… | ||||||
能登金剛 | 12.33 | 13.20 | 639.4 | |||
ヤセの断崖 | 13.22 | 13.34 | 640.1 | |||
義経の船隠し | 13.35 | 13.42 | 640.4 | |||
…K49… | ||||||
富来 | とぎ | 14.00 | ||||
…R249・K36… | ||||||
巌門 | がんもん | 14.15 | 15.45 | 661.1 | 遊覧船
巌門、高さ27mの塔状の鷹の巣岩、碁盤島など、能登金剛の奇岩や荒々しい景観を海上から間近に眺めることができる。所要約20分。
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…K36・R249… | ||||||
気田大社 | けたたいしゃ | 16.30 | 18.55 | 688.1 | ||
…R249… | ||||||
羽 咋 | 兵庫町 | はくい | ||||
千里浜 | なぎさドライブウエイ | ちりはま | 17.03 | 693.4 | ||
売店 | 17.15 | 17.30 | 698.5 | 走行途中、 売店にて休憩(焼き蛤等) | ||
今浜IC | 17.32 | |||||
…能登有料道路… | ||||||
高松SA・道の駅高松 | 17.40 | 17.50 | 707.3 | |||
…能登有料道路… | ||||||
内灘IC …K8・K25… | ||||||
松 任 | シーサイド松任 | まつとう | 18.35 | 18.45 | 746.3 | チェックイン・休憩後外出 |
コースタルオアシス松任車遊館 | 18.50 | 19.32 | 747.8 | 夕食 | ||
シーサイド松任(泊) | 19.37 | 749.5 |
〔輪島朝市〕 月二回(現在第二・四水曜)の定休日以外は毎日立つ朝市は、輪島塗と並ぶ輪島の名物。岐阜県高山市、千葉県勝浦市と並び、日本三大朝市に数えられるもので、古く平安時代に神社の祭礼日に魚介類、野菜等を物々交換しあっていたのが起源といわれ、以来約千年も続いているものだという。 海べりの大駐車場に車を置いて通称朝市通りに行ってみると、なるほど道の両側に露店が並んでいるが思っていたほど多くはないように感じた。所々にある漆器店などのちゃんとした店の前には露店がないため、途切れ途切れの感じで、露天がずらっと並んでいるという感じにはならないためだろうか。 一応通りの端から端まで見て回りながら、露店のおばちゃんたちと若干のやり取りをして海産物を少々(まだ何日も旅行が続くため)買い、漆器専門店で土産に買ったあまり高価なものではない輪島塗の10膳近い箸に名入れのサービスをしてもらったりして輪島に別れを告げた。 |
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輪島朝市 |
男女滝 |
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〔男女滝なめたき〕 輪島からK(県道)38号線を海沿いに西へ向かい、上大沢町から海を離れて門前町へと進む県道38号の途中に男女滝はある。本流の「女滝」と支流の「男滝」の2つの滝が並んで流れていて、2本の滝が、寄り添うように、時に交わって1本になって流れる様子が夫婦のようであることから両方を合わせて「男女滝(なめたき)」と名付けられたのだという。 |
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〔総持寺祖院そうじじそいん〕 鎌倉時代の半ば、1321(元亨元)年に瑩山紹瑾禅師によって開かれ、永平寺とともに曹洞宗の大本山として栄えた寺で、江戸中期には全国に1万6000余りの末寺を有するほどの勢力を誇り、山内には70もの堂宇や20余の塔頭(たっちゅう)が立ち並んでいたという。1898年(明治31)の大火で大部分を焼失し、「大本山」は横浜市鶴見区に移されたため、こちらは「祖院(祖廟)」と呼ばれるようになった。現在、焼け残った伝燈院などに加え、再建された山門、仏殿、法堂、僧堂などが約6万6000㎡の境内に立ち並んでいる。 |
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総持寺 山門 |
法堂(大祖堂) |
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〔琴が浜〕 「鳴き砂の浜」とも呼ばれる白砂の浜で、砂の粒子が細かく、その上を歩くと砂に含まれた石英の粒がこすれ合って「きゅっきゅっ」と音を立てることで有名な砂浜。どんなものかと期待しながら、弓形に弧を描く白砂のきれいな浜を歩いてみたが、鳴いているのかいないのかよくわからなかった。砂が汚れていたり、歩き方がわるかったりすると鳴らないそうで、その時の諸条件によって鳴いたり鳴かなかったりするという。 |
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〔能登金剛〕 能登半島の日本海に面した南西部、関野鼻から福良港辺りまでの、日本海の荒波によって造形された男性的な景観を持つ30キロ近い海岸線のことを、朝鮮半島にある景勝地「海金剛」になぞらえて「能登金剛」と呼ぶようになったのだという。関野の鼻、ヤセの断崖、義経の舟隠し、巌門などの見所がある。 |
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〔関野の鼻〕 能登金剛の北端にある、石灰岩などが海水や雨水などで浸食されてできたカルスト地形の景勝地で、大変変化に富んだ奇岩・怪石などを見ることができる。義経一太刀岩、弁慶二太刀岩などと名づけられたものや弁財天を祭った海蝕洞などがある。関野鼻は遊歩道が整備されていてさまざまな景観を楽しむことができたのだが、2007年の能登半島地震の影響で一部の地形が崩れたりしたため、一時志賀町によって周辺の海岸付近への立ち入りが禁止されていたということだが、現在はどうなっているのだろうか。 |
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能登金剛 関野の鼻 |
ヤセの断崖 |
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〔ヤセの断崖〕 ヤセの断崖は高さ35m程の断崖で、松本清張の小説「ゼロの焦点」の舞台になったことで有名になった所。上記地震の時に海に突き出ていた部分が崩落して無くなってしまい、景観が以前とは変わってしまったという。 |
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〔義経の舟隠し〕 義経の舟隠しは、断崖が大きく左右に割れて切れ込んだようになっていて、幅数十m、奥行き百メートル位の狭く、細長い入り江のようになった所。源義経が源頼朝の追手から逃れるために舟を隠したという伝説のある所。 |
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〔巌門がんもん〕 能登金剛の代表的な景勝地で、海に突き出した岩盤の下部に、海蝕によってぽっかりとあいた、幅6m、高さ15m、奥行き60mほどもある貫通洞門。近くには鷹の巣岩や碁盤島などがあり、それらや巌門を海側から見ることのできる遊覧船も出ている(20分程)。 |
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〔気多けた大社〕 大国主神(おおくにぬしのかみ)、またの名、大己貴命(おおなむちのみこと)を祭る神社で、万葉集にもその名が見えるという、歴史と風格のある能登一の宮。桃山時代の神門(四脚門)、江戸初期の拝殿、江戸中期の本殿(いずれも国重文)などがある。社殿背後は「入らずの森」とよばれ、椎や椿などの老樹がうっそうと茂る社叢となっている。 |
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神 門 |
本 殿 |
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〔千里浜ちりはまなぎさドライブウエイ〕 一般の自動車やバスが波打ち際を走ることができる日本で唯一の砂浜の道路。追い越し禁止などの道路標識も設置されており、砂浜を走るというめったにできない経験をできる道路として広く知られている。この浜の砂の粒子が大変に細かいため海水等が適度に浸透して車が走れるほど硬くなっているのだという。約8km程の区間だが、途中には浜焼きなどを食べられる売店・茶屋があったりする。 前から一度走ってみたいと思っていた所で、実際に走ってみると快適で気分のいいこと、この上なし。何往復かしてみたっかったのだが、残念なことに時間切れ。途中にあった売店で焼き蛤等を食べて休憩しただけで泣く泣くといった感じで宿に向かった。 |
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〔シーサイド松任〕(松任市サイクリングターミナル) 当日昼過ぎに今晩安く泊まれる所をと宿泊情報誌で探していて見つけた、松任海浜公園の北側出入口にある研修宿泊施設。電話をすると「夕食なし、朝食付きでよければOK」とのことで、ほかに適当な所もなさそうだし、近くに夕食を食べられる所もあるというので喜んで決めたのだった。 チェックインして一息ついてから受付の人に教えてもらった所へ夕食にでかけた。車で5分程の所に大きな「市民温泉」施設があり、その隣に「車遊館」という、中に小さな劇場やいくつかの飲食店などがある大型店(複合観光施設)があった。入った店でのバイキング形式の夕食は、宿での食事が続いていた身には新鮮であった。 一晩泊まっただけであったが、天然温泉があったり、大きな広場があって普通の風車や風力発電用の大きなプロペラがゆっくりと回っていたりする周囲の静かでゆったりした雰囲気が気に入って、三方五湖まで行って戻ってくるときにまたここに泊まることになったのだった。もっとも、その時は宿泊を予定していた越前岬辺りに適当な宿がなかったせいでもあったのだが。 |
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松任海浜公園 |
海浜公園とシーサイド松任 |
〔第6日〕 8月3日(火)
地域・場所 | ルート・観光・見学箇所等 | 読み方 | 着時刻 | 発時刻 (通過) |
メーター | 説 明 ・ 案 内 等 |
松 任 | シーサイド松任 | 8.15 | 749.5 | |||
美川IC | 8.35 | |||||
…北陸道… | ||||||
小松IC | 8.43 | |||||
小 松 | 安宅の関跡 | あたか | 8.50 | 10.25 | 770.5 | |
…R360・R305… | ||||||
那谷寺 | なたでら | 10.10 | 11.40 | 791.7 | ||
…R8… | 黒瀬町コンビニで昼食休憩 12.15-35 | |||||
丸岡城 | 13.18 | 13.50 | 829.5 | |||
…K17… | ||||||
越前竹人形の里 | 14.08 | 14.35 | 839.4 | |||
…R364… | ||||||
永平寺 | 15.50 | 15.30 | 848.8 | |||
…R364(永平寺有料道路)・R158… | 2004.10.1より無料化 | |||||
福井IC | 16.12 | |||||
…北陸道… | ||||||
北鯖江PA | きたさばえ | 16.18 | 16.25 | 879.2 | ||
…北陸道… | ||||||
敦賀IC | つるが | 16.55 | ||||
…R27・K214… | ||||||
三方五湖 | …三方五湖レインボーライン… | みかたごこ | ||||
梅丈岳 | 山頂公園下駐車場 | ばいじょうだけ | 17.27 | 17.35 | 951.8 | |
…三方五湖レインボーライン… | ||||||
水月湖 | ホテル水月花 | すいげっか | 17.45 | 17.55 | 958.9 | |
三方GS(給油) | 18.12 | 18.17 | 968.8 | チェックイン後、給油のため三方町へ。 | ||
ホテル水月花(泊) | 18.35 | 978.7 |
〔安宅あたかの関跡〕 有名な歌舞伎の『勧進帳』(かんじんちょう)の舞台になった場所として広く知られている所。源義経・弁慶らの一行は源頼朝の追及の手を逃れ、山伏姿に身を変えて奥州に逃げ延びようとしていたが、ここ安宅関で関守の守護・富樫左衛門尉泰親(とがしさえもんのじょう・やすちか)の尋問にあう。弁慶は一芝居打ってやおら白紙の巻き物を広げ、焼失した東大寺再建のための勧進中だとして勧進帳(寺院などへの金品の寄付を募って回る際の趣意書。本当は白紙の巻物)を朗々と読み上げる。何とか通関できそうになった時に、本物の山伏かと怪しまれた義経を弁慶は未熟者として容赦なく打ち据え、その場を切り抜けようとする。そうした弁慶の主人・義経を守ろうとしての必死な行動に心打たれた富樫は義経一行をあえて見逃したという。 近くに灯台のある海縁の駐車場から簡素な木造りの門をくぐって関所跡に入ると左手に大きな源義経、弁慶、富樫左衛門尉泰親の像が松林を背に立っている。近くには勧進帳の資料を展示する安宅関所館や、難関突破のお守りが手に入るという安宅住吉神社もある。 |
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安宅関跡入口(内側) |
義経・弁慶・富樫の像 |
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〔那谷寺なたでら〕 奈良時代初めの養老元年(717)に、越(の国)の大徳(だいとこ・徳の高い僧)・泰澄法師が「白山やその大自然の神々と魂の交流を図る『自然智(じねんち)』の教えをもたらし、魂の輪廻転生・禊(みそぎ)再生・胎内くぐりの聖地であった岩窟内に本殿を設け」(那谷寺発行パンフレット)、霊夢に出現した十一面千手観音を自ら造像、安置して岩屋寺と名付け、「境内を心を癒す天然の道場とし」たのが始まりとされている。 北陸屈指の古刹で、松尾芭蕉も「奥の細道」の旅の途中、山中温泉に行く時にこの寺に立ち寄っており、 「奇石さまざまに、古松植ゑならべて、茅ぶきの小堂岩の上に造りかけて殊勝の土地なり。」と記し、「石山の石より白し秋の風」の句を詠んでいる。 平安時代の寛和2年(986)に西国三十三観音霊場の中興の祖とされている花山法皇の行幸があった際、この寺の岩窟内で光り輝く三十三観音のお姿を感得されて感激し、「私が求めている観音霊場三十三カ所はすべてこの山にある」(「那谷寺HP」)とおっしゃって、西国三十三観音霊場第1番札所の那智山青岸渡寺と第33番の満願霊場・谷汲山華厳寺の名から最初の1字ずつをとって「那谷寺」と改名したのが寺名の由来だという。 大きな木々が茂り、杉と灯籠の立ち並ぶ参道を進んだ苔むした境内の奥には、ここが寺院の境内かとびっくりさせられるような、海底噴火の跡といわれる巨岩のそそり立った「奇岩遊仙境」があり、それに隣あって本尊千手観音を安置する本殿、谷を隔てて向き合うように扉や壁面に美しい彫刻の施された小ぶりの三重塔、そこからの奇岩遊仙境の眺望が素晴らしい楓月橋・鎮守堂、四面に十二支や牡丹などの彫刻のある護摩堂など、国重要文化財の堂塔が立ち並んでいる。小堀遠州の指導を仰いで作庭された名勝庭園や、大庄屋・春樹家の豪壮な家屋を移築してきた普門閣、650年ぶりに再建された総桧造りの金堂華王殿などもある。 |
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金 堂 |
本 堂 |
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奇岩遊仙境 |
三重塔 |
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〔丸岡城(霞ケ城)〕 1576年(天正4)、柴田勝家の甥である勝豊が築城した城。国の重要文化財に指定されている天守閣は2層3階建てで、屋根は石瓦で葺かれている大変珍しいものだという。上層に望楼があり、現存する天守閣としては愛知県の犬山城とともに最も古い形を残しているものという。昔の城郭には五角形の広い堀があり、さらに河川を利用した外堀があったりしたが、現在は、堀は埋められ、天守閣と本丸跡・一部の石垣を残すだけで、城域は霞ケ城公園として整備され、400本もの桜がきれいに咲く名所になっている。園内には、歴代城主ゆかりの武具や古文書などを展示する歴史民俗資料館もある。 天守閣の東北側には日本一短い手紙として名高い「一筆啓上、火の用心、お仙泣かすな、馬肥やせ」の書簡碑があることで知られている。この手紙は徳川家康の功臣・本多作左衛門重次が、陣中から妻にあてて書き送ったもので、文中の「お仙」というのは本多作左衛門の嫡子・仙千代、後に丸岡城六代目城主となった本多成重のことだという。 |
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丸岡城天守閣 |
越前竹人形の里 |
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〔越前竹人形の里〕 越前に育つ良質の真竹や孟宗竹を使った伝統工芸品であるさまざまな竹人形・竹細工製品などを制作・展示・販売しているところ。創作竹人形館「黎明れいめい」は日本で唯一の竹人形館というべきもので、美しいさまざまな竹人形が多数展示されている。竹人形工房「篝かがり」では、職人さんたちが一つ一つ丁寧に人形を作っている様子を間近で見学することができる。竹細工実習教室では、竹とんぼ作りや竹人形作りを体験することができる(要予約)。 |
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〔永平寺〕 永平寺は鎌倉時代の寛元2年(1244)、曹洞宗の開祖道元禅師が開いた坐禅修行の参禅道場で、現在は総持寺とともに曹洞宗の大本山になっている。建物は何度も火災にあって焼失したがその都度再建・修築され、一番古いもので寛延二年(1749)再建の山門だが、今も禅宗様の七堂伽藍[
山門・仏殿・法堂(はっとう)・僧堂・庫裏(くり) 又は庫院・浴室・東司(とうす) ]がそろっている、越前を代表する名刹。 主要建物の配置は左右対称で、回廊で囲まれた中央部下段から上段に向けて、寺の正門になる山門、伽藍の中央に本尊の釈迦牟尼仏を祀る仏殿、一番奥に説法や法要をするための最大の法堂が一直線に並び、その左右の回廊沿いに雲水(修行僧)が坐禅などをする根本道場の僧堂、庫院(台所・接待所)が置かれている。浴室と東司(とうす・手洗場)は回廊下段の外側左右にある。拝観者は回廊を巡ってこれらの堂宇を順次拝観していくことになる。 ゆったりとした階段を登っていく回廊内部などはいいなと思うのだが、残念ながら、回廊に囲まれた空間がそれほど広くない上に、かなり大きな木が茂っていたりして、あまり堂舎を広く見渡すことができず、ゆっくり写真を撮っている時間がなく、腕もよくない小生には個々の堂舎の写真などはほとんどうまく撮ることができなかった。 樹齢6~700年を超えるといわれる鬱蒼とした老杉にすっぽりと包まれた中の堂々とした伽藍はそれなりの雰囲気をかもしだし、寺側も寺内では禅宗寺院・参禅道場としての姿勢・風格などを維持しようとしているが、鉄筋コンクリート五階建ての研修道場だという建物、現代風のロビー、若い僧による鉄道の駅と同じような改札口での検札など、若い修行僧をたくさん抱え、多くの堂宇を擁する大寺を維持したり、大勢の参拝者をさばいたりしていくためにはどうしても必要なのかも知れないが、その商業主義的な匂いを感じさせる一部の姿には、浅薄な識見しか持ち合わせていない小生は、道元禅師・禅宗の「只管打坐しかんたざ」(余念を交えず、ひたすらに坐禅をすること)という精神とは相容れないようなものを感じて違和感を覚えざるを得なかった。 |
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仏 殿 |
回 廊 |
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〔三方五湖〕 敦賀市と小浜市のちょうど中間位の所に位置する三方五湖は、三方湖、水月湖、菅湖、久々子湖、日向湖の5つの湖の総称である。今から約2万年前の頃には、三方五湖のそれぞれが海岸から遠く離れた内陸の湖だったが、その後の何度もあった地殻変動、海水面の上下変動、砂の堆積などによって現在のような姿・配置になったのだという。現在、五つの湖はもともとの自然の水路や、人工的に開削された水路、隧道などによってつながっているが、最も海に近い日向湖と久々子湖は塩水湖(海水)、菅湖と水月湖は海水と真水が半々の汽水湖(半淡水)、一番奥になる三方湖は淡水湖だそうで、それぞれの湖の水質や水深は違っており、すべて濃さの違う青色に見えることから「五色の湖」と呼ばれることもあるという。 車で「レインボーライン」(有料道)を上って、五湖周辺から北西に伸びる常神半島の根元辺りにある標高397メートルの梅丈岳(三方富士)の山頂下の駐車場に行き、そこからリフト又はケーブルカー(並行して稼動)で梅丈岳山頂公園に登ると、それぞれが低い丘陵のような山々の豊かな緑に縁取られた五湖の何ともいえない全体の姿を見渡すことができる。 残念ながらこのときは頂上下の駐車場に着いたのが夕方5時を過ぎてしまっていたため、頂上公園に登るのはあきらめ、休憩しただけで水月湖畔にある宿「水月花」へと向かったのだった。が、二年後の7月に山陰へ旅をした時、この時泊まった、手ごろな費用で泊まれ、施設がきれいでレイクビューの三方町営ホテル「水月花すいげっか」が気に入っていて、連れ合いがまたあそこに泊まりたいというので再度三方五湖に立ち寄り、梅丈岳にも登って五湖の姿をたっぷりと眺めることができたのだった。さらに四年後の昨年、城崎温泉まで行くことになった時にもこの「水月花」に泊まり、梅丈岳にも登ることになった。 ☆上段左右の写真は翌日(8月4日)朝、レインボ-ライン途中の展望台から撮ったもの。 ☆下段左右の水月湖の写真は昨年(2011年)の7月に梅丈岳頂上から撮ったもの。 |
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若狭湾(左上)と日向湖(右下) |
日向湖(左下) 久々子湖(左上) 水月湖(右下) |
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水月湖と菅湖(右中央半島の先) |
水月湖(左)と三方湖(右) |
〔第7日〕 8月4日(木)
地域・場所 | ルート・観光・見学箇所等 | 読み方 | 着時刻 | 発時刻 (通過) |
メーター | 説 明 ・ 案 内 等 |
水月湖 | ホテル水月花 | 8.20 | 978.7 | |||
…三方五湖・レインボーライン… | ||||||
久々子湖 | 三方五湖レークセンター | くぐしこ | 8.50 | 991.8 | 9時始発と聞いて来たが、10時始発だった | |
五湖巡りジェットクルーズ | 10.00-10.40 | |||||
三方五湖レークセンター | 10.45 | 991.8 | ||||
…K214・R27・K142… | ||||||
気比の松原 | けひ | |||||
…R8… | ||||||
敦賀 | ||||||
…R8…河野湾岸有料道路… | 河野湾岸有料道路=現在は無料化されてR306 | |||||
…R305… | ||||||
越前岬 | 越前岬灯台・水仙ランド | 12.17 | 12.18 | 1059.9 | 越前岬灯台の上にある。入口に行っただけで戻った。 | |
…R305… | ||||||
越前岬 呼鳥門園地 | こちょうもん | 12.20 | 13.10 | 1061.6 | ||
…R305… | ||||||
越前水仙の里公園 | 13.16 | 14.00 | 1076.4 | レストセンター越の本陣 昼食 | ||
…R305… | ||||||
三国町 | ||||||
…K7… | ||||||
東尋坊 | 東尋坊・遊覧船 | とうじんぼう | 14.48 | 16.15 | 1112.3 | 東尋坊~雄島周遊コース(約30分) |
…K7・R305… | 途中のコンビニで休憩 16.20-35 | |||||
吉 崎 | 吉崎御坊跡 | 17.00 | 17.20 | 1129.6 | ||
…R305… | ||||||
加賀IC | 17.28 | |||||
…北陸道… | ||||||
美川IC | 17.48 | |||||
…K25… | ||||||
松 任 | シーサイド松任 | まつとう | 18.00 | 18.25 | 1174.3 | チェックイン・休憩後外出 |
コースタルオアシス松任車遊館 | 夕食 | |||||
シーサイド松任(泊) | 19.30 | 1177.3 |
〔五湖巡りジェットクルーズ〕 五湖の一番東側にある、久々子湖北端にあるレークセンターの遊覧船発着場から五湖めぐりのジェット船が出ている。三方五湖遊覧船乗り場 9.00始発と聞いていたので、レインボーラインを越えて間に合うように行ったのだが、10時始発であった。これなら宿でもっとゆっくりできたのにとぼやいたが、やむなく1時間ほど待って乗船したのだった。船は40分ほどかけて五湖のうち日向湖を除く4つの湖を巡るのだが、それぞれ雰囲気がちがっていたり、険しい断崖が左右に迫る所 (人工的に開削された浦見川) があったりしてけっこう楽しめたように思う。 昨年(2011年)行った時にはどうしても時間がとれなくてこの船に乗ることはできなかったが、ホテル「水月花」のほうに「朝食付きモーニングクルーズ」というプランがあった。これは朝8時にホテルの桟橋を出てゆっくりと走る船(写真右下)の上で朝食を食べながら1時間ほどかけて水月湖・菅湖をめぐるというもの。これなら時間的にも可能ということで乗ってみることにした。どこでもできるということではなく、今までに経験のないことだったので新鮮で面白いものであった。 |
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ジェット船 |
「水月花」の「朝食付きモーニングクルーズ」船 |
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〔越前岬灯台・水仙ランド〕 高い崖の上に見える灯台をもう少し近くで見てみたいと思って国道から右折して上ってみると「越前水仙ランド」の入口ゲートがある。「えっ」と思い、車をとめてよく見てみると灯台は「水仙ランド」の敷地内にあるのか、入場料を払わないと灯台の所までいけないようだった。灯台を近くで見たいというだけだったので、入場料を払ってまで行く気もせず、Uターンして呼鳥門へと向かった。(ネットで見た未確認の情報だが、最近はここで入場料を払わなくても灯台の所まで車で入れるようになったらしい。) |
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〔呼鳥門こちょうもん〕 岸壁の岩が日本海の荒波と強風に侵食されてできた、高さ約15m、幅約30mある海蝕洞(天然のトンネル)で、越前岬から2Kほど北にあり、豪快で男性的な断崖が続くとされる越前海岸を代表する風景になっている所。かつてはこの洞門の下を国道が通り抜けていたが抱懐の危険もあったため山側に新しくトンネルが作られ、現在は車も人も通行できない。一帯は「越前加賀海岸国定公園
呼鳥門園地」として遊歩道などが整備されており、五木ひろしの「越前慕情」歌碑などもある。 |
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呼鳥門園地 |
呼鳥門 |
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越前岬 |
越前水仙の里公園 歌の流れる噴水池 |
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〔越前水仙の里公園〕 越前海岸一帯に咲く水仙を越前水仙と言い、この公園のある越廼(こしの)村の居倉地区はその発祥の地で、その群生地として知られている。ここには「水仙ミュージアム」「ナルシスプラザ」「水仙ドーム」「水仙観賞園」などの施設があり、温室などで栽培されている水仙を一年中いつでも見られるという。 国道より海側の公園には、噴水の前に立つと水が止まって歌手(川中美幸・伍大夏子・金沢明子)の画像が現れ、その歌が流れるという仕掛けの噴水池などもある。 季節はずれの水仙を見てみたい気もしたが、時間の関係もあって、食堂で昼食を取っただけで出発した。 |
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〔東尋坊〕 国の天然記念物にも指定されている、輝石安山岩の柱状節理の巨大な岩柱が約1㎞にわたって続く、北陸屈指の景勝地。これほどの規模を持つ柱状節理が見られる所は世界に三箇所しかなく、地質学上極めて貴重なものだという。 自殺の名所として余りにも有名になってしまった東尋坊大池と呼ばれる、高さ約50m程の断崖が左右にそびえる奥行40mほどの入江を中心に、ライオン岩、蝋燭岩、屏風岩などとさまざまな名をつけられた見所が周辺にはいろいろある。 「東尋坊」というのはもともと勝山市にある平泉寺にいた怪力をもった僧侶の名で、粗暴で悪行を重ねたため仲間の僧達によって断崖の上からこの大池(入江)に投げ込まれたので「東尋坊」と名付けられたのだという。 海岸沿いに歩ける荒磯遊歩道があるほか、東尋坊周辺の景勝を海上から見ることのできる観光遊覧船も出ている。東尋坊一帯や雄島、越前岬、遠くは若狭湾や能登半島まで一望できるという高さ54mほどの東尋坊タワーなどもある。 |
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東尋坊 |
海上から見た東尋坊 |
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〔吉崎御坊跡〕 吉崎御坊は、室町時代の文明3年(1471年)7月(親鸞没後2世紀余りのち)、浄土真宗中興の祖とされる本願寺第8世法主蓮如(れんにょ)が仏教旧勢力、比叡山延暦寺(天台宗)などの迫害を受けて京から逃れ、越前吉崎の吉崎山の頂(御山)に浄土真宗の根本道場として建立したもので、本願寺系浄土真宗の北陸における布教拠点となったところ。 蓮如はこの地で、親鸞の教えを「御文(おふみ)」または「御文章(ごぶんしょう)」と呼ばれる平易な手紙のかたちで門徒に示すなど、さまざまな方法で教義を民衆にわかりやすく説いたため、北陸をはじめ奥羽などからも多くの門徒が集まり、御坊周辺には坊舎や門徒の宿坊(多屋)などが立ち並んで隆盛を極めたという。こうして蓮如は積極的に民衆に接し、農民層の宗数的組織化に成功してゆくが、やがてその組織は一向宗(=浄土真宗)門徒が自らの信仰と生活を守ろうとした一向一揆を起こす母体と化していったともいう。 御坊は火災などで数度焼失、再建を繰り返したが、文明7年(1475年)戦国の動乱で再び焼失、それを機に蓮如は吉崎を去った。永正3年(1506年)、加賀から越前に侵攻した加賀一向一揆勢を撃退した朝倉氏が吉崎の坊舎を破壊し、以後、織田信長の一向一揆攻めなどにより、御坊の地は廃虚となってしまったという。 江戸時代に入って、御山の北麓に、それぞれ吉崎御坊と称して本願寺派の通称西別院と、大谷派の東別院が隣り合って軒を接するように再建されて現在に至っている。 現在、御山の上には、木々の立ち並ぶ約1万坪の平坦地がひろがっており、林の中には昭和5年に高村光雲によって制作された、高さ5mほどの吉崎へ下行する時の旅姿だという巨大な蓮如上人像が立っている。 付近には本堂跡の礎石や上人腰掛石なども残っている。北西側からは北潟湖北端部や日本海などが見える。 御山の北麓には、東西別院のほか、下記のような伝説※のある「嫁威肉付面 よめおどしにくつきめん」を所蔵するという願慶寺や吉崎寺、蓮如上人記念館などがある。 ※夫と子供を失くした農家の嫁が傷心を癒そうと蓮如のもとへ通うのを憎んだ姑が、面をつけた白衣姿で夜道を行く嫁を威したが効かず、そのうち面が顔に張り付いて取れなくなってしまった。苦しみ困り果てた姑が帰ってきた嫁に泣く泣く事情を打ち明けると、嫁は一緒に「南無阿陀仏」と唱えましょうと勧める。姑が後悔しながら「南無阿弥陀仏」と一生懸命に唱えると面が取れ、それからは姑も熱心な信徒になったという伝説。(この話には夫は死んでいないなど、筋立て細部の異なる何通りかの話があるようです。) |
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吉崎御坊跡 史跡碑 |
蓮如上人像 |
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吉崎東別院 望楼(中央上)と鐘楼堂(下) |
御坊跡から見た北潟湖北端部と日本海 |
〔第8日〕 8月5日(木)
地域・場所 | ルート・観光・見学箇所等 | 読み方 | 着時刻 | 発時刻 (通過) |
メーター | 説 明 ・ 案 内 等 |
松 任 | シーサイド松任 | 8.30 | 1177.3 | |||
…K25・K195・K196… | ||||||
金沢西IC | 8.47 | |||||
…北陸道… | ||||||
小矢部川SA | 9.05 | 9.20 | 1215.4 | |||
…北陸道… | ||||||
小矢部・砺波JCT | となみ | |||||
…能越道… | ||||||
高岡IC | 9.30 | |||||
…R8・R160… | ||||||
西海老坂 | …二上山万葉ライン口… | |||||
城山公園 | 守山城跡・平和観音像 | 9.50 | 10.23 | 1247.0 | 城山公園は守山城本丸跡 | |
二上山 | 大伴家持像 | ふたがみやま | 10.26 | 10.31 | 1248.0 | |
平和の鐘 | 10.35 | 1251.0 | ||||
仏舎利塔・仏石寺 | 平和の鐘Pに車を置いて徒歩で往復(片道約300m) | |||||
平和の鐘 | 10.50 | 1251.0 | ||||
気多神社・大伴神社 | けた | 11.00 | 11.07 | 1254.0 | ||
越前国分寺跡 | 11.09 | 11.29 | 1255.0 | |||
伏 木 | …二上山万葉ライン口… | ふしき | ||||
勝興寺(国庁跡) | 11.33 | 11.55 | 1256.0 | |||
伏木北前船資料館 | ふしき | 11.59 | 12.32 | 1257.0 | 旧秋元家住宅 | |
吉 久 | 吉久の町並み | よしひさ | 12.37 | 13.05 | 1260.0 | |
高岡市街 | 市営御旅屋駐車場 | おたびや | 13.30 | 1268.0 | 駐車場から町並みまで徒歩5分位 | |
土蔵造りの町並み観光 | (徒歩見学) | 土蔵造りの町資料館・菅野家住宅(重文)・富山銀行本店(赤レンガ造りの建物)・ | ||||
市営御旅屋駐車場 | おたびや | 15.15 | 1268.0 | |||
金屋町・格子造りの町並み | かなや | 15.30 | 15.55 | 1270.0 | 車でゆっくり少しずつ移動しながら見学 | |
高岡大仏 | 16.05 | 16.15 | 1272.0 | |||
瑞龍寺 | ずいりゅうじ | 16.25 | 17.05 | 1275.0 | ||
…K40・K58・R472… | ||||||
小杉IC | 17.28 | |||||
…北陸道… | ||||||
呉羽PA | くれは | 17.30 | 17.45 | 1289.3 | ||
…北陸道… | ||||||
有磯海SA | ありそうみ | 18.05 | 19.05 | 1327.1 | 夕食・給油 | |
…北陸道… | ||||||
糸魚川IC | 19.35 | |||||
…R148… | ||||||
白 馬 | 白馬 | 20.23 | 1428.6 |
高岡市街図 高岡市観光物産課発行 「万葉の森回廊・文化の森回廊」 高岡MAP(市全域)の一部 |
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〔高岡市〕 能登半島の根元、富山市の北西、富山湾に面してある町。 日本海沿岸屈指の貿易港である伏木港があり、小矢部川沿岸には金属・化学などの近代工場群などもあるが、金屋町を中心に、銅器・鉄器・漆器・捺染などの生産で知られた連綿とつづく伝統産業の町でもある。特に全国の90%を占めると言われる銅器(仏像・梵鐘・仏具など)の生産地として知られている。 著名な一般的観光地ではないが、現在の高岡市伏木地区に奈良時代には国府や国分寺が置かれ、越中の政治・文化の中心地であったりしたことや、「万葉集」全二十巻の最終編集者と言われ、万葉集の代表的な歌人の一人でもあった大伴家持(おおとものやかもち)が天平18年(746)から5年間、国司としてこの地に滞在しており、この地の風物を詠んだ歌を万葉集に残していたりする関係で、古典文学などに関心を持つ人たちにはよく知られている所である。 |
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〔二上山万葉ライン〕 二上山(ふたかみやま)は高岡市街の北側、氷見市との間にある山で、昔から月と紅葉の名所として知られ、大伴家持によって歌にも詠まれている。西側の西海老坂から東側の伏木までその尾根に沿って二上山の山腹、山頂を巡る8km余のドライブウェイ「二上山万葉ライン」が通っている。このドライブウエイ沿いには城山公園(守山城本丸跡)、平和観音像、万葉植物園、大作家持像、仏石寺・仏舎利塔、平和の鐘、二上山郷土資料館などがあり、終点の伏木の国道に近くなると気多神社、大伴神社、越中国分寺跡、高岡市立万葉歴史館※などがある。伏木には勝興寺や北前船資料館などもある。二上山の頂上からは条件がよければ、立山連峰、富山湾、能登半島などが一望できるという。 ※高岡市立万葉歴史館には前半行程第3日(7月31日)に能登半島に向かう途中、高岡市を通過した際に立ち寄り、見学しました。前半行程第3日(7月31日)の記録を参照してください。 |
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〔城山公園(守山城本丸跡)〕 城山公園は守山城本丸跡に造られた公園。守山城は二上城などとも呼ばれ、前方には小矢部川があり、後方には氷見の海岸線があって、眼下の高岡市街をはじめ富山平野を一望に見下ろす道の険しい山の上にあり、その地形から越中随一の山城とされていたという。 いつ築城されたのかははっきりせず、南北朝の初期頃にはすでに砦のようなものとして存在していたものを、南北朝中期に斯波義将が再度越中守護となって、ここを守護所(拠点)としてから本格的に整備されたのであろうといわれている。後に神保氏張や佐々成政が在城したが、天正13年(1585)前田利長の居城となった。慶長2年(1597)利長は富山に城を築いてここを去ったため、以後城下の寺院や商工業者は続々富山に引き移り、守山城や城下町は急速に廃れていったようだという。 現在は平和観音が建立されている主郭(本丸)跡と主郭に向けて段丘のようになっている曲輪跡が残っているだけである。 |
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城山公園から高岡市街を望む |
平和観音像 |
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〔平和観音像〕 平和観音像は、昭和45年5月に高岡市制80周年を記念し、二上山の城山公園の主郭(本丸)跡に世界平和と人類の繁栄を祈願して建立されたものという。本体はブロンズ製、6メートル、総高13.5メートルとのこと。 |
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〔大伴家持像〕 二上山の山頂へと続く散策道の山頂手前200mほど下の所に、越中国司として国府のあった高岡・伏木に滞在していた若き日の大伴家持とされる銅像が立っている。昭和28年に高岡駅前に設置されたものを、昭和56年に万葉植物園入口の現在の場所に移設されたのだという。家持が「玉くしげ 二上山に 鳴く鳥の 声の恋しき 時は来にけり 」(万葉集 巻十七)という歌を詠んでいることなどに因んでいるのかも知れない。 大伴家持は天平18年(746年)から越中国司として越中に5年間滞在したが、その間にこの地の自然・風物等を詠んだ歌を220余首を残したという。 |
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〔大伴家持〕 奈良時代の歌人(718?~785)。「万葉集」に収録されている歌の数が最も多く(473首)、「万葉集」の最終的な編纂者とされており、その繊細で優雅であるとともに抒情・感傷的な歌風は万葉後期を代表するものといわれている。大宰帥(だざいのそち)を務めたりした大伴旅人(たびと)の子。父の旅人も歌人で「讃酒歌(さけをほむるうた)」の連作を詠んだことなどで知られている 家持は越中守を初め、中央・地方諸官を歴任して、783年(延暦2)に中納言・従三位になったが、一族が何度か政変に関与したり、自身が関与を疑われたりしたことなどもあって、その晩年は大和朝廷以来の名門出身の官僚としては不遇であったという。最後は陸奥按察使鎮守将軍(みちのくあぜちちんじゅしょうぐん)として陸奥国の多賀城で没したという。 |
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〔平和の鐘〕 銅器生産日本一の地元高岡産の口径1.8m、高さ3.3m、重さ11トンもあるという大梵鐘で、高岡開町360年と市制80周年を記念して昭和44年に二上山に造られたものだとのこと。いつでも(夜間以外)誰でも自由につける鐘としては日本国内で最大級の大きさという。駐車場、売店、トイレなどがある。 |
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平和の鐘 |
佛石寺・仏舎利塔 |
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〔佛石寺・仏舎利塔〕 舎利山佛石寺は二上山の東側に位置する鉢伏山頂上にある、曹洞宗の寺院。高さ20mの仏舎利塔のほか、仏舎利礼拝殿、祖堂・開山堂、千体地蔵堂などがある。 仏舎利塔は、寺のHPの「山内紹介」に「 インドのネール首相より賜りし仏舎利を拝受し建立。高さ20メートル、直径40メートル、総花崗岩造り、石燈籠四十八基を配置 」とあるもの。 寺入口に車は「平和の鐘」の駐車場に置くようにという立て札があったので、この先にある「平和の鐘」の駐車場まで行って車を置き、徒歩で寺までもどった。 |
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〔気多神社〕 天平4年(732年)に能登国一宮・気多大社から御分霊を勧請(かんじょう)し、越中国一宮・気多神社となったといわれている。現在の社殿がいつ頃のものかということについては、諸説あってはっきりしないようだが、兵火で焼失したのを永禄年間(1558~1569年)に再建したものとする説や、天文年間(1532~1554年)以前に造られたものが兵火を免れて残っているのだとする説などがあるようだ。が、いずれにせよ、その本殿は簡素だが風格があって室町時代の特徴を残すものとされ、国指定重要文化財になっている。 |
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拝 殿 |
本殿(国重文) |
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〔大伴神社〕 大伴神社は、気多神社本殿の左側にある小さな社で、越中国司として現在の高岡市伏木に赴任していた大伴家持を祭っている。 御神体は家持の出身地・奈良や、越中国庁跡、最期の地・多賀城など、家持に縁のある場所、五箇所の土を入れた壷だそうで、家持の没後1200年の1985年(昭和60年)に地元の有志によって創建された神社だという。 |
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大伴神社 |
越中国分寺跡 |
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〔越中国分寺(こくぶんじ)跡〕
現在、この越中国分寺跡とされている所には、他地方に残るいくつかの国分寺跡のように整然と並ぶ礎石などは残っておらず、ただあまり手入れのされていない小さな薬師堂があるだけである。 そこにあった案内板に書かれていた「説明」を紹介しておきます。 「薬師堂境内及び付近の国分堂地内から鐙(あぶみ)瓦・唐草宇(のぎ)瓦などが出土している。 現在薬師堂の前庭及び側方には、講堂又は金堂の遺構と思われる土壇が約二十米現存し、堂の前方二十米南東に塔の跡と思われる基壇が共同墓地として残り、堂の正面に西南に向かって国分道が古くから細々と残り、 国分堂の地域は、堂宇を中心として、約三二七ヘクタールにも及び堂内には、平安初期の等身大の神将像が残されている。 高岡市教育委員会 」 薬師堂敷地の周囲には数十体の石仏が並んでいる。いつ、誰が、どうして設置したのかはわからないが、おそらく各所に散在していたものを何かの機会に集めて整備したものであろう。風雨にさらされ、あちこち崩れたり欠けたりしている、さまざまな姿・形をした仏様達だが、その中には素朴で、美しく清らかな顔立ちや姿をした石仏がいくつもあった。 越中国分寺跡は昭和40年に富山県指定史跡に指定されている。 なお、「国分寺」というのは、「国分尼寺(こくぶんにじ)」とともに、奈良時代の741年(天平13年)、相次ぐ国情不安や疫病の流行の中で仏教に期待を寄せた聖武天皇が鎮護国家を願って勅命を発し、国ごとに建立を命じた寺院のこと。平安時代中期以降には国分寺の多くは廃絶してしまったという。 |
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〔勝興寺(国庁跡)〕 勝興寺はどういう寺院か、当日の拝観入口の式台門近くにあった「勝興寺の伽藍」と題する高岡市教育委員会の案内板に書いてあった説明と境内配置図を紹介しておきます。 |
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勝興寺の伽藍 「勝興寺は文明3年(1471)に本願寺8世蓮如上人が、北陸布教の拠点として越中国砺波郡蟹谷庄土山(現在の福光町土山)に営んだ土山御坊を前身とする浄土真宗本願寺派の寺院である。その後、蓮如の子孫が代々住職を勤め、「連枝寺院」としての格式を背景に、近世以降は本願寺や加賀藩前田家と結び越中国の触頭としてその勢力を誇った。 勝興寺が現在の地に移ったのは天正12年(1584)のことである。広大な境内地は、奈良時代以来の越中国府跡と伝えられる台地上にある。四周には中世の城郭の遺構とみられる土塁や空濠がめぐらされ、特異な形状をしている。 建造物は、境内の南側に建つ「堂舎群」と北側に建つ「殿舎群」の性格を異にする2つの建造物群で構成されている。 総門をくぐって左に進むと、堂舎群の入口にあたる「唐門」、その奥に京都西本願寺の阿弥陀堂を模して建てられたという「本堂」があり、本堂の前方には「経堂」、「鼓堂」などが建つ。これらが堂舎部分である。 一方、総門をくぐって右手前方に進むと、、殿舎群の入口である「式台門」の奥に、南北に棟を連ねる大広間及び式台を入口とする本坊の建物が建つ。「大広間」の後方には、「寺務所」と「小書院」を挟んで「書院」と「奥書院」が、また「式台」の後方には「台所」がそれぞれ雁行状に建てられている。このような形式は、中世末から近世初期にかけて確立された建築様式である「書院造」の典型的な配置を示すものであり、地方においてはあまり例がない。 勝興寺の堂舎群、殿舎群並びに総門、唐門、式台門は近世の大寺院の伽藍を構成する建築群として貴重で、近世寺院の歴史を知る上で高い価値が認められる。また、大広間及び式台、書院及び奥書院は、それぞれ室内の意匠に特徴を備えた上質の住宅建築としても価値がある。 このように、勝興寺には地方都市としては破格の規模を持つ「本堂」をはじめ、価値の高い建造物がほとんど残されており、建築史上たいへん貴重なものであるとして、昭和63年1月13日に「本堂」及び「唐門」が、さらに平成7年12月26日には10棟が重要文化財に追加指定され、合計12棟の建造物が重要文化財となっている。 高岡市教育委員会 」 |
高岡市教育委員会 案内板 境内配置図 勝興寺は越中国府跡にある浄土真宗の寺院で、左記の説明にもあるように土塁や空堀があったりして城郭寺院と呼ばれたりする大寺院。 戦国の頃には一向一揆の拠点の一つであったりしたが、近世には加賀前田家、本願寺、公家などとも密接な関係を持ち、越中における浄土真宗の中心寺院として近代にいたるまで権勢を振るっていたのだという。 小生が勝興寺に行った時には大変残念なことに、大規模な修復工事中で、本堂や唐門などは近くで、また正面から拝観・見学することはできませんでした。 というわけで、本堂や唐門の写真はうまく撮れなかったため鼓堂と式台門の写真だけあげておきます。 |
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鼓 堂 |
式台門 |
〔伏木北前船資料館(旧秋元家住宅)〕 伏木は小矢部川の河口にある、古代から知られた漁港のある町。江戸時代には北前船交易により大いに栄え、自らの船を所有して海運業を営む廻船問屋がいくつもあったという。秋元家も江戸末期に栄えたそうした廻船問屋の一つだった旧家だという。 現在の旧秋元家住宅は、かつて北前船で繁栄した伏木廻船問屋の数少ない遺構として貴重なものとされているが、主屋は明治20年(1887)の大火で焼失し、その後もとどおりに再建されたものといわれ、整った室内構成を持った、数寄屋風の繊細な造りになっているとのこと。 主屋の奥の港側にある、江戸時代後期築造のものと推定されるという土蔵は二階建てで、調度蔵と衣装蔵の屋根の上には港への船の出入りを見張るための望楼が設けられているが、この望楼は市内に唯一残っているものだという。この望楼に登って見学することはできるが、現在、残念ながら港方面はそのごく一部がわずかに見えるだけになってしまっている。 館内には、船幟(のぼり)、船銘板、船箪笥など北前船の模型、航海・生活用具や船主の生活用具、歴史資料などが展示されている。 |
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旧秋元家 |
望楼 |
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〔吉久の町並み〕 吉久は、北側に小矢部川、南側に庄川が流れ、この二つの川にはさまれて中州のようになった所にある町で、この地域の北東端に伏木港があるため、江戸初期に加賀藩の「御蔵(藩の米蔵)」が置かれた関係で米商人の町として栄えてきた町だという。が、今はひっそりとした町家の並ぶ住宅街である。 現在残っている町並みはほとんど江戸末期から昭和初期にかけて建築されたものといわれ、旧街道筋に数十棟の伝統的な町家が残っている。ここは山町筋、金屋町など高岡市にある他の古い町並みと違ってあまり観光化されていないため、静かで落ち着いた町並みである。古びた千本格子(高岡では「さまのこ」というらしい)が続き、何ともいえない雰囲気を漂わせている。 |
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〔土蔵造りの町並み〕 路面電車(万葉線)の走る国道156号線の片原町北の交差点の南にある県営御旅屋駐車場に車を置いて徒歩で町並み見学に出かけると、北に向かって片原町北の交差点を越えて二百mほどで山町筋に出る。山町筋には北東側から南西方向に、小馬出町、木船町、守山町、御馬出町があり、その旧北陸道に面した町筋の重要伝統的建造物群保存地区に指定されている所に土蔵造りを中心とする50棟以上の町並みが500mほど続く。 商人町として発達したきたというこの辺りで見られる土蔵造りは、1900年(明治33年)の未曾有の高岡大火によって壊滅的な状況になったため、その後の復興に際して防火に配慮した耐火建築として建てられたものだとのことで、そのさまざまな意匠を凝らした重厚な造りは高岡商人の財力の大きさを感じさせるものである。 高岡市教育委員会発行のパンフレット「土蔵造りの町並み」にある説明によると、「高岡の土蔵造りは、基本的には切妻造平入の土蔵造りで、黒漆喰を塗り、二階に観音開きの扉をつけた様式」とのことだが、家によって細部の意匠にはいろいろな工夫が凝らされているものが多い。また、「構造的に注目されるのは、本来は伝統的な建築技法である土蔵造りに、明治後期という時代性を反映した洋風建築の要素が随所に取り入れられていること」だという。 主要な町家等としては、規模、質、保存度とも最良と言われ、国重要文化財に指定されている「菅野家住宅」、一番洋風意匠が取り入れられているという「佐野家住宅」、山町筋で唯一の本格的な洋風建築だという「富山銀行」、大火以前の建物で、切妻造り妻入りの「金子家住宅」、県指定文化財の「筏井(いかだい)家住宅」、市指定文化財で現在は「高岡市土蔵造りのまち資料館」になっている「旧室崎家住宅」などがある。 |
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旧室崎家(土蔵造りのまち資料館) |
菅野家 |
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筏井家 |
富山銀行 |
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〔金屋町・格子造りの町並み〕 加賀藩二代目藩主前田利長が高岡に居城を移した際に 残念ながら時間がなくなって徒歩での見学はあきらめたため、車でゆっくり走りながら時々車を止めては写真を撮るというような見学になってしまったのだが、ゆっくり歩きながら時間をかけてその雰囲気を味わってみたいと思った町並みであった。 |
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〔高岡大仏〕 山町筋の「土蔵造りの町並み」と国道を挟んでほぼ反対側に位置する大手町の大仏寺境内にある、総高15.85m、重量65tという大きさの青銅造りの大仏で、鋳物の町高岡を象徴するような大仏。奈良、鎌倉につぐ日本三大大仏の一つだという。 1745(延享2)年に木造金色の大仏を極楽寺の等誉上人が造営したのが最初とされる(別の説もある)が、1821年(文政4年)の大火で焼失、1841年(天保12年)に再造されたものも1900年(明治33年)の高岡大火の際に焼失したという。 篤信家の松木宗左衛門が大仏の再造を発願、1907年(明治40年)に青銅造りの大仏製作が始められ、伝統の銅器製造技術の粋を集めて1933年(昭和8年)に完成したのが現在の大仏だとのこと。高岡大仏の台座の下の回廊には高岡大火の時に焼け残った仏頭が祀られている。 この高岡大仏は端正な顔立ちの大仏で、よく知られている「鎌倉や御仏なれど釈迦牟尼は美男におはす夏木立かな」という歌を詠んだ歌人・与謝野晶子がここに立ち寄った際、「鎌倉大仏より一段と美男」と評したという話が伝えられているという。 |
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〔瑞龍寺(ずいりゅうじ)〕 高岡市街の南の関本町にある、曹洞宗の寺院で、加賀第三代藩主前田利常が約二十年の歳月をかけて建立した第二代藩主前田利長の菩提寺である。江戸初期の七堂伽藍のある典型的な禅宗寺院の建築様式を今に伝えるもので、回廊までそろって残っている数少ない貴重な遺構として高く評価されているという。 今次ドライブ旅行の最後の観光見学予定地の瑞龍寺に到着したのは、午後四時半の閉門(拝観受付終了)寸前だった。自分達以外、拝観者の姿は見当たらない。空はところどころに青空は見えるものの、今にも雨を降らせそうな黒い雲の塊が動いている。疲れもあって気分は重かった。が、総門をくぐって山門を正面に見た時、気分は一気に晴れた。 回廊に囲まれた、白い玉砂利を敷き詰めた広い空間、その真ん中に山門へと続く一本の参道。山門や回廊は逆光でシルエットになっていて全体としては暗いのだが、建物の白壁や一定の間隔で点々と続く回廊の窓の白い障子、そして手前の白い玉砂利、それらの白とシルエットになった建物の黒との対比が何ともいえずすばらしい。そして、山門をくぐると今度は目の前に広がる芝生の緑の空間。そのむこうに凛として立つ仏殿。はっと息を呑むような展開だった。と同時にほっとして心なごむ光景でもあった。八日間に及ぶ旅行の疲れを一気に忘れさせてくれるたたずまいであった。 格子状に続く、壁や障子の白と柱や桟の黒の対比の美しい回廊内部、その他建物の簡素だが重厚な構造、細部の装飾などすばらしさはあげだすときりがない。 伽藍全体として壮大にして荘厳とでもいうのだろうか。静けさに包まれた、格調高く、美しい寺院。 次々にわく静かな感動にすっぽりと包まれたひと時だった。旅行の最後をこの寺院にしたのは正解だった。 退出時刻に迫られ、辺りを夕闇が包み始めた中、やむなく後ろ髪を引かれる思いでこの寺院を後にしたのだった。 瑞龍寺発行のパンフレットにあった説明と伽藍配置図 を紹介しておきます。 |
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沿革 曹洞宗高岡山瑞龍寺は、加賀二代藩主前田利長公の菩提をとむらうため三代藩主利常公によって建立された寺である。 利長公は高岡に築城し、この地で亡くなった。加賀百万石を譲られた義弟利常は、深くその恩を感じ、時の名匠山上善右衛門安広をして七堂伽藍を完備し、広山恕陽禅師をもって開山とされた。 造営は正保年間から、利長公の五十回忌の寛文三年(1663)までの約二十年の歳月を要した。当時、寺域は3万6千坪、周囲に壕をめぐらし、まさに城郭の姿を想わせるものがあった。 平成9年12月3日、山門、仏殿、法堂が国宝に指定された。また、総門、禅堂、大庫裏、回廊、大茶堂が国の重要文化財に指定されており、江戸初期の禅宗寺院建築として高く評価されている。 |
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伽藍及び建造物 伽藍は、鎌倉時代広く我国にもたらされた中国寺院建築を模して建立されたもので、総門・山門・仏殿・法堂を一直線に配列し、左右に禅堂と大庫裏を置き、加えて四周を回廊で結ぶなど、厳粛且つ整然たる伽藍構成である。 名匠山上善右衛門嘉広は、利長公の代より前田家の信任厚く、禅宗様建築を良くし、近世工匠の中でも一流の域に達した名工の一人であった。なお善右衛門はこの瑞龍寺の他に、能州滝谷の妙成寺、加州那谷寺の講堂、越中大岩日石寺、能州一の宮気多大社、加州小松の天満宮等、多くの建築を命ぜられた。 山門 (国宝) 正保二年(1645)に建立され万治年間に場所を変えて建直す。延享三年(1746)火災で焼失、現在の建物は文致三年(1820)に竣工した。当時としてはめずらしく和算により設計されている。 左右に金剛力士像を安置し、楼上には釈迦如来、十六羅漢をまつる。 仏殿 (国宝) 万治二年(1659)に建立された。 山上善右衛門嘉広の最も心血を注いだ力作の一つで、総欅造りである。屋根は鉛板をもって葺かれている。これは全国においても金沢城石川門にその例をみるだけである。上層軒組は、禅宗建築の純粋な形式であり、屋根裏の扇垂木やエビ虹梁など複雑にして妙をえた架構法である。 御本尊として中国明代の釈迦・文殊・普賢の三尊をまつる。 総門 (重要文化財) Somon 正面三間の薬医門形式で正保年間の建立である。 大庫裏 (重要文化財) Oguri 調理配膳や寺務運営を行う堂である。天井が漆喰で曲線になり結露に配慮してある。正面には章駄天尊像がまつられている。 大茶堂 (重要文化財) Daisado 創建当初に造られたもので、その存在は全国的に類例は少ない。その構造は外壁や軒下を土蔵と同じ大壁とし、内部を土天井とした大変珍しい防火建築物である。 禅堂 (重要文化財) Zendo 坐禅修行をする建物であるが、坐禅だけではなく、食事、睡眠もとれる生活空間である。延享三年に焼失、直ちに再建された。幕末に三分の一に縮小され、今回の修理で再び創建当初の姿に復元された。 石廟 (県指定文化財) Sekibyo 前田利長、利家、織田信長、同室正覚院、織田信恵の分骨廟。石廟の中には、宝篋院塔がまつられている。 |
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総門から見た山門と大庫裏(右)・禅堂(左) |
仏殿側から見た山門 |
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仏 殿 |
法 堂 |
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回廊内部 |
瑞龍寺 総門 |
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以下の写真は、瑞龍寺のHPに自由に使用できるフリー素材として公開されている写真です。 | |||
仏殿1 (仏殿と大茶堂・右端) |
仏殿2 (仏殿と回廊・鐘楼) |
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法堂1 |
法堂2 |
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宿 泊 先 | 電 話 | 所在地 | 種類・条件 | 二人料金 | ||
1 | ホールサムイン うなづき※ | 0765-62-1359 | 宇奈月町五千僧5509-16 | 二食付全込 | 16,044 | |
2 | 六華苑 (現在廃業) | 金沢市広岡2-3-10 | 朝食付全込 | 12,537 | ||
3 | キャッスル真名井 | 0768-52-3030 | 穴水町字川島井61-1 | 二食付全込 | 16,800 | |
4 | 民宿 海辺 | 0768-22-0943 | 輪島市河井町16-136-7 | 二食付全込 | 15,000 | |
5 | シーサイド松任 | 076-274-3190 | 松任市相川町2462 | 朝食付全込 | 8,981 | |
6 | ホテル 水月花 (町営) | 0770-47-1234 | 三方郡三方町海山51-13 | 二食付全込 | 23,600 | |
7 | シーサイド松任 | 076-274-3190 | 松任市相川町2462 | 朝食付全込 | 11,307 |
※ 政府管掌健康保険保養所
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