金沢・能登・北陸 ドライブ旅行の記録

2004年 7月29日(木) ― 8月5日(木)




            はじめに
   この旅行の当初プランの眼目は、長期ドライブ旅行のベースキャンプにすることの多くなった長野県の白馬村にある山小屋から出掛けて、連れ合いが行ってみたいという金沢と小生が行ってみたかった高岡の観光をした後、能登まで足を延ばして、これまた小生がかねて一度現地で…と思っていた能登輪島の御陣乗太鼓を見聞きすることであった。
 が、具体的に行程プランを考え始めると、輪島の御陣乗太鼓が7月31日(土)夜と決まっているため、これに合わせて考えなければならず、単純に金沢・高岡・輪島と直線的につなぐというプランではすまなくなってしまったのだった。
 こちらの日程その他の事情も考慮しながら、ああでもない、こうでもないと考えていくうち、ここまでいったらついでにあっちも、ここまでいったらこっちもという欲も加わってどんどん膨らんでいってしまった結果が今回の記録にある行程である。
 当初、金沢・高岡・輪島と回って白馬にもどろう位のプランだったのだが、輪島まで行ったらやはり海岸沿いに西に行きたくなり、更に北陸未体験の連れ合いのために北陸へ、福井まで行ったら以前行ってよかった三方五湖までとふくらんでいってしまったのだ。ただ北陸路はまたもどってこなければならず、同じ所をもどるのもつまらないので、往路は内陸側を見てゆき、復路は海岸沿いをもどってくることにしたのだった。
 今回の記録は、以上のようないきさつで組まれた普通では考えられないようなルートでのドライブ旅行のものですが、部分的にでも何かの参考になればうれしいと思います。   
                                 2012.3   山寺行好
     
     行程表について
R329=国道329号線   K29=地方道(都道府県道) 29号線  ルート表示は主要部分のみ  ※印は推定時刻・距離
○移動時間の中には場所・時間などを記してありませんが、移動途中の休憩・食事などの時間も含まれています。
○道を間違えたための迷走、カーナビの誤誘導・遠回り誘導などによって生じたそれほど大きくはない時間のロスはそのままにしてあります。

   


   金沢・能登・北陸ドライブ - 前半行程  第1日目~第4日目 -

糸魚川-黒部・欅平-金沢-高岡-穴水ー九十九湾-禄剛崎-曽々木-輪島
                             

〔第1日〕 7月29日(木)

                  ※以下、表中の青字は記録漏れ等のために前後の記録、地図上計測等から推定した時刻・距離です。

地域・場所 ルート・観光・見学箇所等 読み方  着時刻 発時刻
(通過
)
メーター 説 明 ・ 案 内 等
 白 馬  白馬     8.00 0.0  
     …R148…          
  糸魚川  いといがわ   9.05    
     …R8…          
親不知 道の駅 親不知ビアパーク   9.25 9.35  63.4  
  親不知・子不知展望台    9.40 9.45  66.0 親不知記念広場
市 振 市振の宿・関跡    9.50 10.05 70.4  
  道の駅 越後市振の宿    10.08 10.15 73.0   
越中宮崎 越中宮崎駅前P   10.25    78.7   
     朝日ヒスイ海岸          
  越中宮崎駅前P     10.53  78.7   
     …R8…平柳…K13…          
宇奈月 宇奈月駅前P   11.30  11.48  104.2   
     …トロッコ列車…          
黒  部 欅平駅・欅平温泉 けやきだいら 13.10  14.37    欅平温泉入浴・奥鐘橋・人喰岩
     …トロッコ列車…          
宇奈月 宇奈月駅前P    15.54 16.20  104.2   
  ホールサムイン宇奈月(泊)   16.30   105.2   

       

   〔親不知・子不知〕おやしらず・こしらず 富山県との県境に近い、新潟県糸魚川市の南西端にある、北アルプス(飛騨山脈)の北端が日本海に落ち込んでできた断崖が続く所で、高さ300~400mの断崖が約15kmにもわたって続くという、古来北陸道(越路)最大の難所と言われた所だ。越後の国と越中の国の間を往来する人々はこの断崖の下の波打ち際を荒い波を避けながら通行しなければならず、親は子を忘れ、子は親を顧みるゆとりもなかったところから「親不知・子不知」と呼ばれるようになったという。

 
 
 〔親不知・子不知展望台〕 国道の改修を記念して作られた「親不知記念広場」で、親不知の眺望はここが一番だと言われているが、残念ながら木や草が茂っていてすぐ下の断崖や波打ち際などは見ることができなかった。

 
   〔市振の宿〕いちぶりのしゅく 松尾芭蕉の「奥の細道」にその名が出てくることで知られる「市振(いちぶり)」は、越後(新潟)と越中(富山)の国境にあり、越中から越後親不知への西の入り口の宿駅であった。国道と海岸線との間に平行してはしる旧道に入ると道の両側にひっそりと静まり返った家並みが続く。残念ながら大正3(1914)年3月17日の市振大火で焼失してしまったのだろうか、昔の宿駅の面影を残しているような建物は見当たらない。

 松尾芭蕉の「奥の細道」には、その旅の途中、ここ市振の宿「桔梗屋」に宿泊し、芭蕉にしては珍しいロマンチックな句といわれている、「一つ家に 遊女も寝たり 萩と月」という句を詠んだと記されている。その脇本陣でもあったとされる「桔梗屋」は大正3(1914)年3月17日の市振大火で焼失してしまったという。現在は家並みの途中、道の南側に「奥の細道市振の宿桔梗屋跡」と書かれた標柱が立っているだけである。

 「市振の宿」の東入口には「海道の松」(糸魚川市文化財)と呼ばれる大きな老松があり、かつては北陸道を西を目指して旅する人々から、「天下の険 親不知子不知」の難所越えの終点地を示す目標として親しまれてきたものという。その先百m前後の所には「弘法様の井戸」、宿場西端に近い所には「市振関所跡」の碑などがある。また、国道8号線沿いの長円寺境内には文学者・相馬御風が筆をとったという「一つ家に…」の句を刻んだ「芭蕉句碑」がある。

 
   
          市振の宿
 
         海道の松
 
   
松尾芭蕉「奥の細道」 
                                     
 今日は親しらず・子しらず・犬もどり・駒返しなど云(いふ)、北国一の難所を越て、つかれ侍(はべ)れば、枕引よせて寝たるに、一間隔(ひとまへだて)て面(おもて)の方に、若き女の声二人斗(ばかり)ときこゆ。年老たるおのこの声も交て物語するをきけば、越後の国新潟と(いふ)所の遊女成(なり)し。伊勢参宮するとて、此(この)関までおのこの送りて、あすは古郷にかへす文したゝめて、はかなき言伝(ことづて)などしやる也(なり)。白浪のよする汀(なぎさ)に身をはふらかし、あまのこの世をあさましう下りて、定(さだ)めなき契(ちぎり)、日々の業因(ごふいん)、いかにつたなしと、物云をきくきく寝入て、あした旅立(たびだつ)に、我々にむかひて、「行衛(ゆくへ)しらぬ旅路のうさ、あまり覚束(おぼつか)なう悲しく侍れば、見えがくれにも御跡(おんあと)をしたひ侍(はべら)ん。衣の上の御情(おんなさけ)に大慈のめぐみをたれて結縁(けちえん)せさせ給(たま)へ」と、泪(なみだ)を落す。不便(ふびん)の事には侍れども、「我々は所々にてとヾまる方(かた)おほし。只(ただ)人の行(ゆく)にまかせて行べし。神明の加護、かならず恙(つつが)なかるべし」と、云捨(いひすて)て出(いで)つゝ、哀(あはれ)さしばらくやまざりけらし。
         一家に遊女もねたり萩と月     (ひとつやに ゆうじょもねたり はぎとつき)
曾良にかたれば、書とヾめ侍る。
 
   

   [現代語訳]

 今日は、親不知・子不知・犬戻・駒返などという北国随一の難所を越えて疲れ果てたので、枕を引き寄せて床に身を横たえたのだが、
一間を隔てた表側の部屋で、若い女二人ほどと思われる話し声が聞こえる。年老いた男の声も混じって、彼らが話すのを聞くともなく聞いていると、女たちは越後の国新潟という所の遊女であった。

 伊勢神宮参詣をしようとして(出掛けてきて)、この関所まで男が送ってきて、その男を明日新潟へ帰す際に持たせてやる手紙を書いて、とりとめもない言伝などをしているところだった。私たちは、「白浪のよする汀に身をつくすあまの子なれば宿もさだめず」(注1)と古歌に詠まれているように、海辺の港町に身をさすらわせ、あさましい身の上に落ちぶれて、遊女として夜毎に定めない客と契りをかわすのですが、(このようになってしまったのは)前世での所業がどんなにかよくなかったのでしょうと嘆き悲しんでいるのを、聞きながらいつしか寝入ってしまって、(その)翌朝出立しようとすると、遊女たちが「これから伊勢までの道中もよく分からない旅路のつらさ、あまりに不安で悲しゅうございますので、見え隠れにでもあなた様のお後に付いてまいろうと存じます。袈裟をまとったお坊様のお情けで広大な慈悲の恵みをお与え下されて仏道に縁を結ばせてくださいませ。」と、涙を流しながら哀願するのだった。

かわいそうなことではあるけれども、「私たちは諸所方々に滞在することが多いのです。(ですから一緒に行くのは無理でしょう。) あなた方はただただ同じ方に行く人々の後をついて行きなさい。神様のご加護があり、必ず道中は無事であるにちがいない。」と突き放すように言っただけで出立しはしたものの、かわいそうなことをしたという思いはしばらくの間消えることはなかったのだった。

     一家に遊女もねたり萩と月

             自分の泊まった宿に、思いがけず遊女も同宿していて、隠遁者の自分と艶なる遊女とが一つ宿
             に泊まり合わせることになった。庭には萩の花が咲き、空の澄んだ月が照らしているが、遊女と
             自分のようなものとの取り合わせにどことなく通うものがあるようだ。

このことを曾良に話すと、曽良はこれを書き留めた。
                                               (注1) 新古今集・雑下 読み人知らず

 
  〔朝日ヒスイ海岸〕 現地にあった説明版には次のように書いてありました。

  「ヒスイ海岸(宮崎・境海岸)は東西約4kmの砂利浜で、「日本の渚・百選」に選定された美しいエメラルドグリーンの自然海岸です。宝石の一種、ヒスイの原石が海岸に打ち上げられることから「ヒスイ海岸」と呼ばれています。
 日本の海岸でヒスイの原石が拾えるのは、このヒスイ海岸と東の糸魚川のつながるごく限られた地域で、浜辺はいつもヒスイの原石をもとめる人たちで、賑わっています。」


 美しい海岸の景色を堪能した後、他の人々と同じようにしばらく探してみたが、残念ながらヒスイの原石らしきものを見つけることはできなかった。
 
 
  〔宇奈月〕  北アルプス連峰の山裾、黒部川と宇奈月谷が合流する河岸台地にある、宇奈月温泉のある町。温泉は黒部峡谷の電源開発のための軌道が開通した大正12年(1923)に黒部川の上流にある黒薙温泉から引き湯したのが始まりで、今は北陸有数の温泉地だという。春から秋にかけては黒部峡谷探勝の入口となる。
 
 
  〔トロッコ電車・黒部峡谷〕 黒部峡谷探勝には宇奈月から電源開発の資材運搬用に敷設された関西電力の黒部峡谷鉄道の通称「トロッコ電車」で欅平まで入り、このゆっくり走る(平均時速16km/h位)車上から、総延長約20km、1時間20分ほどの間、41のトンネルをくぐり、21の橋を渡りながら、峡谷の景観を楽しむのが一般的である。「トロッコ電車」というのは、屋根のない貨車などに簡単な屋根と座席を設置したりして、眺望をよくした車両で、乗客が直接外気に触れながら、美しい風景や、豊かな自然を楽しめるようにしたものである。雨や風の強い時などは少々きついが、暑い夏などには大変気持ちがよい。オープン型の普通客車のほか、窓付きの特別客車(有料)などもある。

 黒部峡谷は、北アルプスの中央部の鷲羽岳と祖父岳付近を源として富山湾に流れ込む黒部川が、立山・剱岳・薬師岳などの立山連峰と、白馬岳・五竜岳・鹿島槍ヶ岳などの後立山連峰の間に刻み込んだ険しいV字峡谷である。日本で最も深い谷と言われ、山頂から谷底までの1500~2000mもの標高差がある所もある。一般的に宇奈月温泉から上流を黒部峡谷と呼んでおり、宇奈月からさかのぼって欅平までの間、宇奈月ダム・仏石・後曳橋・出し平ダム・ダム湖・ねずみ返しの岸壁・錦繍関などの見所、すばらしい景観が続く。沿線には黒薙・鐘釣温泉、欅平の先には名剣・祖母谷などの温泉がある。

 
 
   
         トロッコ電車

         出し平ダム

黒部峡谷
 
 
〔欅平温泉〕
 欅平駅前の広場から少し下りた所に食事(休憩)・宿泊・入浴のできる欅平温泉・猿飛山荘がある。 それほど大きなものではないが、猿飛峡に続く渓流をすぐ下に見下ろす露天風呂での入浴はなんとも言えぬほど気持ちよかった。入浴後、峡谷にかかる奥鐘橋をわたって人喰岩の所まで行ってみたが、その先で崩落でもあったのだろうか、岩の手前で通行止めになっていた。 
 

欅平温泉付近

欅平駅 
 


〔第2日〕 7月30日(木)

地域・場所 ルート・観光・見学箇所等 読み方  着時刻 発時刻
(通過
)
メーター 説 明 ・ 案 内 等
宇奈月 宇奈月     8.00  105.1   
     …K13/14/53…          
  黒部IC     8.20     
     …北陸道…          
  呉羽PA    8.45 8.53  169.0   
     …北陸道…          
金  沢 金沢東IC     9.20     
     …R159…          
  県営兼六駐車場   9.37    220.2   
     金沢市内観光
   
 
 駐車場に車を置いて徒歩で観光・
  見学。
最後の妙立寺からは疲れ果
  ててタクシーで駐車場へ。
   
     駐車場
‐‐兼六園 ‐‐成巽閣 ‐‐西田家庭園玉泉園
  ‐‐金沢城址(石川門・三十間長屋等) ‐‐尾山神社 ‐‐長町武家屋敷跡
  ‐‐野村家住宅 ‐‐室生犀星記念館 ‐‐にし茶屋街・西茶屋資料館
  ‐‐雨宝院 ‐‐犀川大橋 ‐‐妙立寺 ‐‐
(taxi)駐車場

  県営兼六駐車場       16.47 220.2   
金  沢 六華苑(泊)   17.15    227.5   

   
ホテル六華苑(現在廃業)作成案内図

 
     
  〔兼六園〕 兼六園は、江戸時代の代表的な林泉回遊式大庭園の特徴をそのまま今に残すもので、日本三名園の一つ(他は岡山市の後楽園、水戸市の偕楽園)と言われている。もともと兼六園は金沢城の外郭として城に属したもので、加賀藩5代藩主・前田綱紀が1676(延宝4)年に連池御亭(れんちおちん)を建て、その周辺を作庭したのが始まりという。その後、11代、12代、13代藩主らよって改修等が続けられて現在につながる基本的な構図が出来上がったのだという。

 「兼六園」という名は、12代藩主・斉広(なりなが)が園内に竹沢御殿を造営した際に白河藩主・松平定信(楽翁)に命名を依頼し、定信が中国で名園の条件とされていた「宏大・幽邃(ゆうすい)・人力・蒼古・水泉・眺望」の六勝を兼備しているということで、「兼六園」と命名したのだという。

 広さ約10万㎡におよぶ園内には、瓢(ひさご)池・霞が池などの豊かな池水、雁行(亀甲)橋・虹橋などの曲水に架かるさまざまな橋、唐崎松・根上松などの樹木、栄螺(さざえ)山などの築山、等々、全体がひとつに調和して、みごとな庭園美を見せている。その他、琴柱[徽軫](ことじ)灯籠、時雨亭、夕顔亭などのさまざまな見所もある。

 琴柱 (=徽軫)灯籠(ことじとうろう) =  灯籠の足が琴の糸を支える琴柱(ことじ)に似ていることからこの名がある。その前に架かる虹橋を琴に見立て、霞ヶ池と調和して兼六園のシンボルになっている。

 
   
         琴柱灯籠

 
          園内水路

 
       内橋亭・霞が池

 
  〔成巽閣 (せいそんかく)  兼六園の南端に接してある、国重文の武家書院造(階下)と数寄屋風書院造(階上)を一つの棟に取り入れた建物で、江戸時代末期の武家造の遺構としては他に類例のない、代表的なものだという。

 1863年(文久3)、13代藩主斉泰が母・真龍院の隠居所として竹沢御殿跡に建てたもので、階下・謁見の間の極彩色で彩られた花鳥透彫の欄間や庭園を開放的に眺められる、1本も柱のない長さ20mのつくしの縁、階上・群青の間など各部屋のギヤマンをはめ込んだ雪見障子、天井・壁・床の間など、階上階下とも各所に優れた意匠を凝らした造りになっている。 

 
  〔西田家庭園・玉泉園〕 パンフレットによれば、 「兼六園の樹林を背景とし、山畔崖地を利用した上下二段式の池泉回遊式庭園」で、作庭は江戸初期の脇田直賢(なおかた)の代に着工され4代九兵衛の代(中期初頭)に完成されたものという。また、この築庭は全国に六例が確認されるだけで幻の様式とされる「玉澗流」庭園だという。

 本庭・西庭・東庭があり、本庭最上段には千宗室(裏千家始祖)の指導で造られた、広大な池を中心とする庭園と金沢で最古のものとされる茶席・灑雪亭(さいせつてい・木下順庵の命名)からなる灑雪亭露地がある。
 水字形池泉を中心とした本庭、作庭以前から茂っていたといわれ、樹齢三百数十年とされる朝鮮五葉松や、楓、樅などの老樹、その他数百種の草木・植物群等も見所とされる。

 
 

成巽閣入口

重文 成巽閣
 
         玉泉園
 
 
〔金沢城址〕 
織田信長の時代、ここは加賀一向一揆の拠点となった、城あるいは要塞とも言えるような石垣や空堀などを廻らした浄土真宗の寺院「尾山御坊(御山御坊)」であった。織田信長がここを攻め落として一揆を鎮圧した後、跡地に金沢城を築いて佐久間盛政をここに据えた。が、盛政が賤ヶ岳の戦いで羽柴秀吉によって滅ぼされたのち、秀吉は金沢城を前田利家に与えた。利家は天正11年(1583年)に入城し、尾山城と改称した。文禄元年(1592年)から改修工事を始め、曲輪・堀の拡張、五重天守・櫓などを構築、文禄元年(1592年)には前田利長(利家の子)が再び改造を行ったりした(この頃再度金沢城と改称したらしい)が、その後落雷などの数度の火災で天守閣など城内の建物のほとんどは焼失したという。

 現在残っているのは三の丸搦手(からめて)門の石川門と三十間長屋だけである。菱櫓・五十間長屋・橋爪門続櫓などは平成13年に復元・完成されたもの。
 
 
  〔石川門〕  金沢の案内書には兼六園とともに必ずその写真が出てくる入母屋造の搦め手の城門(国重文)。宝暦の大火(1759年)で焼失した門を、1788年(天明8)に再建したもの。隠し鉄砲狭間や唐破風の出窓の石落としなどが設けられており、屋根には鉛の瓦(いざという時には溶かして鉄砲の弾に作り変えることができる)が葺かれているという。

 
  〔三十間長屋〕 鉄砲や火薬の製造所に当てられていたという国重文の建物で、1858年(安政5)に再建されたもの。奥行3間(約5m)、横幅26.5間余り(約48m)の鉛瓦葺の二層二階建て多聞櫓(たもんやぐら=長屋状の倉庫や防御砦の機能を持つ建物)で、腰周りは海鼠(なまこ)壁になっていて堅牢な構造という。
 
  〔五十間長屋〕 金沢城公園の新しいシンボルとして平成13年7月に完成した復元建物で、石川門や三十間長屋と同様、鉛瓦や海鼠壁が外観の特徴。二層二階の五十間長屋の北端には三層三階の菱櫓、南端にも三層三階の橋爪門続櫓がある。五十間長屋は武器等の倉庫だったという。復元された現在の長屋は各種の模型や発掘調査出土品等の展示施設になっている。二つの櫓は城内各所を見張るための物見櫓だったという。

 
   
 石川門

  
         三十間長屋

 
       五十間長屋

 
  〔尾山神社〕  加賀藩祖の前田利家を祭る神社で、表門として大変珍しい「神門」があることで知られている。この門は明治8年に建てられた、三層、高さ25m程の独特な景観をもつ和洋折衷建築で、第三層にはオランダ人技師の設計になるギヤマンがはめ込まれており、通常の日本の神社の門とは異質な異国情緒を漂わせている。


 
  〔長町武家屋敷跡〕  金沢城跡の西にある繁華街・香林坊から少し北に上がった所にある長町は、藩政時代には上・中級藩士の居住地だった所で、ここには今も土塀と石畳が連なる、江戸時代に逆戻りしたかのような昔ながらの武家屋敷跡が残されている。両側に武者窓の付いた長屋門や土塀などが連なる石畳のあまり広くない道は、突き当たっては曲がる鍵の手になっており、戦の際などに敵が一気に駆け抜けることができないような街区になっている。

 
  〔野村家〕  野村家は武家屋敷跡で唯一内部が公開されているもの。前田利家の直臣・千二百石の野村伝兵衛信貞家以来、明治三年の廃藩まで12代にわたって代々、御馬廻組組頭(おんままわりぐみくみがしら)、各種奉行職などを歴任してきた野村家の屋敷跡である。当時は広壮な屋敷を構えていたが、廃藩後は、土地を分割して売却したりした。
 庭園は野村家の頃のもので、樹齢400年以上といわれる山桃などの樹木、多宝塔、各種大小の灯籠、架け橋、名石、奇岩、曲水、落水等が配された名園といわれるものだが、現在公開している住宅は昭和初期に大聖寺の豪商・久保家の家屋の一部(嘉永年間(1848~54)に建築されたもので、大聖寺藩主を迎えるための上段の間が付いた豪壮な造りの建物)がここに移築されたもの。

 
   
      長町武家屋敷跡

 
       長町武家屋敷跡

 
        野村家庭園

 
  室生犀星記念館〕 平成14年8月1日、生誕地跡に開館。犀星の多彩な文学活動を伝える直筆原稿、書簡、初版本、在りし日の犀星を偲ばせる遺品などを展示している。 犀川大橋の西側南詰から北西へ400mほどの所にある。
      金沢市千日町3-22  TEL 076-245-1108  AM9.30 - PM5.00  一般 300円

 
  〔室生犀星〕   (むろうさいせい)  金沢の三大文豪の一人といわれる詩人・小説家。明治22年(1889)~昭和37年(1962)[73歳]。
 加賀藩足軽組頭を勤めた小畠弥左衛門吉種を父とし、小畠家に女中として奉公していたとされるハルを母として金沢市裏千日町に生まれたが、生後まもなく生母から離され、犀川大橋詰の真言宗寺院雨宝院の住職・室生真乗と内縁関係にあった赤井ハツに引き取られ、照道と名付けられて養育された(酒飲みで暴力を振るう養母であったという)。7歳の時に室生真乗の養嗣子となり、室生姓を名乗ることになった。
 
 13歳の時に高等小学校を退学、金沢地方裁判所に就職した。この頃から金沢で盛んであった俳句の手ほどきを受け、文芸に興味をもつようになっって俳句や詩を作るようになった。17歳の時、「政教新聞」に掲載された詩で初めて「犀星」の名を使ったという。24歳、北原白秋主宰の文芸雑誌「朱欒」(ザンボア)に掲載された詩を見て手紙をくれた萩原朔太郎と親交を結ぶようになったりした。29歳で結婚、その前後に「愛の詩集」、「抒情小曲集」を出版。詩人として近代抒情詩の世界で一定の成果を挙げた犀星は、事実性・具体性のある表現を目指して小説を書き始め、翌
大正8年8月、30歳で初めての小説「幼年時代」が「中央公論」に掲載され、2ヶ月後には「性に目覚める頃」が掲載された。以後、小説家としてさまざまな作品を発表して晩年まで活躍した。 

    
  室生犀星記念館パンフレット

 
 数々の抒情詩、詩人的感性が生み出した初期の小説、市井の人々のありようを描いた中期の多くの小説、多くの自伝的なエッセイなどのさまざまな著作があるが、
  最長編「杏っ子」(昭和32年)[昭和33年度読売文学賞を受賞]、
  評論「わが愛する詩人の伝記」(昭和33年)[同賞受賞]、
  古典に取材した作品「かげろふの日記遺文」(昭和33-34年)[野間文芸賞授賞]
  などが知られている。
 
    犀星は泉鏡花などとともに、金沢といえば思い出される作家の一人だが、その幸薄い境遇のもとに生まれ育った故郷・金沢への複雑な想いを記した有名な詩がある。

        小景異情(その二)      [ 「抒情小曲集」(1918 ・大正7年) ]

       ふるさとは遠きにありて思ふもの
       そして悲しくうたふもの
       よしや   
       うらぶれて異土の乞食(かたゐ)となるとても
       帰るところにあるまじや
       ひとり都のゆふぐれに
       ふるさとおもひ涙ぐむ
       そのこころもて
       遠きみやこにかへらばや
       遠きみやこにかへらばや
  
     ふるさとは、遠く離れた地にあって心に懐かしく思い、そして悲しく歌っているほうがいいものだ。
     たとえ、落ちぶれて異郷の地にあって乞食になったとしても、実際に帰っていく所ではあるまいよ。
     (今、実際なつかしさにひかれて、ふるさと金沢に帰ってきてみたが、もうここにはいたくない)
     ひとり異郷の都会の地にあって、その夕暮れ時にふるさとのことを思って涙ぐむ、
     そんな心を抱いて(そんな自分の姿を心に思い描きながら)
     遠い異郷の都会の地に帰って行きたいものだ。
       (心に思っていたものとは違うこんな「ふるさと」を離れて、早く)
     遠い異郷の都会の地に帰って行きたいものだ。

  内容の解釈にいくつかの説がある詩だが、詩人・伊藤信吉の「一見しただけでは、東京で作ったのか郷里で作ったのか分りにくいようだけれども、しかしそれは郷里を離れようとするときの別れの心と、もはや再び帰らぬという決意を歌ったものである」(「現代詩の鑑賞(上)」新潮文庫)という解釈などをふまえ、上記のようにその意を汲んでみた。

 私生児として生まれ、普通ではない生活環境や複雑な人間関係の中で苦しみ悩みながら生育した金沢だが、自分を慰め豊かにしてくれた、「美しき川は流れたり そのほとりに我はすみぬ」と詩に歌った犀川をはじめとするかずかずの自然を抱く金沢。詩人を目指し、上京と帰郷を繰り返してさまざまな挫折や悲哀を味わった青年期。そうした中での故郷金沢への思慕・望郷の念と、故郷に帰ってきた時の相変わらずのぎくしゃくした人間関係、冷ややかな対応などからくる、故郷への幻滅、落胆、この相反する二つの間に揺れながらも、結局ふるさとへの決別を告げざるを得なかった、その苦しくつらい心情の込められた詩であるように思う。

 
  〔にし茶屋街〕  1820年(文政3)、12代藩主・前田斉広(なりなが)が東の郭(現ひがし茶屋街)とともに公許を与えて定めた妓楼地区の西の郭が始まりだという。その後、茶屋制度が廃止されたり、最公許があったりと変遷をたどりながらも、
  「100有余年の歴史と伝統の面影を今に伝え」 「上町は金沢での紳士の社交場としての役割を果たし、数多くの名妓を生んでその伝統と格式は現在でも受け継がれている」 「茶屋街の建造物の特徴は格子作りと掛行灯である…金沢の格子は桟が細くて間隔が狭い…以前は紅殻の漆で塗られていた」
とのこと。          
                (「にし茶屋街を愛する会」パンフレット)

  

 
  〔西茶屋資料館〕  にし茶屋街の西端、「吉米楼」という茶屋の跡地にその建物を再現した資料館。1Fには、この吉米楼に幼い頃移り住み、西の郭で育った異才の作家・島田清次郎(この吉米楼を舞台にした小説『地上』などがある)に関する資料が展示されている。2Fは客用の座敷で、朱色の壁に囲まれて、金屏風、ぼんぼり、太鼓、三味線などが置かれ、艶やかな雰囲気が漂う。

 
  〔雨宝院〕  犀川大橋の西側南詰から北へ50mほどの所にある。室生犀星が幼年期に養子として引き取られ養育されたという寺で、初期の作品「幼年時代」や「性に目覚める頃」の舞台になったところ。寺内には資料室があり、住職に宛てた書簡や初版本などの資料を展示している。

  

 
  〔犀川大橋〕 金沢には、兼六園、金沢城、市街などを挟んで北東側に浅野川、南西側に犀川が平行するように流れている。犀川のほとりで室生犀星が生まれ育ち、浅野川のほとりでは泉鏡花と徳田秋声が誕生した。
 ペンネーム犀星の「犀」は、犀川の「犀」で、犀川はさまざまな力を与えた彼の文学の出発点だったとされる。
 金沢城の南西にある片町から西へこの犀川大橋を渡ると寺院が密集した寺町に入る。3代藩主利常が城下に散在していた寺院を集め整備したところで、室生犀星ゆかりの雨宝院や忍者寺の別称をもつ妙立寺などがある

  室生犀星記念館のパンフレットにも犀川の写真とともに掲載されている
  「犀川」という有名な詩を紹介しておきます。

          うつくしき川は流れたり
          そのほとりに我は住みぬ
          春は春、なつはなつの
          花つける堤に座りて
          こまやけき本のなさけと愛とを知りぬ
          いまもその川流れ
          美しき微風とともに
          蒼き波たたへたり          
               詩集「抒情小曲集」 「犀川」


  
 室生犀星記念館パンフレットより

 
  〔妙立寺〕 みょうりゅうじ。前田利家が前田家の祈願所として 1585年(天正13)に建立した寺。最初は城近く造られたこの寺を3代藩主利常が幕府からの攻撃に備えて、1643年(寛永20)に現在地に移築建立したのだという。以下に妙立寺発行パンフレットの説明を引用します。

 
  幕府の統制下、加賀三代藩主・前田利常が奇抜の建立
 日蓮宗、正久山・妙立寺は、加賀三代藩主の前田利常公が、寛永二〇年(西暦一六四三年)金沢城近くから移築建立した。徳川幕府が名実ともに日本全国を統一するため、ささいなことを理由に、多くの諸大名を取り潰したころである。
 利常公は徳川家から嫁を迎え、母親を人質に出し、鼻毛を伸ばして馬鹿殿様を演じ、謀反などとんでもないと幕府を安心させる。その一方で、多くの武士が起居できる寺院群を、現在の寺町に新築した。その中心に監視所の役割を持つ当山・妙立寺を建立したのである。
 見上げるような屋根、望楼、多くの隠し階段、切腹の間など、種々の仕掛けがあるので「忍者寺」とも呼ばれている。今も現存する当山は、初代藩主・利家公が金沢に入城して間もないころに、政治の理念を日蓮宗・法華経の中道精神に求めて建立した「祈願所」だったものを、利常公の知略で移築されている。
 結局、戦火にあわず、風雪に耐え、加賀百万石の繁栄とともに歴代の加賀藩主は「祈願所」として崇め、武運長久
を祈り、家紋「剣梅鉢」を守ってきたのである。


 
四階七層二十九階段、複雑な仕掛け  加賀藩の秘策
 複雑な建築構造をもつ正久山・妙立寺。人呼んで”忍者寺”の建立当時は、幕命で三階建て以上の建築は禁止されていた。しかし当山は、外観は二階建てだが、内部は四階建て七層にもなっている。しかも、その構造は、きわめて頑強で、台風や雪害などに充分耐えられる配慮がなされている。
 中二階、中々二階など複雑な構造の中に、部屋数が二十三、階段数が二十九もあり、最上階の物見台ともとれる望楼は各方面を遠望でき、金沢城への逃げ道といわれる大井戸など、出城としての要素を数多く秘めている。
 また、忍者寺といわれる仕掛けも散在する。しかし、忍者の寺として建立したのではなく、幕府からの公儀隠密や外敵の目をあざむくために装備されたもので、堂内のあちこちは迷路のようになっているのである。類のない建て物である。

 拝観はガイド付き(30分毎・定員制)で電話(076-241-0888)での予約申込(人数・希望日時)が必要。余裕があれば当日申込も可能。幼児や未就学児は保護者同伴でも拝観できない。
 
  〔第3日〕金沢東山地区
 

  ホテル六華苑(現在廃業)作成案内図
 


〔第3日〕 7月31日(土)

地域・場所 ルート・観光・見学箇所等 読み方  着時刻 発時刻
(通過
)
メーター 説 明 ・ 案 内 等
金  沢 六華苑     8.05  227.5   
  東山市営駐車場   8.15    230.9   
     金沢市内観光(東山地区)   駐車場に車を置いて
徒歩で観光・見学。
 
  駐車場 ‐浅野川大橋 ‐主計(かずえ)町茶屋街 ‐   中の橋 ‐東茶屋街(志摩・懐華楼) ‐駐車場
  東山市営駐車場     9.55  230.9   
  あめの俵屋   9.59  10.18  232.0   
     …R159…          
  金沢東IC     10.3     
     …北陸道…          
  不動寺PA   10.35  10.55  241.1   
     …北陸道…          
  小矢部・砺波JCT  となみ   11.05     
     …能越道…          
高  岡 高岡IC     11.15     
     …R8・R415…           
  高岡市万葉歴史館    11.37  12.20  286.7   
     …R415…          
 氷  見  氷  見  ひみ 12.30  12.55  293.2   氷見市島尾のサークルKで買物・昼食
     …R160…           
    庵シーサイド公園   いおり 13.40  13.47  321.9   
     …R160…           
七  尾  七  尾          
     …R249・K47…           
和  倉  能登島大橋(往復)    14.20  14.30 342.7  大橋を渡った所にあった能登島の公園で休憩
  屏風崎公園  びょうぶ崎 14.33  14.45  344.4  大橋の西側袂にある公園。休憩。大橋の全景を一望。
   和倉温泉          温泉街を一巡。
     …R249・K255…          
   ツインブリッジのと (往復)   15.20  15.25  371.3   
     …K256・R249…          
 穴  水  キャッスル真名井  まない 15.50  19.00    チェックイン・夕食後、名舟大祭を見に外出 
     …K1…           
 輪  島 輪島駅前駐車場    19.30    411.7   
     (シャトルバス)           
 名  舟  名舟神社           名舟大祭・御陣乗太鼓 
     (シャトルバス)            
  輪島駅前駐車場      0.00  411.7   
     …K1…          
 穴 水  キャッスル真名井     0.30   436.0   

  主計町茶屋街(かずえまち) 主計町茶屋街はひがし茶屋街・にし茶屋街と並ぶ金沢三茶屋街の一つ。ひがし茶屋街から西へ数百m、浅野川大橋をはさんで対照的な位置、大橋とその北西側にある、人しか渡れない中ノ橋との間の浅野川の南岸沿いにある。浅野川に面した所には料亭の建物が立ち並んでいるが、料亭群の西側の裏通りには狭い路地と千本格子のついた庶民向け遊郭跡の建物が続く街並みが残っている。ひがし茶屋街とは違う雰囲気・情緒があり、国の重要伝統的建造物群保存地区にも指定されている。

 
 
     主計町茶屋街(大橋から)


         中ノ橋

 
   主計町から浅野川大橋を望む

  東茶屋街(志摩・懐華楼)   金沢城の東北にあたる東山地区、浅野川大橋の北側を東に入った所にある。かつて伝統と格式を誇り、文人や裕福な商人たちの社交場であった東の廓のあと。石畳の通りの両側には細かい紅殻格子のついた建物が連なり、独特な情緒が漂う。
  建物内部を一般公開している「志摩」(国重文)と「懐華楼」のパンフレットの説明の一部を引用します。

 
 

      国指定重要文化財  金沢ひがし郭 志摩          (「志摩」パンフレット)

  ひがし廓(くるわ)
 文政三年(1820)に加賀藩がこの近辺に点在していたお茶屋を集めて町割りしたものである。格子戸と大戸、それに二階の造りが高い町並みは藩政時代の面影を今に残し、金沢では最も情緒のある町並みで、今はひがし茶屋街と呼ばれ、国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されている。

 志摩は、文政三年(1820)に建てられたお茶屋の建物で、典型的なひがしのお茶屋の造りを江戸時代、そのままに残しており、学術的にも貴重な文化遺産として高く評価されている。
 お茶屋は二階が客間であり、押入れや物入れを造らずあくまでも遊興を主体とした粋な作りとなっている。
 お客が床の間を背にして座るとその正面が必ず控えの間となっており、その控えの聞が演舞の場となり、襖が開くと同時にあでやかな舞や、三弦などの遊芸が披露されるのである。ここでの遊びといっても、琴、三弦、舞、謡曲、茶の湯から和歌、俳諧に及ぶものであり、客、芸妓ともに巾広く高い教養と技能が要求されたのである。
 一階には大戸、いろり、石室、井戸、等も残っている。


 

 
      金沢市指定保存建造物  懐華楼 かいかろう (旧 越濱)     (「懐華楼」パンフレット)

◆沿革
 この建物のある東茶屋街は、文政3年(1820)に、当初の加賀藩の政策として整備された。
 「文政三年庚辰初冬徒町御会所御渡之図」「浅野川茶屋町創立之図」によると「志ま屋」となっている。
 天保2年(1831)に茶屋町が一度廃止されるが、慶応3年(1867)再び茶屋町として公認された。
 その後、明治39年(1906)に出た「金沢廓の栞」に「越濱」の名があり、昭和初期まで続いたと言われている。
◆建物の特徴
 間口6間奥行き12間の大きさは、この界隈で最も大きく、土蔵や茶室・茶室用の入口を持つこの建物は格式が高かったものと思われる。
◆外観
 表通りに面する外観の特徴として一階の出格子と二階の高い建物の外観が特徴的である。
     ( 中略 )

◆1階間取り
 通りに面して「みせの間」がある。 板貼りの部屋で格子越しに通りが見られ、現在は囲炉裏になり サロンとなっている。
 横にある6帖の茶室は茶室土間縁と坪庭がつき、茶室の畳は金箔織りになっている。
 「みせの間」奥には、「茶の間」仏壇のあった「奥の間」と続く。これらの部屋は、主の生活の場所である。商売に使用する2階の天井を高く取っているため1階の天井は低くなっている。
 階投下には、「板の間」が「台所」とつながっている。
 「板の間」の下には「室」と呼ばれる地下室があり、保存場所として利用していたと思われる。
 「台所」奥には浴室・便所があり、裏通りになる。
 「奥の間」は縁側を挟んで中庭に面する。 中庭は屋根雪落としの場所も兼ねている。縁側にも拭き漆塗りの階段がある。
 中庭の奥に土蔵がある。土蔵の造りはかなり古く建設時期は建物と同じではないかと思われる。
 この建物には入口が4ヵ所あり、客同士が顔を会わさ無いようにしたものと思われる。

◆2階の間取り
 通りに面して10帖・6帖・6帖の3間続きの部屋がある。通り側に拭き漆塗り板張りの縁側がある。 10帖の部屋には2間の床の間があり、下の6帖には置き床がある。この部屋には長押が付いていないが柱には取付けの後が残る。一度茶屋制度が廃止された時に長押をはづした名残と聞く。壁の色は群青で塗られている。
 4.5帖2間続きの次の間を挟んで12.5帖と7.5帖の広間になる。この部分は2.5間の床の間の造りや、照明器具はその当時の物である。中庭に面する縁側はウグイス張りの床である。壁の色は朱で塗られ柱等の造作材は拭き漆塗り仕上げとなっている。
 中庭を囲むように縁側が続き、4.5帖と6帖2間続きがある。この部屋の天井はヘギ板貼りである。

 

 
 
〔あめの俵屋〕
 東茶屋街の北西600m位の所、浅野川の東側にある。どういうお店なのか、俵屋発行のパンフレットにある説明の主要点をアレンジして紹介します。

   創業天保元年  のれんを守って百七十余年  あめの俵屋

金沢で一番古いあめ屋。それは創業天保元年、連綿百七十余年の伝統を誇る俵屋でございます。
俵屋のあめは、創業のころ初代次右衛門が、乳飲み子を抱えながらも母乳が出ず困り果 てていた母親達の姿を見て、何とか母乳のかわりになる栄養価の高い食品はないかと考えた末に作り上げたのがはじめといわれております。

 
俵屋のあめの原料は良質の米と大麦。砂糖がわたしたちの生活に入ってくる以前に、穀物から甘みを得た、先人の知恵。
創業以来伝統の技を今に伝える、職人の心。
百万石の城下町金沢の歴史とともに生き続けてきた、この食の文化をしっかりと守りたい。それが俵屋のあめづくりに込める想いなのです。


 俵屋で売っている「あめ」には、粒状の飴「俵っこ」(つぶのあめ、しょうが、うめ、れん乳、棒付)、固形状の硬い飴「おこしあめ」、水飴状の軟らかい飴「じろあめ」、「粟飴」、「健康飴」など色々な種類がある。

 
 
  〔高岡市万葉歴史館〕  最初のプランでは金沢と高岡観光の後、能登へと考えたのだが、高岡にまともに寄ってしまうと輪島の御陣乗太鼓が見られなくなってしまうため、高岡観光はこの旅行の最後に回す(場合によってはカット)することにせざるを得なかった。というわけで、この日は高岡で一番寄ってみたかった「高岡市万葉歴史館」にだけ寄っていくことにしたのだった。

 高岡は、「万葉集」の編纂者とも言われ、その代表的歌人の一人でもある大伴家持が、天平18年(746)に越中国守として赴任してきて、天平勝宝3年(751年)までの5年間滞在していた所である。家持は在任中、この地で223首、関連のあるものを含めれば332首もの歌を詠んでいるという。そうしたことから、高岡には「万葉集」ゆかりの地としての万葉集関連施設がいくつかある。
  「高岡市万葉歴史館」はその一つで、「万葉集」と万葉の時代を探求できるよう、広く関係資料・文献・情報類の収集、整理、調査、研究を行い、その成果を公開している。「大伴家持の生涯」や「万葉の時代環境」などに関する展示パネル、万葉時代の文房具、貴族・庶民の食卓、遣唐使船、木簡などの展示品などがある。
 現代のマルチメディア技術を駆使してそれらの成果を展示しているのがここの特色という。建物の周囲には万葉集ゆかりの草花や樹木が植えられた「四季の庭」などもある。
  
 
   
      高岡市万葉歴史館


     貴族の食卓(復元品)

 
      遣唐使船模型

 
   能登島大橋 能登島大橋(のとじまおおはし)は、1982年に造られた和倉温泉地区から能登島地区へと向かう県道47号線上、七尾湾の屏風瀬戸(びょうぶせと)に架けられた全長1,050mの橋で、石川県で最も長い橋だという。
 
 
 能登島大橋

 
キャッスル真名井

 
  〔キャッスル真名井・穴水湯ったり館〕 この時の能登観光の最大の眼目は、7/31-8/1に行われる「名舟大祭」(輪島東郊の名舟神社の大祭)の「御陣乗太鼓(ごじんじょだいこ)」(7/31夜演奏)を直接見、聞くことであったから、7/31の宿は輪島辺りに取りたかったのだが、土曜日ということもあり、2週間程前の予約ではこちらが泊まれるようなランクの宿は全然空いていない。8/1は何とか輪島の民宿が取れたのだが、肝心な7/31の宿が取れない。さてどうするか。何とかしたいとあれこれ必死に考えて探した結果が、輪島まで車で30分程で行ける所にある穴水の「キャッスル真名井」であった。ここから「名舟大祭」を見に行こうなどと考える人はいなかったようで、予約はすぐに取れたのでほっとしたのだった。
 
 ここは穴水町役場のホームページに「城風コンベンションホール・国民保養センター」として紹介されているところで、「キャッスル」という名前の意味などあまり考えずに行ったため、思わず「えっ!なにっこれ!」と言ってしまったような城郭風建物の保養センターであった。

 
  〔名舟大祭・御陣乗太鼓〕   チェックインして休憩した後、入浴・夕食を済ませて午後7時過ぎに名舟大祭を見るために輪島へ向かって宿を出た。 30分程で今は廃線でなくなってしまった七尾線の旧輪島駅の所にある駐車場に到着。車を置いて、名舟には大きな駐車場がないため、大祭の時だけ臨時に運行されるシャトルバスに乗り換え。バスは千枚田で知られる白米を過ぎてまもなく、20分ちょっとで名舟に。

 神社下の広場にステージが設置されており、どうやら御陣乗太鼓はそこで演奏されるらしかった。まもなくすると、祭を盛り上げるために招かれたのであろうキム・ヨンジャさんの歌謡ショーが始まった。その後が御陣乗太鼓の演奏だった。生で見、聞くその演奏はやはり大変迫力があり、素晴らしいものだったが、海辺の岩場で髪を振り乱して撥(ばち)を振るうポスターの写真やプロモーションビデオのイメージにあまりに毒されすぎていたのだろうか、素朴なステージの上での演奏には若干の物足りなさを覚えたのも事実であった。

  名舟大祭は、輪島沖合いにある舳倉島の奥津姫神社の祭神を名舟白山神社にお迎えする祭だという。高台の上にある白山神社からキリコ(切籠灯籠)とともに神輿(みこし)が石段を下りてきて港に向かい、船に乗せられた神輿が海上に建てられた鳥居まで行って祭神をお迎えして来るというものらしい。この祭が「海上渡御の祭」とも言われるのはそのためであろう。この渡御に際して奉納されるのが御陣乗太鼓(ゴジンジョダイコ)なのだという。

  御陣乗太鼓は、天正5年(1577年)、上杉謙信が能登を攻略した際、まともには太刀打ち出来ないと思った古老が一計を案じ、樹皮でさまざまな奇妙な仮面をつくってかぶり、頭髪代わりに海草をかぶるというおどろおどろしい格好をして、激しく太鼓を打ち鳴らしながら上杉勢に奇襲をかけて敗走させたのが始まりといわれている。

 現在は、爺面、夜叉面、デカ面、ダルマ面、男の幽霊、女の幽霊の六種類の面に海草の髪をつけた六人の男たちが
時々雄たけびを上げ、序破急を繰り返しながら、代わる代わる打ったり、全員で乱れ打ちしたりする。
 最初は子供組の奉納打ちから始まるが、これは御陣乗太鼓の伝承は地元に生まれたものにしか資格がないということで、地元の子供たちが伝統を継承すべく週2回太鼓の練習を続けてきた成果の発表でもあるという。

 名舟からシャトルバスで輪島に戻ったのは11時半頃。一息ついてから自車で出発、宿に着いたのは深夜12時半近く。事前に宿の人には事情を話して帰りが遅くなっても宿に入れるようにしておいてもらったので問題はなし。午前1時頃、金沢市内観光後の金沢ー穴水ー輪島ー名舟ー輪島ー穴水という行程で行動した長い一日がやっと終わったのだった。常識では考えられないような行動であったかも知れないが、御陣乗太鼓を、発祥の地で、生で、見聞きしてみたいというここ数年の思いを実現させることができた満足感で疲れはあまり感じなかった。

   (この時の写真は誠に残念ながらほとんどまともに写っていませんでしたが、3枚だけ掲載します。)

 
   
 神 輿
 
         切籠灯籠
 
       御陣乗太鼓     
 



〔第4日〕 8月1日(日)

地域・場所 ルート・観光・見学箇所等 読み方  着時刻 発時刻
(通過
)
メーター 説 明 ・ 案 内 等
穴 水 キャッスル真名井 まない   9.05  436.0   
     …R249・K34…        
  立戸の浜海水浴場 たっとのはま 10.10  10.20  462.1   
     …K34…          
  鵜川 うかわ 10.30  10.35  469.2  給油
     …R249…          
  宇出津 うしつ        
     …K35 …          
九十九湾 九十九湾園地 つくもわん  11.28   498.0   
     九十九湾遊覧船          
  九十九湾園地     12.50  498.0   
     …K35・R249…          
  恋路海岸    13.13 13.25  510.6   
     …R249…          
  珠洲 すず        
     …K12・K28…          
狼煙のろし 禄剛崎灯台 ろっこうざき 14.00  14.35  540.3   能登半島最北端
     …K28・R249…          
  曽々木海岸・窓岩 そそぎ 15.08  15.15  568.3   
  上時国家 かみときくにけ 15.18  15.43  571.0   
白 米 千枚田    15.55 16.08  579.3   
     …R249…          
輪 島 民宿 海辺(泊)   16.20    589.2   

  〔内浦から外浦へ  前日、御陣乗太鼓を見るために内浦の穴水と外浦の輪島・名舟の間を往復するという普通はやらないことをやったのだが、当初の行程プランでは内浦から外浦へと周っていって、名舟か輪島に泊まって御陣乗太鼓を見るつもりだった。だが、行程を組んでみるとこの周り方では31日に輪島・名舟に行くのは無理。そこで、回り方はどうなってもいいから31日に輪島・名舟に宿を取ろうと考えたのだが、今度は宿が取れない。行き詰まったあげくに思いついた窮余の策が穴水に泊まっての輪島・名舟往復だったのだ。少々きつい行程になってしまったが、結果的には当初のプラン通りに能登観光をできることになり、さらにその先の行程にもうまくつなげることができたのだった。
  この日は当初のプラン通りに内浦から外浦へと周って能登観光を続ける行程である。

 
   〔ぼら待ちやぐら〕 前夜遅くまで行動した関係でいつもよりゆっくりして宿泊先のキャッスル真名井を出発。R249を九十九湾に向かって走り、海沿いに出てしばらく走った所で海中に立つやぐらに気がついた。今まで見たことがないものだったし、ちょうど駐車できる所だったので車を止めて写真を撮ったのがこれ。「ぼら待ちやぐら」というものだった。

 漁師がやぐらの上で終日ボラの群を見張り、海底に張ったフクロ網の上を魚群が通るのを待って、網の上にきたらすぐさま網を引き上げるという漁法で使ったものだという。最盛期には、20前後あったが、1996年秋を最後にこの漁法を行う人もいなくなり、現在は観光用に残されているものだけだという。
 予期していないものだったのでその時はこの場所がどこなのかわからなかったが、後で調べてみると、穴水町中居のポケットパークという所だったらしい。
 
 
       ぼら待ちやぐら

 
   〔九十九湾つくもわん園地能登半島の南側中央にある、湾内に複雑に入り組んだ入江がたくさん(九十九)ある、内浦を代表するリアス式海岸の小さな湾。中央には蓬莱島が浮かび、海岸線には赤松が生い茂っている緑豊かなその景色の美しさは「箱庭」のようだといい、日本百景の一つに選ばれている。湾内は海中公園になっていて水中観光船なども運航されている。

 九十九湾遊覧船にもいくつか種類があるようで、こちらが乗ったのは水中観光船ではなかったが、湾内周航の最後に大きな生簀(いけす)に船を着けて、いろいろな魚を間近で見せてくれた。
   
  〔恋路海岸 ある青年と恋に落ちた娘が、恋敵にだまされて海で命を落とした恋人の後を追うように悲しみのあまり海に身を投じたという悲恋物語に由来する名を持つ海岸。そそり立つ大きな玄武岩、手前に朱の鳥居の立つ弁天島、ハート型の「幸せの鐘」のモニュメントなどがある。




 
〔禄剛崎ろっこうざき 禄剛崎は能登半島の最先端であり、最北端でもある岬。能登半島はここを境に外浦と内浦に区分される。天気がよければエメラルド色の美しい海の向うに立山連峰や佐渡島を望むことができる所だが、日の出と日の入りを同じ位置から眺められる所でもあるという。岬の先端には日本海航路の重要な道しるべとなる、高さ12mのドーム型の灯台が建っている。

   狼煙のろし 禄剛崎の南側、県道28号線沿いにあるのが「狼煙」(のろし)と呼ばれる町である。一帯は古代から狼煙台が置かれた所で、狼の糞を焼いて狼煙を上げたと伝えられているという。  
        禄剛崎灯台

 
         禄剛崎

 
〔曽々木海岸・窓岩  禄剛崎と輪島との中間辺りにある約2㎞ほどの海岸。その一部は山裾が海に迫っていて断崖や岩礁、奇岩・洞窟などが続く。窓岩、垂水の滝などの名所、冬の風の強い日に波が泡になって舞い散るのを見られる遊歩道、「波の花みち」などがある。

 「窓岩」は曽々木海岸のシンボルで、海岸線に突き出した高さ10mほどの岩に人が通れる位の穴が開いていて、その穴が窓のように見えるのでこの名があるという。

 
 

〔上時国家 「本家 上時国家」発行パンフレットの簡潔な説明を引用します。

     上時国家の由緒
    今から八○○年の昔、平清盛の義弟平大納言時忠は、平関白ともいわれ、平家一族の実質上の統領で
   あった。源平の合戦で平家が滅亡した際、時忠は神器の帰座の功により特別の計らいで能登に配流と
   なり、配所で没した。
    その子時国は、近隣の村々三〇〇石を統治し、館を構え、江戸時代には天領の大庄屋を務め、苗字帯刀
   を許された。このころ第二十一代当主は、現代に残るこの豪壮巨大な屋敷を築き、第二十五代当主が現在
   もこの屋敷と伝統を守っている。

      屋敷の概要と見どころ
     建 物     ・およそ一六〇年前に建造され、完成までに二八年を要した。
    
(重要文化財)  ・建坪一八九坪、入母屋茅葺きの大屋根は、高さ一八メートル。
             ・玄関は唐破風総けやき造り、大納言の間は書院造リ。
              ・民家でありながら随所に武家の特徴を備え、外観から内部まですべてが豪壮。
    庭  園  ・謙倉時代の様式とされ、平庭には心字池を配し、また高庭は自然の他形を巧みに利用した、
           独特の作風。
    調度類  ・武具、火消装束、道中用具、千石船用品、化粧道具、遊び道具、儀式用品、他。
           ・絵図面、籠、炉と自在鈎、神仏混交神棚、他。


  
                                                                       上時国家から海側へ5分ほどの所には、時国家12代の時に分家した「下時国家」(「能登安徳合祀時国家」)がある。こちらの建物も重文で江戸初期の貴重な民家だという。
 
        上時国家

 
      上時国家玄関

 
〔白米千枚田  R249沿いにある駐車場から振り返って見ると、左手の海べりから右手の山の稜線へと続く斜面にそれほど大きくはない田んぼが段々になって千枚皿のようにびっしりと続いている。平均1.5坪ほどの二千余枚の田んぼが作られているのだという。機械の入らないこういう所での農作業は大変だと思うが、今もお年寄りとボランティアの人たちによって耕作が続けられているという。こうした千枚田は日本各地にあるが、色々なことを考えてしまわずにいられない風景の一つだ。

 
輪島〕 日本の漆器を代表する輪島塗とにぎわう朝市で知られている、能登半島観光の中心になっている町。
能登半島を内浦(南側)から半島突端の禄剛崎を経て外浦(北側)へとぐるっと回って、やっとのことで予約を取ってあった輪島市街北側の民宿についてみるとあまり広くない駐車場は満杯寸前。辛うじてあいていたあまりゆとりのないスペースに車を入れるのに一苦労。満員の食堂で夕食を済ませて一休みした後、夜の輪島市街へ出てみたが、他の地方都市と同じく、7時過ぎの町はお店もほとんど閉まっていて真っ暗に近い。
 
 ただこの日は夏祭り(何の祭かは不明。7月末に行われるという水無月祭の一部だったのだろうか。)だったらしく、白装束の男性達が担ぐ神輿行列に出くわした。この時はメインのイベントではなかったのだろうか、街は暗く、見物人も多くはなく、それほどにぎやかでもない行列はなんとなくうら寂しい感じのものだった。



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