沖縄本島ドライブ旅行の記録

2009年 1月27日(火) ― 31日(土)

 
Copyright(C)2010 ZENRIN CO.LDT
            はじめに
   20数年の間、日本各地を列車・バスで、あるいは自分の車で旅してきましたが、まだ一度も行ったことがなかったのが沖縄でした。
 それまで、旅行する時に関心を持ったのは主として古典を中心とする日本の文学や文化・歴史に関係する名所・旧跡だったため、「マリンリゾート」のイメージが強い沖縄にはあまり関心がなかったのです。もちろん、「戦争」に関係する部分での関心はなかったわけではないのですが、簡単にすっと行けないということもあったし、「マリンリゾート」などというものにほとんど関係のない生活をしている小生には、沖縄はあまり強く行ってみたいという気になる所ではなかったのです。

 そうした小生が沖縄へ行ってみようという 気になったのは、正直言って、文化的・知的な関心などからではなく、「日本全国を旅して回る」「日本全土を走り回ってみる」という、ごく単純素朴な理由からだったと言っていいと思います。「沖縄」へ行かなければ「日本全土」を「旅した」ことにも、「走り回った」ことにもならないと思ったからなのです。

 2008(H20)年の秋、沖縄本島へ行くことを具体的に考え始め、あれこれ調べてみると、冬のツアーが安くて、観光客も少なく、静かでいいということがわかりました。大変残念なことでしたが、この時は最初から「自車」で行くことはあきらめていたので、「飛行機+レンタカー」のツアーを探してみることにしました。いくつか旅行会社のプランをみてみると、
    「ANAで行く! レンタカー付 30ホテルから選べる 沖縄本島5日間」
    「2人・2食付4泊5日・往復飛行機+5日間レンタカー付」 
        [ 阪急交通社  トラピックス国内自由旅行 基本料金97,600円 ]
というツアーがありました(もちろん、日程自由、当方2人だけでOKのもの)。

 日程は、2009(H21)年1月27日(火)から30日(土)にして、12月下旬に申し込み、決定しました。現地での行動時間を最大限に確保するため、飛行機を指定された便より、行きは早い便、帰りは遅い便にしたり、レンタカーの使用は初めてで、乗ったことのない車に乗るのは不安だったので、普段乗っている自車と同じ「X-TRAIL」にしてもらえるように車種のランクアップをしたりしたため、1万円ちょっとの割増料金を払う(合計当初払込11万円弱)ことになりましたが、ほぼこちらの希望通りのプランになりました。(車種指定は申込段階ではできないとのことなので、ランクだけを希望車種相当のものにしておき、後で契約レンタカー会社に直接連絡、交渉依頼してOKしてもらいました。)

 天気予報では5日間ともよくないとのことだったのですが、何回か短時間の雨に降られはしたものの全体としてはまあまあの天気に恵まれ、予想以上に満足できる沖縄旅行になったのでした。

 このページはこうしたいきさつのもとで行った沖縄本島一周ドライブ旅行の記録です。十分な記録とはいえないものですが、何かの参考になればうれしいと思います。
                                           2011.2  山寺行好
     
     行程表について
R329=国道329号線   K29=地方道(都道府県道) 29号線  ルート表示は主要部分のみ  ※印は推定時刻・距離
○移動時間の中には場所・時間などを記してありませんが、移動途中の休憩・食事などの時間も含まれています。
○道を間違えたための迷走、カーナビの誤誘導・遠回り誘導などによって生じたそれほど大きくはない時間のロスはそのままにしてあります。

   


-  沖縄ドライブ  前半行程  第1日目~第2日目 -
                                那覇―南部―那覇

 

〔第1日〕 1月27日(火)

地域・場所 ルート・観光・見学箇所等 読み方  着時刻 発時刻
(通過
)
メーター 説 明 ・ 案 内 等
東 京 自宅(日野市)     5.28    
  -(中央線)-神田-(山手線)-浜松町 -(モノレール)-          
  羽田空港    6.58 8.40    出発ロビー内で軽い朝食
    ― ANA123便―          
沖縄本島 那覇空港   11.25 12.00   レンタカー会社送迎バスで移動
那  覇 ABCレンタカー空港店   12.10 12.50 0.0 諸手続・数箇所の前売り割引券購入などを済ませた後、「X-TRAIL」に乗車・出発 
    -R329・K82・K29-          
那  覇 首里城公園・首里杜館P すいむいかん 13.18    9.7  地下駐車場 (小型車 310円)
     首里杜館
   (首里城公園レストセンター)
すいむいかん        1F食堂で昼食〔ソーキそば〕
     守礼門          
     首里城         歓会門・瑞泉門・奉神門・御庭(うなー)・正殿・北殿・南殿・書院・鎖之間(さすのま)
     首里城公園周辺散策          
        円覚寺跡          
        弁財天堂・円鑑池           
         龍潭 りゅうたん        
        園比屋武御嶽石門 そのひゃんうたき         
        金城町の石畳道 きんじょうちょう        
        金城村屋          
        大アカギ群生地          
        玉陵 たまうどぅん        
  首里杜館P      16.18  9.7  
  首里観音堂(慈眼院)    16.30  16.40  13.5  道を間違え迷走5分位
   (崇元寺石門)         車を止められず、前を通過時に見ただけ
     -K29-          
那  覇  ホテル シティーコート   17.10  18.00  18.7  休憩・荷物整理後、車を置いて徒歩で外出。
             
    -国際通り・市場本通り-          
  第一牧志公設市場  だいいちまきし        この日まで旧正月で休み
  焼き鳥屋「串房」         夕食。ホテル近くの店。 
             
  ホテル シティーコート   20.00頃      宿泊
             

  

      

  〔沖縄について〕

 現在の沖縄は日本の都道府県の一つになっていますが、かつては「琉球王国」という独立した一つの王国でした。沖縄各地の観光地の説明にはこのことが関係することが多いので、最初に沖縄の歴史に触れておくことにします。
 
         〔琉球王国〕 琉球王国(りゅうきゅうおうこく)は、1429年から1879年にかけて沖縄本島
         を中心に存在し、最盛期には奄美群島と沖縄諸島及び先島諸島までを統治した王国で、
         当時、正式には琉球國(りゅうきゅうこく)と称していた。
 
  この沖縄の歴史については、 「教材研究所」(京都)発行の「沖縄 GUIDE BOOK」の説明が簡潔でわかりやすいのでこれを引用しておきます。

〔沖縄の歴史〕

  古代の沖縄
 沖縄は大陸と地続きだった約3万年前から人が居住し、約1万年前に地殻変動で琉球列島が分離。独特の文化を築き上げました。
 9世紀ごろには水稲耕作と鉄器が伝来。そのころから各地に「アジ」(按司)という首長城(グスク)を築いて勢力争いを行うグスク時代がはじまり、14世紀初頭には3人のアジが沖縄本島を3分支配してそれぞれ北山・中山・南山を確立。「三山分立」の時代になります。

  中世の沖縄
 15世紀になると佐敷のアジ・尚巴志が三山を滅ぼして全土を統一(1429)。父を初代王として琉球王国を建てます。14世紀半ばから交流のあった中国・明朝はこの功績をたたえて「尚」姓を贈り、以来琉球王は尚姓を継ぐようになります。しかし内紛が続き、1469年に伊是名島の金丸が革命を起こして第二尚氏王朝を建て、周辺の島々まで統治。以後17世紀まで東南アジア一帯と広く交易して栄えます。

  近世の沖縄
 日本の室町時代、幕府は王国の承認なしに薩摩の島津氏に琉球国を与えました。16世紀になって秀吉・家康の天下統一事業がはじまり、島津氏は琉球に朝鮮出兵や中国との交易仲介を要請。
 しかし独立国であった琉球は命に背き、1609年には島津氏は大軍を率いて侵入。大勝利をおさめ、奄美地方を島津氏の領地とし、本島の王国の形式はそのままに内政は日本の封建体制が支配します。

  現代の沖縄
 明治維新によって廃藩置県が実施されると、新政府は王国を実力解体。 1879年に琉球は、古い愛称を冠して「沖縄県」になります。
 政治統一がなされたのは大正時代。新制度が定着したのもつかの問、太平洋戦争の敗戦によって沖縄は米国の統治下に入りますが、1972年に祖国復帰。しかし今も多数の米軍施設が現存。激動の歴史にも誇り高く生きた沖縄人は、今後の課題にも力強く取組んでいます。


 
  〔首里城公園〕  「首里城公園管理センター」発行のパンフレット(2種類)にあった説明を引用します。

  琉球時代の文化が現代によみがえる
 首里城の創建は14世紀頃といわれていますが、詳しいことはわかっていません。その後、1406年に尚巴志が琉球国支配のための居城として以来、1879年、最期の国王・尚泰が明治政府に明け渡すまで約500年にわたって琉球王国の政治・外交・文化の中心地として栄華を誇りました。首里城には中国や日本、東南アジアなどとの交易から様々な文物がもたらされ、漆器、染織物、陶器、音楽など、琉球独特の文化が花開いたのです。
 1945年の沖縄戦で灰燼に帰した首里城は、1992年、沖縄の本土復帰20周年を記念して復元されました。鮮やかな朱色に彩られたその姿は、王国の歴史・文化の息吹を伝える殿堂であり、沖縄のシンボルそのものといえるでしょう。


 
   琉球王国の栄華を物語る世界遺産
 琉球王国の政治、タト交、文化の中心地として威容を誇った首里城。その中国と日本の築城文化を融合した独特の建築様式や石組み技術には高い文化的メ歴史的価値があるとされ、日本では2000年12月、11番目に首里城跡は世界文化遺産に登録されました。


 
   ~二重の城壁に囲まれた美しい首里城を空から眺めてみましょう~
 450年以上にわたり中国をはじめ、曰本や朝鮮、東南アジア諸国との外交・交易を通じ、独自の文化や芸能を華開かせてきた海洋国家『琉球王国』。首里城は王国の政治や経済、文化の中心であり、琉球全体に広がる信仰の拠点でもありました。首里城は国営沖縄記念公園として沖縄の歴史や文化を今に伝え、未来へ受け継いで行くため整備が進められています。

 
   ~整備される首里城、今後の建設予定~
 首里城はその役割から、大きく3つの空間に分けられます。正殿や南殿・番所、北殿、書院・鎖之間(
さすのま)など、御庭(うなー)とよばれる広場を中心に、政治や外交が行われた『行政空間』。そして、信仰上の聖域が点在する城内でも、最も神聖な聖地として崇められた、京の内の『祭祀空間』。さらに、国王とその家族が住む御内原(おうちばら)と呼ばれた『居住空間』です。御内原についでは、現在(平成19年1月)「世誇殿」「黄金御殿・寄満」「二階御殿」「淑順門」「美福門」などの計画・整備が進められており、完成後、随時追加開園していく予定です。

 
 
首里城周辺案内図  首里城公園管理センター」発行のパンフレット

 

 
   〔守礼門〕  6つあった首里城の門のうちの第2楼門で、沖縄観光のシンボル的存在。琉球国王の即位を認定する「冊封」(さくほう)の儀式のために派遣された中国使節団を迎えるために第二尚氏4代尚清王(1527-)の頃に創建されたといわれ、現在のものは戦後になって復元されたもの。門に掲げである額の「守礼之邦」は「礼節を重んずる国」という意味だという。( 冊封とは皇帝の命令書の一種である冊書を以って王号や爵位を与え、その領域の支配権を認知すること。)

   
        =首里城内=
 
  〔歓会門〕 首里城の城郭内に入る第一の正門。「冊封使」など来訪者への歓迎の意を込めた命名。

 
  〔瑞泉門〕 歓会門の次にある2番目の楼門形式の門。楼門形式の門。国王一族の飲料水になる湧水「龍樋」が門前にあるため瑞泉(立派なめでたい泉)門の名がついたという。歓会門などができるまでは、この門が首里城の正門だったとのこと。

 
   〔奉神門〕 御庭(うなー)を隔てて正殿に向き合う、宮殿に入る最後の門。

 
   〔御 庭〕 正殿・北殿・南殿等に囲まれた首里城の中心にある広場。さまざまな儀式などが行われた。

 
   〔正 殿〕 首里城の中心の建物。木造三階建で、中国や日本の様式を基本にした琉球独特の様式という。1階は国王自らが政治や儀式を執り行った「下庫理(しちゃぐい)」、2階は国王と親族・女官らが儀式を行う「大庫理(うふぐい)」で、1F・2Fともその中央に国王が座る玉座「御差床」(うさすか)がある。現在の正殿は戦前まであった1712年に再建された正殿を復元したもの。
 1989年(平成元年)11月から再建が始まり、1992年(平成4年)11月3日には正殿を中心とする建築物群、そこへ至る門の数々と城郭が再建されて首里城公園が開園した。

 
   〔北 殿〕 今の大臣にあたる三司官や多くの役人の仕事場。ペリー提督の歓迎式等にも使われたという。

 
   〔南 殿 ・番 所〕 南殿は主に日本風の儀式や薩摩の役人たちの接待などが、番所は正殿訪問者の受付や国王への取次などが行われた所。

 
   〔書院・鎖之間(さすのま) 書院は国王が日常の政務を行った建物。鎖之間は王子などの控室であり、諸役の者達を招き懇談する施設だったともいう。

 
         
               瑞泉門                            正  殿
 
          
               2F玉座                       南殿(左) ・ 番所(右)
 
     
        =首里城周辺=  
   〔円覚寺跡〕 第二尚氏王家の菩提寺で、沖縄第一の大寺・古刹だったが沖縄戦ですべて焼失。現在、総門と放生池・放生橋のみが復元されている。放生橋の石彫レリーフは国重文という。

 
   〔弁財天堂・円鑑池〕 もとは朝鮮王から贈られた「方冊蔵経」を納めるために1502年に建造されたものだが、薩摩侵攻の際に蔵経を焼失したため弁財天を祀ったという。円鑑池の中の島にあり、天女橋が架かる。 国重文。

 
   〔龍 潭〕 尚巴志王の命で1427年に造成された人工の池。爬竜船(ハーリー)を浮かべて中国の使節を接待したりしたという。冊封使の進言によるものとも、首里城築城の際に土を運び出した跡を池にしたものともいう。

 
   〔園比屋武御嶽石門〕 御嶽(うたき)は拝殿・拝所、神が降臨する聖地のことだという。国王が出御の際に道中の安泰をこの石門前で祈願したとのこと。王朝時代の石造技術を伝える貴重な遺産だという。国重文。

 
   〔金城町の石畳道〕 首里城公園の西側から南へ坂になって300mほど続く琉球石灰岩を敷いた静かな石畳道。16世紀に造られたもので、当時のまま残っている貴重な王朝時代の文化遺産だという。

 
   〔金城村屋〕 伝統的な琉球木造建築を再現したもので、開放されていて休憩することができる。

 
 〔大アカギ群生地〕 石畳道の途中から東側へ脇道を入るとこんもりと木々の繁った内金城嶽(うちかなぐすくたき)がある。そばには、神が宿るとされる、推定樹齢2~300年、高さ20m前後の大アカギ(天然記念物)が6本立っており、その他のガジュマルなどの木々とともに辺りはこじんまりとした森のようになっている。

 
    〔玉 陵〕 1501年頃に3代目尚真王が創建した第二尚氏王統の陵墓で、沖縄最大の破風墓(家型の墓)。広い内庭を前に三つに分かれた横穴式墓室の並ぶ巨大な墓堂で、王族8人が葬られているという。世界遺産。

 
   〔首里観音堂(慈眼院)〕 薩摩の人質になっていた王子が無事に帰還したのを喜んで尚久王が建立したもの。以来、船で旅立つ人々の海上での平穏無事をここで祈願するようになったという。

 
   〔崇元寺石門〕 旧崇元寺は歴代の琉球王を祭る国廟だったが戦争で全壊、建物は何も残っていない。アーチ型の中央門と二つの通用門のある100m近い石門は戦後に修復されたもの。国重文。

 
   〔第一牧志公設市場〕 戦後の闇市から始まったとされ、「那覇の台所」ともいわれる第一牧志公設市場は、活気あふれる最も沖縄らしいマチグワー(市場)だという。

 この市場の二階に食堂街がある。持ち込んだ食材を調理してもらえるというその食堂街で夕食をとるつもりで出かけたのだが、残念なことにこの日まで旧正月で休みだという。那覇にはもう一泊するので明日の晩もう一度来てみようということにして、土産物などいろいろなものを売る店が所狭しと並んでいる市場本通りの商店街をぶらぶらのぞきながらホテルにもどることになった。夕食は結局市場に来るときに目を付けておいたホテルへ戻る途中にある店で済ませたのだった。ちなみに、翌日は南部周遊に時間がかかり、ホテルにもどるのがかなり遅くなってしまったため市場へ行くのはあきらめざるを得なかった。

 
          
             円覚寺山門 (内側)                    弁財天堂(裏側)
 
          
             金城町石畳道                        大アカギ群生地
 
           
              金城村屋                             玉 陵
 


〔第2日〕
 1月28日(水)

地域・場所 ルート・観光・見学箇所等 読み方  着時刻 発時刻
(通過
)
メーター 説 明 ・ 案 内 等
那  覇  ホテル シティーコート     8.08 18.7   
     -R58・K7-          
本島南部西側 旧海軍司令部壕   8.30 9.15 25.2  
  豊見城城址公園 とみぐすく 9.17 9.17 26.4  休業中とのことで入園見学できず
     -K7・R331-           
  白銀堂 はくぎんどう 9.40 9.44 33.3  
  幸地腹門中墓    こうちばら
もんちゅうばか
9.58 10.15 36.0  
     -R331・K3-           
南部南側 具志川城跡 ぐしかわ 10.27 10.45 42.6  
本島南端付近 喜屋武岬 きゃんみさき 10.50 11.00 44.1  
     -K3・R331-          
  琉球ガラス村   11.08 11.50 48.7  
  ひめゆりの塔 駐車場    11.55   50.3   
     ひめゆりの塔          
     ひめゆり平和祈念資料館          
     駐車場前「雪花菜」(食堂)     13.00 50.3 昼食(沖縄そば)
  魂魄の塔 こんぱく 13.02 13.05 51.8  
  平和祈念公園 駐車場 13.15   56.5  
     摩文仁の丘  まぶにのおか       沖縄県平和祈念資料館・沖縄平和祈念堂 
     平和の礎(いしじ          
  平和祈念公園 駐車場       13.44 56.5   
     -R331・K17-           
南部東側 おきなわワールド 駐車場   13.59    64.0  旧称・玉泉洞王国村
     玉泉洞          
     文化王国          
  沖縄ワールド 駐車場     15.22 64.0  
     -K17・K48-           
  糸数壕(アブチラガマ) いとかずごう 15.28 16.13 67.1 南部観光総合案内センター
  糸数城跡   16.15 16.23 67.4  
     -K86・K137・R331-           
  知念城跡 ちねん  16.40 16.55 77.0  
  斎場御嶽(せーふぁーうたき   17.00 17.27 79.8  
  知念岬公園   17.33 17.45 81.7  
      -R331・R331・R507-          那覇に近づくにつれてかなりの渋滞
那  覇 ホテル シティーコート   18.55   107.1  
             
  居酒屋「梟の城」  ふくろうのしろ       昨日まで休みだった公設市場へ行く予定だったが、帰着が遅くなったためホテル近くの店で夕食。
             



 〔旧海軍司令部壕〕  旧日本海軍の沖縄方面根拠地隊司令部の跡。全長450m程の地下壕のうち300m弱が公開されており、当時の司令官室、幕僚室などがそのまま保存されている。

 
   〔豊見城城址公園〕 14~15世紀にかけて勢力を振るった豊見城安司のかつての居城で、汪応祖(わんおうそ)が築いたといわれる。本丸跡や西原門跡、旧陸軍第24師団第二野戦病院壕などがあるとガイドブック(少々古い2002年版)に書いてあったので行ってみたのだが、入口には休業中との掲示があって入れなっかった。後で調べてみると2003年12月から経営会社の営業不振で閉鎖されてしまっていたようだ。

 
   〔白銀堂〕 白柱・白壁の上に赤瓦を乗せた社殿が崖を背に建っている白銀堂は、糸満の海人(ウミンチュ)氏神で、豊漁と航海の安全をここで祈願するのだという。毎年行われる有名な糸満ハーレーはこの白銀堂への奉納祭事だとのこと。

 
 
   〔幸地腹門中墓〕 正式には「幸地腹・赤比儀腹両門中墓」というらしい。「門中」は墓を共有する父系の血縁集団のことで、「幸地氏一族(=腹)」と「赤比儀氏一族」の300年以上の歴史のある共同墓だという。両氏2500人以上の遺骨が納められている、沖縄最大のものという。

 
   〔具志川城跡〕 喜屋武岬の断崖の上に珊瑚性石灰岩の野面積みの城壁の一部が残っているこの城は13~15世紀に使用されたものらしい。久米島の具志川城主真金声(まかねくい)按司(アジ)が伊敷索(いしきなわ)按司一族との勢力争いに敗れて島を脱出、本島に逃れ、この地に故郷と同じ名の具志川城を築いたのだといわれている。

 
           
             旧海軍司令部壕                          白銀堂
 
           
            幸地腹門中墓                            具志川城跡
 
 
 〔喜屋武岬〕 沖縄本島の最南端にある岬。沖縄戦の末期、米軍の攻撃に追われて逃げ場を失った人々がこの断崖から次々と身を投げた悲劇の舞台となったところとして知られている。

 「平和之塔」 岬の断崖縄壁の上には、ここで命を絶った人々の鎮魂と永久の平和を祈る「平和之塔」(右下写真)が造られている。塔と名付けられてはいても、大きな波とその波にのまれた命をかたどったのではないかと思われる球を取り合わせた、青く塗られたコンクリート製らしい造形物である。
 右端のへりについている碑文の一部には、次のように書いてあった。

   「…昭和二十七年十月地元民は将兵並びに戦斗(闘)に協力散華せる住民の遺骨併せて一万柱を奉納
    し平和の塔と名づけし…

       ※「散華」=はなばなしく戦死すること。◇花と散る意から、戦死を美化していう語。[明鏡国語辞典]

 近くには青い「平和の塔」と対照的な白い灯台が立ち、岬の先には広々とした海と大きな雲を浮かべた空が広がっていた。女性を中心とする多くの人々が身を投げた断崖には木々や草が繁り、そうした悲劇があったことなど忘れられてしまいそうだった。
 
         
喜屋武岬                        平和之塔
 
 
 〔琉球ガラス村〕 琉球ガラスの販売店や、その名品の展示ギャラリー、吹きガラスの製作工程の見学・トンボ玉制作体験などができる工場、飲食店などの集合施設。鮮やかな色彩などが評判の琉球ガラスは、戦後の物資不足の中で米軍が持ち込んだビールやコーラの瓶などを利用して作り始めたものだという。
            写真(右)は工場外側の柱と壁面の一部
        
 
 〔ひめゆり平和祈念資料館〕  資料館発行のパンフレットの説明を引用します。

  設立について

 米軍の沖縄上陸作戦が始まった1945年3月23日深夜、沖縄師範学校女子部・沖縄県立第一高等女学校の生徒222人、教師18人は、那覇市の南東5キロにある南風原
(はえばる)の沖縄陸軍病院に配属されました。3月26日に米軍は慶良間列島に進攻、4月1日には沖縄本島中部西海岸に上陸。 米軍の南下に従い日本軍の死傷者が激増し、学徒たちは後送されてくる負傷兵の看護や水汲み、飯上げ、死体埋葬に追われ、仮眠を取る間もなくなっていきます。

 5月下旬米軍が迫る中、学徒たちは日本軍とともに陸軍病院を出て、本島南端部に向かいました。移動先の安静もつかの間、激しい砲爆撃の続く中で6月18日を迎えます。学徒たちは突然の「解散命令」に絶望し、米軍が包囲する戦場を逃げ惑い、ある者は砲弾で、ある者はガス弾で、そしてある者は自らの手榴弾で命を失いました。陸軍病院に動員された教師・学徒240人中136人、在地部隊その他で91人が亡くなりました。

 米軍は沖縄戦を日本本土攻略の拠点を確保する最重要作戦と位置づけ、物量のある限りを使い、対する日本軍は米軍の日本本土上陸を一日でも遅らせるために壕に潜んでの防衛・持久作戦をとりました。沖縄を守備するため、軍は県民の根こそぎ動員を企てると同時に、学徒隊を編成して生徒たちの戦場動員を強行しました。持久作戦、根こそぎ動員は、12万人余にのぼる沖縄住民の犠牲をうみました。

 あれから40年以上たちましたが、戦場の惨状は、私たちの脳裏を離れません。私たちに何の疑念も抱かせず、むしろ積極的に戦場に向かわせたあの時代の教育の恐ろしさを忘れていません。

 戦争を知らない世代が人口の過半数を超え、未だ紛争の絶えない国内・国際情勢を思うにつけ、私たちは一人ひとりの体験した戦争の恐ろしさを語り継いでいく必要があると痛感せざるをえません。

 平和であることの大切さを訴え続けることこそ亡くなった学友・教師の鎮魂と信じ、私たちはこの地にひめゆり平和祈念資料館を建設いたしました。当館の設立にあたっては、県内外の多くの方々のご厚意とご協力を賜わりました。深く感謝いたします。

1989年6月23日
財団法人沖縄県女師・一高女ひめゆり同窓会

 戦争体験者が年々少なくなっていく中、若い世代に戦争の実態をより分かりやすく伝えるために、2004年4月、全面的な展示改装を行い、さらに平和への思いを未来へつないでいくための「平和への広場」を増築いたしました。

ひめゆりの由来                 ゛
『ひめゆり』は植物の花のひめゆりとは関係ありません。                        
沖縄師範学校女子部と沖縄県立第一高等女学校は、それぞれに校友会誌がありました。一高女は「乙姫」、師範は「白百合」と名づけられていました。
両校が併置されることによって、校友会誌もひとつになり、両方の名前の一部(「乙姫」の姫と、「白百合」の百合を合わせて『姫百合』となりました。
ひらがなで『ひめゆり』を使うようになったのは戦後です。

 
 〔ひめゆりの塔〕 上記ひめゆリ学徒隊の戦没者を祀った慰霊塔。悲惨な沖縄戦の象徴として有名。

「塔」と名付けられているが、高さ60-70cm位の石碑でそれほど大きなものではない。これは、1946年、終戦直後の物資不足な状況の中での建立、しかも、当時沖縄を統治していたアメリカ軍の存在を考慮しての建立であったという事情によるものだという。石柱の正面に「ひめゆり能塔」と縦書きされている。

 左下の写真右下隅に黒く影になって小さく写っているのが「ひめゆりの塔」(拡大写真中央)。正面に白く大きく見えているのは慰霊碑(納骨堂)。この写真ではわかりにくいが、塔と慰霊碑の間の左側に、その中で多くの学徒が自決したり、ガス弾攻撃の犠牲になったりした伊原第三外科壕が口を空けている(写真右)。

                                    
        
慰霊碑(納骨堂)             ひめゆりの塔           伊原第三外科壕入口      
 
 
  ひめゆり学徒隊だけがあまりにも有名になってしまったが、それ以外にもひめゆり学徒隊とほぼ同様の運命をたどって多くの犠牲者を出した学徒隊があった。ひめゆりの塔周辺には、県立首里高等女学校の学徒隊・職員を祀る「ずゐせんの塔」、私立昭和高等女学校の「梯梧の塔」、県立第二高等女学校の「白梅の塔」など、それぞれの名にちなんだ慰霊碑が建てられている。

 〔健児の塔〕 女子学徒隊ほど知られていないが、軍の強制的な命令によって駆り出されて犠牲になった男子学徒隊もあった。戦争末期、軍は鉄血勤皇隊(てっけつきんのうたい)などと名付けて徴兵年齢に達していない14ー17歳の少年を法的根拠がないまま、陣地構築、伝令や通信、さらに切り込み隊要員として千八百人近くを動員し、そのほぼ半数が戦死したという。その犠牲になった男子学徒の慰霊塔として、沖縄師範学校学徒のための「沖縄師範健児之塔」、県立第一中学校生徒のための「一中健児之塔」なども建てられている。

 
   〔魂魄の塔〕 平和創造の森公園の一角に、石垣とコンクリに覆われた大きな遺骨埋葬塚の上に「魂魄」と刻まれた碑が立っている。沖縄戦最後、最大の激戦地となった米須(こめす)海岸及びその周辺に散乱していた無数の遺骨を、地元の人々が寛い心をもって軍民、国籍、敵味方の区別なく集め、平和への想いを込めて供養したものという。昭和21年2月に3万5000余柱を合祀して建立されたもので、沖縄で一番最初に地元の人々の手によって造られた、しかも最大の慰霊塔だという。今は遺骨の大部分は摩文仁の丘の国立沖縄戦没者墓苑に分骨されているとのこと。

 
                                  「魂魄の塔」の下にあった「沖縄県遺族連合会」による
    碑文
を引用しておきます。

この地は今次大戦でも一番の激戦地であり日本軍も住民も追いつめられて逃げ場を失い陸、海、空からの攻撃を受けて、敵弾にあたって倒れた屍が最も多い激戦地の跡である。
  戦後、真和志村民が収容移住を許された所で村民及び地域住民の協力によって、道路、畑の中、周辺いたる所に散乱していた遺骨を集めて祀ったのがこの魂魄の塔である。

  祭神三万五千余柱という、沖縄で一番多く祀った無名戦士の塔であったが、その後、昭和五十四年二月摩文仁の丘に国立沖縄戦没者墓苑が完成し、遺骨は同墓苑に分骨して安置してあります。

 
   〔平和祈念公園〕〔摩文仁の丘〕 日本軍が立てこもり、沖縄戦最大最後の激戦地であり、沖縄戦の終結地ともなった摩文仁の丘は、今は整備されて緑豊かな国定公園になっている。広大な敷地の園内には平和の礎、国立沖縄戦没者墓苑、沖縄県平和祈念資料館、沖縄平和祈念堂、各県や諸団体の多くの慰霊塔・慰霊碑などが点在している。

   〔沖縄平和祈念堂〕 世界の恒久平和を祈って、昭和53年に建てられた高さ45mの正七面体の塔。この形は七つの海と合掌の形を現したものという。堂内に安置されている高さ12mの漆製の平和祈念像は沖縄出身の山田真山画伯が18年余をかけて原型を制作したもの。その他、西村計雄画伯の連作絵画「戦争と平和」、日本や世界の各地から戦没者を弔うために寄せられた霊石なども展示されている。

 
   〔沖縄県平和祈念資料館〕 沖縄戦に関する貴重な資料を集めた資料館で、沖縄戦に至るまでの経緯や住民が体験した沖縄戦の悲惨な実態などを、写真や遺品、証言集、ジオラマ、映像などの展示によって再現し、伝えている。

 
   〔平和の礎いしじ 平成7年(1995 年)6 月に太平洋戦争・沖縄戦終結50 周年記念事業の一環として、国籍を問わず、また、軍人、民間人の別なく、全ての戦没者の氏名を刻んで永久に残すために建設されたもので、沖縄戦で亡くなった犠牲者240,931名(22.6.23現在)の氏名を刻んだ刻銘碑が扇状、屏風状に並んでおり、扇の要にあたる部分には平和の広場が設けられ、その中央に「平和の火」が灯されている。
 “平和の波永遠なれ( Everlasting waves of peace )”というのが「平和の礎」のデザインコンセプトで、屏風状に並んだ刻銘碑は世界に向けて平和の波が広がるようにとの願いをデザイン化したものという。

      ※「いしじ」は「いしずえ=基礎」の沖縄方言とのこと。
     
  平和の礎」区域入口にあった案内板
 
      
           沖縄県のホームページにあった「平和の礎」についての説明を引用しておきます。

         「平和の礎」    沖縄県 文化環境部 平和・男女共同参画課

     建設の趣旨

      沖縄県の歴史と風土の中で培われた「平和のこころ」を広く内外にのべ伝え、世界の恒久平和の確立に
     寄与することを願い、国籍及び軍人、非軍人を問わず、沖縄戦などで亡くなったすべての人々の氏名を刻
     んだ記念碑「平和の礎(いしじ)」を建設する。

      基本理念

     ≪戦没者の追悼と平和祈念≫

      去る沖縄戦などで亡くなられた国内外の20万人余のすべての人々に追悼の意を表し、御霊を慰めると
     ともに、今日、平和を享受できる幸せと平和の尊さを再確認し、世界の恒久平和を祈念する。

     ≪戦争体験の教訓の継承≫
      沖縄は第2次世界大戦において、住民を巻き込んだ地上戦の場となり、多くの貴い人命とかけがえのな
     い文化遺産を失った。このような悲惨な戦争体験を風化させることなく、その教訓を後世に正しく継承して
     いく。

      ≪安らぎと学びの場≫
      戦没者の氏名を刻銘した記念碑のみの建設にとどめず、造形物を配して芸術性を付与し、訪れる者に
     平和の尊さを感じさせ、安らぎと憩いをもたらす場とする。
       また、子供たちに平和についての関心を抱かせるような平和学習の場としての形成を目指す。


    
        平和祈念塔                 平和の火                平和の礎

 
   〔おきなわワールド 文化王国・玉泉洞〕 パンフレットには「博物館相当施設」「沖縄県最大のテーマパーク」
で、「沖縄の歴史・文化・自然をまるごと体感 ‼」とある。

  沖縄の魅力のすべてが一堂に ‼
鮮やかな南国の花々、琉球王朝の赤瓦、美しい町並みを再現「琉球王国城下町」、
      そこでの産業遺産・伝統工芸の数々を見学・体験や
  東洋一美しい大鍾乳洞、世界でも珍しい日本唯一の「ハプ博物公園」、
南国の自然が育んだ熱帯フルーツ園、トロピカルの美しい花々、
勇壮な伝統芸能「エイサ―」や「ヘビのわくわくドッキリショー」など、
とびっきりのわくわく体験が、あなたを待っています。

 
琉球王朝の美しい町並 
●琉球王国城下町(旧民家群)●玉泉洞●ハブ博物公園●熱帯フルーツ園 
●琉球王国交易船●エイサー広場●琉球ガラス王国工房●陶器工房●ハブ薬草酒工場
●王国歴史博物館●サンゴ地ビールエ場●おみやげ専門店街●レストラン王国(1,200席)

 
         
           玉泉洞               文化王国入口             エイサー広場
 
  〔玉泉洞〕 1967年(昭和42年)に発見された全長約5㎞ほどの鍾乳洞で、1972年からそのうち900m弱が観光用として公開されている。鍾乳石の数は100万本以上で国内最多と言う説もあるようだ。「東洋一洞」と称する無数の大石筍が林立する大広間、「昇龍の鐘」と名付けられた白銀のロケットのような石柱、無数の鍾乳石が垂れ下がる「槍天井」などがある。「珊瑚を主成分とした琉球石灰岩でできた洞内は、県外の鍾乳洞にくらべ鍾乳石の成長が早く、3年に1mmというスピードで成長してい」るとのこと(玉泉洞HP)。

 
   〔文化王国〕 築100年以上を経た「国・登録有形文化財」の古い民家を数棟移築し、「首里城下町を髣髴させる、美しい赤瓦の町並み」を再現したものという。旧家の建物はそれぞれ、藍染、紅型、琉球ガラス、機織り、紙すき、陶器などの工房になっていて、伝統工芸の実演と体験教室が開催されている。

 
   〔糸数壕(アブチラガマ)〕 「南部観光総合案内センター」発行パンフレットの説明と図の一部を引用します。

       沖繩戦の実相を現在に伝える糸数アブチラガマ

     アブチラガマは、沖縄本島南部の南城市玉城字糸数にある壕です。沖縄戦時、もともとは糸数集落の避難
     指定壕でしたが、日本軍の陣地壕や倉庫として使用され、戦場が南下するにつれて南風原陸軍病院の分
     室となりました。軍医、看護婦、ひめゆり学徒隊が配属され、全長270mの壕内は600人以上の負傷兵で
     埋め尽くされました。昭和20年(1945年)5月25日の南部撤退命令により病院が撤退したあとは、糸数の住
     民約200人と生き残り負傷兵、日本兵の雑居状態となりました。その後、米軍の攻撃に遭いながらも生き
     残り、8月22日の米軍の投降勧告に従って、住民約200人と負傷兵は壕を出ました。

    ●アブとは…深い縦の洞穴。
    ■チラとは…崖のことで、沖縄の方言で崖が縦に大きく落ち込んだ所を「大(ウフ)チリバンタ」という。
    ●ガマとは…沖縄方言で洞窟やくぼみのことを言います。沖縄本島はほとんどが隆起サンゴ礁でできており、
            数万年にわたる雨の侵食によってできた自然の洞窟が各地にあります。沖縄戦では、この自然
            の洞窟が住民の避難場所となりましたが、日本軍の作戦陣地や野戦病院としても利用されまし
            た。戦争が激しくなると、ガマは軍民同居のかたちとなって米軍の攻撃の的となり、多くの命が失
            われることになりました。


      南部観光総合案内センター  〒901-0606 沖縄県南城市玉城字糸数667-11  TEL.098-852-6608

                                                      
 
   
「南部観光総合案内センター」発行パンフレットの説明と図の一部
 
    案内センターで入場料を払って受付を済ませると、懐中電灯とパンフレットを渡され、外の棚においてあるヘルメットをかぶって入場するようにと指示された。壕内はどうなっているんだと少々不安になりながら入口から入ると中は真っ暗。照明設備は全くなし。懐中電灯の光を頼りにそろりそろりと進んでいく。足元に気を取られているとヘルメットがゴツゴツしたむき出しの岩天井にゴツン。腰をかがめないと通れない所もあるのだ。全長300m弱の壕だがかなりの長さに感じる。危険と思われる所は整備してあったように思うが、ほぼ当時のままに保存してあるようだった。所々に多少広くなっている場所がある。こんな所が病院壕として使われて負傷兵たちが収容され、寝かされていたのか、こんな所に糸数の住民が避難して逃げ込み、生活していたのか、と思うと胸が締め付けられるように痛んだ。

 その日の朝見てきた、中がコンクリート造りになっていた海軍司令部壕の様子も思い出された。コンクリート造りの壁には「醜米覆滅」「神州不滅」などと大書してあったが、こんな所で…「本気で勝てると思っていたのか」と感じていたのだが、このガマでの生活は本当に悲惨としかいいようがないものだったろうと思った。あわただしく表面をさっとかすったに過ぎない一日限りの沖縄南部戦跡巡りだったが、その最後に、何でこんなことになるところまで日本はいってしまったのだろうかと、怒り・悲しみとともに思わずにはいられなかった。

 米軍基地問題などの存在する沖縄の戦争との縁はまだ現在も切れていない。日本全体、日本人全体が「戦争」「基地」などについてしっかりと過去から現在までを見つめながら、これからのことを考えていかなければならないのだろう。

 
   〔糸数城跡〕 14世紀前半(三山分立時代の初期)に築城されたとされるグスクで、大きな切石で布積みされた東向きの城門と布積みと野面積みで築かれた城壁が糸数村落の南側の標高180mの断崖上に残っている。南部にある城跡では最大の規模を持つものといわれる。

 
   〔知念城跡〕  12~15世紀のグスク時代前半に築かれたものといわれ、古城(自然石を野面積みにした城壁で囲まれている)と、2つのアーチ門を備えた新城(切石をあいかた積みにしてある)に分かれている。17世紀末に改築され、知念番所(役所)として使われていたこともあるという。

 
           
             糸数城跡                            知念城跡

 
   〔斎場御嶽(せーふぁーうたき)〕  南城市発行のパンフレットの説明を引用します。

     斎場御嶽とは
     
 御嶽とは、南西諸島に広く分布している「聖地」の総称で、斎場御嶽は琉球開びゃく
伝説にもあらわ
      れる、琉球王国最高の聖地です。
       御嶽の中には六つのイビ(神域)がありますが、中でも大庫理・寄満・三庫理は、いずれも首里城内にあ
      る部屋と同じ名前をもっています。当時の首里城と斎場御嶽との深い関わりを示すものでしょう。 はる
      かなる琉球王国時代、国家的な祭事には、聖なる白砂を「神の島」といわれる久高島からわざわざ運び
      入れ、それを御嶽全体に敷きつめました。その中でも、最も大きな行事が聞得大君の就任式である「お
      新下り」でした。
       斎場御嶽は、琉球国王や聞得大君の、聖地巡拝の行事を今に伝える「東御廻り」(アガリウマーイ)の
      参拝地として、現在も多くの人々から崇拝されています。

        ※開闢(かいびゃく)=天地の開けはじめ。世界のはじめ。また一般に、物事のはじまり。
              琉球開闢神話 天帝・太陽神から国づくりを命じられた女神「あまみきよ」と男神「しねり
              きよ」が久高島に降臨し、太陽神から石や土、華や木などをもらって、人が住めるような土
              地や島を造 り、国づくりを始めたのだという。
         ☆大庫理(ウフグーイ)・寄満(ユインチ)・三庫理(サングーイ)

     用語解説
     ★東御廻り(あがりうまーい) 琉球民族の祖といわれる〈アマミキヨ族〉が渡来し、住みついたと伝えられる
      知念・玉城の聖地を巡拝する神拝の行事。
(以下略)

     ★御新下り(おあらおり)
     聞得大君の即位儀礼。任命後にはじめて知念間切にくだり、与那原の親川でお水撫での後、知念間切の
     斎場御嶽に夜籠もりをしてお名付けを受け、【大君霊】を継承する。(以下略)


     ★聞得大君(きこえおおきみ)
     琉球王国(第二尚氏)時代の最高神女。 【聞得】は【大君】の美称辞で、名に聞こえる大君様の意である。
     1470年に即位した尚円王の王女が初めて大君に任命されて以来、王女・王妃・王母など、王族の女性
     が代々その職につき、明治12年(1879年)の首里城明け渡しに至るまで存続した。その任務は国の重
     要な祭祀を通し、国王の長寿・国の繁栄・五穀の豊穣・航海の安全を祈願することにあった。

     ★久高島(くだかじま)
     知念半島の東方海上に位置する。琉球開びゃく伝説では、あまみきよ(琉球開びゃく神)の上陸地とされ、
     五穀発祥地と伝えられる。イザイホーをはじめとする多彩な祭祀行事が有名。


 
   〔知念岬公園〕 知念岬は知念半島の東端にある、太平洋に突き出した先端に造られた公園で、ここからは広く太平洋を見渡すことができるビュースポット。広々とした海の上にただよう、夕陽にうっすらと紅く染まった雲が印象的だった。

 
           
                斎場御嶽                            知念岬公園
 
         トップページに戻る   「はじめに」へ    沖縄ドライブ後半行程へ