若狭・山陰・山陽 ドライブ旅行の記録
2006年 7月11日(火) ― 7月21日(金)

- 後半行程  第6~第11日目 -

 松江-出雲-益田津和野-萩-秋吉台-山口-防府-岩国宮島-広島-米原-糸魚川  







     行程表について
R329=国道329号線   K29=地方道(都道府県道) 29号線  ルート表示は主要部分のみ  青字は推定時刻・距離
○移動時間の中には場所・時間などを記してありませんが、移動途中の休憩・食事などの時間も含まれています。
○道を間違えたための迷走、カーナビの誤誘導・遠回り誘導などによって生じたそれほど大きくはない時間のロスはそのままにしてあります。

   


〔第6 7月16日(日)   松江・出雲・日御碕

地域・場所 ルート・観光・見学箇所等 読み方  着時刻 発時刻
(通過
)
メーター 説 明 ・ 案 内 等
松 江 松江ユニバーサルホテル 8.30 938.1
城山西駐車場 8.55 944.4
   小泉八雲記念館
   小泉八雲旧居
   武家屋敷
      塩見縄手 しおみなわて         
   明々庵
   松江城 激しい降雨
城山西駐車場 11.30 944.4
      …R431…          
出 雲 出雲大社駐車場 12.25 985.4 日曜で混雑、満車。20分待ち。
   出雲大社
   昼食(そば処八雲) 駐車場前
  出雲大社駐車場      14.10 985.4  
       …K29…           
日ノ御碕 日ノ御碕灯台 14.25 15.20 994.3
      …K29…          
出 雲 出雲阿国墓所 いづものおくに 14.30 14.35 1003.3
      …R431…           
神門町 大島(右折) 15.52
    …R9…
太 田 久手町 給油 16.20 16.25 1034.5
浜 田 道の駅 ゆうひパーク浜田 17.40 17.55 1101.2
益 田 マスダセントラルホテル(泊) 18.45 1141.7
(142.6)

  〔小泉八雲記念館〕 1850(嘉永3)年、ギリシャに生まれた小泉八雲ことラフカディオ・ハーンは1890(明治23)年に40歳で来日、英語教師として赴任していた松江の風物や人情に心引かれ、こよなく松江を愛した明治時代の英文学者。武家の娘、小泉セツと結婚し、武家屋敷(現・小泉八雲旧居)を借りて1年3ヵ月ほど住んだが、大雪と寒さに耐えられず、熊本に移った。「耳なし芳一」「雪女」等の話で知られる『怪談』、『知られぬ日本の面影』など数々の名作を著して日本を広く世界に紹介した。東京で1904(明治37)年に54歳で逝去した。

 記念館は昭和8年に旧居の隣接地に開館し、59年に改築されたもので、直筆原稿・書簡・遺品・関係資料などが展示されている。

 
  〔小泉八雲旧居 八雲が松江滞在中に住んでいた当時そのままに保存されている家だという。八雲が是非庭のある侍の屋敷に住みたいと知人を介して当時の所有者である根岸家に申し入れて借用した旧松江藩士の武家屋敷で、小規模ながら高い評価を受けているという枯山水の観賞式庭園は八雲が大変気に入っていたものだとのこと。

 
  〔武家屋敷・塩見縄手〕 武家屋敷を見学した際にもらった「NPO法人松江ツーリズム研究会」発行のパンフレットの説明を引用、紹介しておきます・

  松江の 武家屋敷

 この武家屋敷は、江戸時代初期から松江藩の六百石程度の中級藩士が、屋敷替えによって入れ替り住んだところです。
 現在のこの屋敷は、一七三三年(亨保十八年)の大火で焼失後再建されたもので、約二六五年前の古い姿のままよく保存され、松江市の文化財に指定されています。
 入口の長屋門は、武家屋敷の特徴のひとつで、中間(武家奉公人)の住居としても使われていました。( 道路側には物見窓があり、外部に対する防備のひとつとなっている。
                   
 母屋はおよそ七〇坪で、表側の式台玄関から座敷にいたる部分と、裏側の私生活の部分とは、造りも材料もとくに区別をして、武家の公私の別のきびしさを示しています。
 正面の入口は内玄関で、ここは家族などの私用に使う出入口です。つぎに続く十畳の座敷は邸内で最も立派な部屋で、客は式台玄関から上り、床には香をたき、床脇にはよろい、かぶとなどを飾りました。
  座敷の前から裏側に続く庭園は、飾りをはぶいた素朴なつくりで、自然を生かした質実剛健の気風がうかがえます。
 屋敷の裏側にまわると家族の部屋があり、天井も低く造りもいよいよ質素になって、井戸・湯殿・台所などもご覧になると、当時のつつましい生活がしのばれ、現在の休憩所も、かつてあった味噌部屋を想定して、再建したものです。
 この屋敷のような中級武士の住んだ建物が当時のまま保存されているのは、全国的にも貴重なものといえます。

 屋敷内には以下のような物が陳列・展示されている
 
 刀箪笥(かたなたんす) ・ 熨斗目着物(のしめ) ・ 化粧道具 ・ お歯黒道具(おはぐろ) ・ 槍、薙刀(なぎなた) ・ 刀類 ・ 脇息(きょうそく) ・、たばこ莨盆(たばこぼん)、火鉢類、衣桁(いこう)、行灯(あんどん)、燭台類、食籠(じきろう)、祝膳など食器類、大茶壷など台所用具、糸繰り等雑具


  松江市伝統美観保存指定地区
   塩見縄手 しおみなわて

 この武家屋敷の前にひろがる通りは、塩見縄手とよばれ、初代出雲藩主堀尾吉晴が1607年(慶長12年)から1611年にかけて松江城築城の際に、城地の亀田山と北側の赤山の中間にあった宇賀山を堀削して、内堀とそれに並行する道路および侍屋敷を造成してできた城下町の通りです。
 城下町では、縄のようにひとすじにのびた道路のことを「縄手」といい、この塩見縄手には、二百石から六百石程度の中級武士の家中屋敷がならんでいました。なかでもこの武家屋敷に一時往んでいた塩見小兵衛が、のちに異例の栄進をしたため、それをたたえてこの通りを塩見縄手とよぶようになりました。この塩見縄手地区は昭和48年に松江市伝統美観保存地区に指定され、さらに昭和62年には建設省「日本の道100選」に選ばれています。



 
   
小泉八雲記念館と旧居入口(右端)

 
武家屋敷

 
   
塩見縄手

 
塩見縄手

 
  明々庵〕 茶人として知られている松江藩七代藩主松平不昧公の好みによって建てられたという、入母屋造り・茅葺きのすっきりした茶室。定石に頓着しない不昧公の好みの一端をうかがうことのできるものだという。「明々庵」の額の字は不昧公の直筆とのこと。塩見縄手から少し上った所にあるため城の眺めはよい。

松平不昧公(松平治郷) (ふまいこう・まつだいらはるさと)
 十七歳で七代目藩主となった不昧公こと松平治郷(1751~1818)は、公費の節約や商業の発展、治水などに力を尽くして藩の財政を立て直した人で、愛用した「不昧」の号は江戸天真寺の大巓だいてん和尚から贈られたものだという。茶の湯を愛好して独自の「不昧流」を確立し、名物茶器収集に没頭したりして十八巻の大著『古今名物類聚』(ここんめいぶつるいじゅう)を著したほか、多数の著作を残したり、現在も受け継がれている「不昧公好み」と呼ばれる趣向の、菅田庵(重文)などの茶室をいくつも造ったり、茶道具などの美術工芸品や銘菓の育成をはかったりなどして、松江に茶の湯の文化を築いたという。

  ☆菅田庵の見学には事前予約が必要とされるが、2013年8月現在、非公開(松江観光公式サイト)。
  ☆下の明々庵の写真は明々庵発行パンフレット掲載のもの。


 
   
明々庵(明々庵発行パンフレット)

 
明々庵から見た松江城

 
  〔松江城 松江城を見学した際にもらった、松江城山公園管理事務所発行のパンフレット「松江城」の説明を引用・紹介しておきます。
 
重要文化財  松江城(別名・千鳥城)天守の特徴

全国に現存する12天守の一つで山陰では唯一の天守閣である。
 天守閣の大きさ(平面規模)では2番目、高さ(約30m)では3番目、古さでは6番目である。
 慶長16年(1611)出雲の領主・堀尾茂助吉晴が5年の歳月をかけて完成した。
 城主は堀尾忠晴、京極忠高の後、徳川家康の孫にあたる松平出羽守直政が信州松本から移封され、以来、松
平氏10代234年間出雲18万6千石を領した。
 明治8年、城内の建物は全部とりこわされたが天守閣だけは有志の奔走によって保存され、昭和25年~30年
の解体修理を経て現在に至っている。
 天守閣は、附櫓を加えた複合天守で、外観5層、内部は6階である。壁の大部分は、黒く塗った雨覆板(下見板
張り)でおおわれ、実戦本位で安定感のある武骨な体裁に、桃山風の壮重雄大な手法をみることができる。

●望楼式
  天守閣の起源のひとつは四方を展望できる望楼であるが、現存する日本の天守のなかで松江城をはじめ姫路
  城や松本城などにみられ、桃山初期の壮重雄大な姿をつたえている。

●下見板張り、
  姫路城や彦根城のような塗籠造り(白壁)は少なく、その大部分が、黒く厚い雨覆板でおおわれ、古い様式を保っ
 ている。

●牛蒡(ごぼう)積み
  石の大きな部分を内に、小さな面を表に出して、一見粗雑にみえるが、石組にしてはもっとも頑丈な積み方であ
  る。なお勾配は力強い直線で中腹も凹んでおらず、古い形式がみられる。

●鯱鉾 (しゃちほこ)
  木彫絹張り、向かつて左が雄で鱗があらく、右が雌。高さは2.08メートルあり、日本現存の木造ものでは最大で
 ある。

●千鳥破風 (ちどりはふ)
  干鳥が羽根をひろげたような三角形の屋根をいい、天守閣の美観を構成する重要な部分である。

●華頭窓  (かとうまど)
  三層の中央にある寺院様式の窓で,一種のかざりである。本天守閣の美観の特色は、ほとんど飾りを用いない
  で、屋根・破風・窓などにより均整のとれた構成美を出している。

●鬼瓦
  各層の屋根の隅々にある鬼瓦は、後世のものとは違って角がほとんどな<、各一枚ごとに異なった珍奇な表情
  をもっている。


●附櫓  (つけやぐら)
  天守閣入□の防備をかたくするためにとり付けた櫓で、入口に鉄延板張りの大戸があり、入ると扁形・小広場が
  二段あって、侵入しにくいようになっている。


 
   
雨中の松江城

 
堀川から見た松江城(7月15日)

 
  〔出雲大社 大国主命(大黒様)をまつる大きな社で、縁結びの神として広く知られている神社。『記紀』に大国主命が国譲りの代償に宮殿をもらったと記されており、それが出雲大社の始まりだろうとされている。松の馬場と呼ばれる美しい松並木から始る広大な境内には、高さ24mの本殿を中心に東・西十九社、拝殿、銅鳥居、宝物殿、彰古館、神楽殿等が立ち並ぶ。

 拝殿には長さ8m、重さ1.5tの巨大な大注連縄(しめなわ)が掛かり、拝殿の裏側に瑞垣・玉垣に囲まれて、先端が垂直に切られた男造り(外削)の千木(ちぎ)と堅男木(かつおぎ・三本)が空にそびえる高さ24mの本殿(江戸時代のもの)がある。発掘された遺構などから考えると、古代には高さは現在の2倍、48mもあったらしいという。 本殿は「大社造り」といわれる日本最古の神社建築様式で、国宝に指定されている。出雲大社ではおおむね60から70年毎に遷宮が行われており、本年(平成25・2013年)5月に平成の大遷宮として御祭神を仮殿から改修が完了した本殿へ再び遷座する「本殿遷座祭」が行なわれたという。
 なお、本殿西の神楽殿にある注連縄は拝殿のより大きく、長さ13m、周囲9m、重さ5トンもあり日本一の大きさという。 ここでの拝礼は通例と違う独特の「二礼四拍手一礼」で行なわれている。

 旧暦10月は「神無月(かんなづき)」と呼ばれているが、これは全国の神々が一年の事(縁結びの相談など)を話し合う会議をするために出雲大社に集まってしまうので、諸国に神様がいなくなってしまうことからこういわれるようになったのだという。 が、逆に神々が集まるこの地域だけは「神在月(かみありづき)」と呼ばれているという。
 
 旧暦10月10日の夜、記紀神話において国譲りが行われたとされる稲佐浜で、全国から参集する神々を迎える「神迎祭」が行われ、出雲大社で会議が行われる旧暦10月11日から17日までは「神在祭」が行われる。旧暦10月18日には、出雲大社拝殿で各地に帰る神々を見送る「神等去出祭」が行われるという。出雲大社の荒垣内には神々の宿舎となるとされる「十九社」がある。

 ※大社造  神社本殿様式の一つで、次のような特徴をもつという。
         平面全体が正方形で、正面・側面とも二間。高床、切妻造り、妻入りで、入口は妻中央に「宇豆
         (うず)柱」という太 い柱を持つ ため、柱の右(または左)に設ける。本殿中央には、「心御柱」(いわ
         ゆる大黒柱)がある。

 
   
参道(松の馬場)

 
銅鳥居と拝殿

 
   
拝殿注連縄

 
本殿(左奥)・拝殿(右手前)

 
  〔日ノ御碕灯台・日御碕神社・日御碕海岸〕 島根半島の最西端の岬にある柱状節理の断崖の上に高さ44mの、石造りでは東洋一といわれる、明治36年(1903)に設置された白亜の灯台が立っている。この灯台は、その歴史や文化的な価値の高さから、平成10年に「世界の歴史的灯台百選」の一つに選ばれたという。
 
 灯台の手前には徳川家光の命により造営された(1644年に完成)という、素盞嗚尊(すさのおのみこと)とその姉とされる天照大神(あまてらすおおみかみ)を祀っている華麗な日御碕神社(重文)がある。また岬の東側には「日本の自然百選」にも選ばれている、「出雲松島」と呼ばれる多島美の景観を望むことのできる遊歩道が続いている。

 
 
日御碕灯台

 

出雲阿国墓所

 
 
  〔出雲阿国墓所(いずもの おくに) 安土桃山時代から江戸初期の頃の女性芸能者で、阿国歌舞伎の創始者、歌舞伎芝居の祖とされる女性の墓所。出雲大社から稲佐の浜へ抜ける途中にある。

  出雲阿国は出雲大社の巫女(みこ)であったとされることが多いが、諸説あって生没年とともにその出自・経歴は不詳とされている。女性中心の舞踊団 (阿国歌舞伎 ) をひきいて諸国を巡演し、「ややこ踊り」を基にして、当時流行していた「かぶき者(傾き者)」 (異様な身なりをしたり、人の目につく衣裳を身につけたりして、自由奔放、勝手放題なふるまいをした若者) の茶屋通いの風俗を取り入れた「かぶき踊り」を創始し、慶長8 (1603) 年には京都で 男装して茶屋遊びの様子をまねた「かぶき踊り」を興行して、庶民から武士・貴族までの間に広く人気を博したという。
 この後、これにならった多くの遊女歌舞伎、女歌舞伎が生まれ、更に、若衆歌舞伎、野郎歌舞伎と続き、さまざまな変遷を経て現在の歌舞伎芝居につながっているのだという。
 
 


〔第7日〕 7月17日(月)   津和野・萩

地域・場所 ルート・観光・見学箇所等 読み方  着時刻 発時刻
(通過
)
メーター 説 明 ・ 案 内 等
益 田 マスダセントラルホテル 8.33 1141.7
    …R9…
津和野 津和野駅前 9.20 9.40 1176.9
養老館前駐車場 9.45 1178.3
   藩校養老館
   多胡家老門 たこかろうもん
      カトリック教会          
養老館前駐車場 10.48 1178.3
乙女峠マリア聖堂 10.50 11.08 1178.7
永明寺鴎外墓 ようめいじ 11.10 11.30 1179.1
森鴎外旧居 11.40 11.55
西周旧居 にしあまね 12.05 12.15
太鼓谷稲成神社 たいこだに
いなりじんじゃ
12.20 12.40
養老館前駐車場 12.50 1185.4
   蕗の茶屋(昼食) ふきのちゃや つわぶき御飯
   土産物店等・散策
   津和野駅(SL見物)
養老館前駐車場 14.45 1185.4
   …K13…嘉年…R315…          
 …片俣…K13…鍛冶屋
 …K13…
福 栄 道の駅 ハピネスふくえ 15.33 15.40 1226.4
 …K13…
国民宿舎 萩浦荘 15.52 16.00 1235.7 休憩
   東光寺・毛利家墓所 16.10 16.50
   松陰神社・松下村塾 16.55 17.25
国民宿舎 萩浦荘(泊) 17.30 1240.1
(98.4)


    
駐車場でもらった津和野観光案内図(鹿足郡交通安全協会・津和野警察署)




 
  〔津和野 駐車場でもらった「観光案内図」(鹿足郡交通安全協会・津和野警察署)の裏面にあった、津和野と各史跡等についての説明(青字部分)を引用掲載しておきます。(一部、句読点、ふりがな等を引用者が補記。説明文の順番はこちらが回った順番にかえ、一部は省略しました。※印(黒字部分)は引用者の補足説明。)


   観光津和野  周遊指定地 小京都津和野
    史跡と景勝地をたづねて


 
 山陰の小京都といわれる津和野町は中国地方島根県の西南に位置し、古くから地方政経文化の中心として栄え現在に及んでいる。
 人口六千人、方一里の中心部は城下町として人家一千余戸がひしめき、町を縦貫する津和野川の清流をはさんで、東に青野山、西に城山がそびえ、景勝の地であるとともに陰陽を結ぶJR山口線の中心にあって、バス網の重要基点にあり、今を去る約七百年の昔、開祖吉見頼行が封地されて以来吉見氏十四代、坂崎出羽守十六年、亀井藩主十一代の居城としていん盛
(殷盛)を極めた士地である。

  町の中心には殿町(掘割に泳ぐ鯉)、藩邸跡嘉楽園、鷲原公園の景勝地を初め、安野光雅美術館、森鴎外記念館、民俗資料館、郷士館といった美術館や資料館、文豪森鴎外旧宅、先哲西周旧居、キリシタン殉教史跡、やぶさめ馬場、坂崎出羽守墓所等五十指に余る史跡を有し、太鼓谷稲成神社、覚皇山永明寺、カトリック教会等地方信仰のメッカとしても知られている。また、鷺舞、津和野踊りといった無形文化財、温浴施設「津和野温泉なごみの里」、夏はホタルの里、酒と銘菓の町でもある。


  藩校  養老館址
殿町の東側津和野川に沿った一角で、旧藩時代に藩士の子弟を教育した所である。天明六年藩主八代の亀井矩賢(のりかた)公の創設にかかり、明治五年まで国学、儒学、蘭学、医学、数学、兵学、武芸一般を教え、藩文化の中心として人材輩出と共にその影響する所極めて大なるものがあった。


  家老多胡氏邸
亀井氏十一代に亘(わた)り其の行政の中心は家老職多胡氏であった。特に真武は鬼主水と呼ばれ殖産興業に力を尽し産業の基礎を築いた。真蔭は仮名手本忠臣蔵における加古川本蔵のモデルといわれ亀井茲親(これちか)に仕えて功あり、幕末の真祇(逸斎)は画を谷文晁、桜間青崖に学んで逸作を残し、特に渡辺華山と親交あったことも有名である。


  町のセンター殿町
カトリック教会、藩校養老館址、郡庁址、家老多胡氏邸表門等と多くの史蹟を有し、津和野大橋に通ずる殿町は町の観光そンターとして景観を誇っているが、街頭に灯のともる頃の夜景は又格別である。又、ここの側溝には鯉の放流がしてあり六月には菖蒲の花が咲き乱れる。


 
 
   
藩校養老館

 
殿町 養老館前側溝の鯉

 
   
多胡家老門

 
殿町通り

 
     観光津和野  周遊指定地 小京都津和野
    史跡と景勝地をたづねて
 (続)

 マリア聖堂
長崎浦上村の切支丹信徒を改宗させるために幕府が津和野藩に預けた信徒は百五十三名。これらは現津和野駅西方乙女峠の廃寺光琳寺に収容され、明治六年帰国に至るまでに死に至った者もあった。
 後に津和野教会神父パウロ・ネーベル氏の努力によってマリア堂が建立され殉教徒の霊を慰めている。故永井博士の絶筆「乙女峠」はこの間の事情を物語る史料である。


  覚皇山永明寺(ようめいじ)
石見における曹洞宗の古刹で応永二十七年、吉見頼弘公創建せられ、吉見、坂崎、亀井歴代の城主の菩提寺で往時は学校を設け雲水の養成につとめた。
 境内には坂埼出羽守墓所、森鴎外墓所をはじめ有名な墳墓が多い。

   ※鴎外墓所  森鴎外の墓は、木々に囲まれた一角にあり、ごく普通の墓石で、ただ「森林太郎墓」とだけ刻まれている。「鴎外」はペンネームで本名は「林太郎」という。鴎外の遺言書とされるものの一部には「森林太郎トシテ死セントス墓ハ森林太郎墓ノ外一字モホル可ラス書ハ中村不折ニ委託シ宮内省陸軍ノ栄典ハ絶対ニ取リヤメヲ請フ」(官位官職等に関係のない全くの一個人、森 林太郎として死のうとしているのであり、墓石には「森 林太郎墓」という文字以外の官職名等は一字も彫ってはならない。…)とあり、これに従ったものと思われる。
      

  出羽守墓所
悲恋の城主坂崎出羽守はこの地に十六年あったが、この間に出丸の築城、市街の整理など多くの仕事を残している。

  森鴎外先生旧宅
医学博士、文学博士、鴎外の号をもって名高い、森林太郎先生は六才より藩校養老館に学び十一才の時上京、明治十四年二十才で東大医学部卒業後陸軍々医に任ぜられた。明治十七年ドイツに留学すること五年、衛生学、文学、哲学、美学を研究して帰朝、後累進して軍医総監となった。後に帝国博物館長、帝国美術院長等となった。
 著作は明治二十三年創作「舞姫」以来晩年まで文豪の名に背かぬ幾多の名作があり多方面に亘る著述論作は尨大なものである。旧址には往時のままの旧宅が保存せられ庭園には鴎外遺著「うた日記」中のぼたんを刻んだ詩碑が建立されている。


  西周先生旧宅
明治文化の功労者の一人であり我国哲学界の先駆者として知られている。先生は早く和漢洋の学に通じ、二十九才、津和野藩を脱藩後徳川幕府に仕え、蕃書取調所に入って幕命を以て和蘭
(おらんだ)ライデン大学に留学し、帰朝後徳川慶喜を補佐した。明治以後は西洋哲学を日本に紹介した。とりわけ学術語の整作※は最も有名である。コント及びミルの実証主義による封建的旧弊打破、宗教と政治の分離は最も主張した。森鴎外と共に、文化人切手の中に収められた。
  ※学術語の整作  philosophyの訳語「哲学」をはじめ、主観、客観、理性、悟性、帰納、演繹など多くの哲学用語や「化学」などの語を考案、訳語として使用したとされている。「整作」の表記は原文のまま。

  ※ オランダ留学後、幕府の命令で「万国公法」(フィセリングの講義)を翻訳・出版したり、大政奉還の際には、憲法草案「議題草案」を起草したりしたという。また、維新後は山形有朋のブレインとして「軍人勅諭」の原案を作ったりしたともいう。1873年、明六社の結成とともに同人となって『明六雑誌』に多くの論説を発表、活発な啓蒙活動を行って西洋の諸文明を総合的に紹介したりした。

 
  太鼓谷稲成神社(たいこだにいなり神社)
津和野太鼓谷稲成神社は安永二年五月十五日、津和野城主亀井矩貞公が、三本松城の安穏鎮護と、住民の福祉多幸を祈願するため、城山の聖地太鼓谷の峯に勧請せられたのに始まる。
祭神は宇迦之御魂神伊鉢再尊で俗に太鼓谷稲成といって崇敬者おびただしく神徳は霊験と共に衆人の渇仰するところである。奉納せられた朱の鳥居がさながらトンネルの如く参道に建ち並んでいるのを見てもその盛んなことが偲ばれる。大祭は、二月初午、春の五月十五日、秋の十一月十五日、十六日で地方稀に見る祭典で近郷近在はもち論、中国、四国、九州からの参詣者で賑う。
 境内には宝物殿、養老文庫、茶席半峰亭、通夜堂等の設備がある。


 
   
乙女峠 マリア聖堂

 
永明寺

 
 
森林太郎墓

 
 
森鴎外旧居

 
 
西周旧居

 

太鼓谷稲成神社

 
 
 
太鼓谷稲成神社(北側徒歩上り口)の鳥居群

 
 
津和野市街(南部)の展望

 
  カトリック教会〕 昭和6年、ドイツ人ヴェケレーによって建てられた(津和野町観光協会HP)もので石造ゴシック建築の尖塔が美しい教会。武家屋敷が立ち並ぶ殿町の古い町並みの中にあって大変印象的な建物。外観は洋風の教会だが内部は畳敷きの和風の礼拝堂になっていて両側面のステンドグラスが美しい。教会HPには「乙女峠殉教者に捧げたマリア聖堂」とも書かれている。
 隣接してドイツ人神父パウロ・ネーベル(後に帰化して岡崎祐次郎)が建立したという乙女峠記念聖堂や乙女峠での殉教者に関係したものを集めた乙女峠展示室がある。

 
 
   〔津和野駅〕 昭和48年(1973年)10月に山口線の新山口ー津和野間を走っていたSLが一旦姿を消したが、多くのSLファンや地元市町村を中心に高まったSL運行復活への気運をうけ、昭和54年(1979年)月8月、山口線にSLが復活し、 「貴婦人」の愛称で親しまれている「C571」が「津和野」までの62.9kmを約2時間かけて走っている。
  ※[2013年(平成25年)9月現在、7月に山口県および島根県を襲った記録的な大雨にともなう災害の影響で、年内の運行は中止されている。]

 津和野駅の横(北側)には人気の高いSL、「D51」(デゴイチ)が保存・展示されている。旧国民宿舎に展示されていたD51を2006年に移転したものという。

 
   
津和野カトリック教会

 
津和野駅構内のC571

 
   
駅構内で運行準備中のC571

 
津和野駅横に展示されているD51
 
             直接見学できなかった津和野の観光地等

  嘉楽園
旧藩邸庭園の一部で初代養老館学頭山口景徳の名づけたものである。明治初年に藩邸解払後久しく荒廃したが、明治二十四年旧を慕う情切なるものがあって有志相謀って亀井茲監公の頌徳碑を建てると共に桜楓を植えて園を設けた。


  郷土舘
鎌倉末期以来の郷土史料、美術品、その他を陳列した県内唯一の歴史博物館である、収蔵品約一そ点。、文書記録その他貴重資料を蔵している。


  鷲原公園
鎌倉末期に吉見氏が、三本松城の守護として、鎌倉鶴岡八幡宮より勧請した八幡宮で、やぶ さめ馬場もその形を残した横馬場として知られている。


  津和野城址
文部省の指定史蹟で、三本松城あるいは蕗城、たく吾城などと称し、文永、弘安の役の勲功として、西石見の追捕使(地頭職)に任ぜられた吉見頼行公が永仁三年築城に着手したと伝えられている。坂崎出羽守慶長五年入城後本城の北二〇〇メートルの山頂に織都丸と称する出丸の築城にかかり、以来明治七年の解城まで使用期間の長いこと塁の構築様式において全国稀に見る豪壮な山上の防塁はその稜角堡とともに著名である。


  鷺 舞(さぎまい)
国重文指定された鷺舞は天文十一年山口の祇園会鷺舞を移したのに始まり、正保元年亀井茲政公が京都祇園会から更めて伝習させて今日まで伝わったもので、当時の古式をそのまま残している全国でも数少ない神事である。この舞は毎年郷社弥栄神社の祇園祭御神事の際行われ七月二十日・二十四日・二十七日の三日間舞う。
   橋の上におりた、鳥は何ん鳥、かわささぎの、かわささぎの、ヤーかわささぎ
   驚か橋を渡いた、鷺が橋を渡いた時雨の雨に、ぬれとり鳥


  津和野踊
無形文化財に指定された津和野踊は今から三百四十年前、槍の名人で有名な亀井新子即発矩が旧領鳥取県鹿野から津和野へ来る時一緒に持って来たと伝えられるもので、毎年八月十日山中鹿之介をまつる幸盛寺観音のお祭りの時踊り姑められる。また八月十五日の夜は殿町で盛大に踊りの会が催される(その他本性寺の灯龍流しの時にもおどられている)この踊は念仏踊の一種で室町時代からの古い形を残しているもので学術的にも注目されている。


  津和野小唄
一、津和野恋しやあの娘の瞳   夢を見るよな城下町
二、梅の花さく鴎外やしき    のこる香りよ面影よ
三、鐘が鳴る鳴る十字(クルス)は光る   鳥もきてなけマリア堂
四、いとし千姫坂崎出羽の     墓に雪ふる水明寺
五、スキーかついで青野を下りゃ     恋のヒュッテが君を侍つ


 
  〔国民宿舎 萩浦荘  萩市街東端  東萩駅の南徒歩5分位の松本川畔(右岸)
 この日、萩まで行こうという予定ではあったが宿はまだ決めてなかった。いつもの通り午後の2時頃、宿を決めようと安いところを探したが国民宿舎ぐらいしかない。当日ではもう空きはないだろうと思ったが、だめでもともとと電話してみたところ、「悪天候の関係でお客さんがいないのでもう今日は休みにしようと思っていたが、これから来るのだったらいいですよ。」とOKの返事。「ラッキー!」と喜んで宿泊を依頼したのだった。
 宿に着いたのが4時少し前、今日のうちに少しでも見ておきたいと少憩の後、すぐ近くにある松陰神社と東光寺へと出かけたのだった。
 というわけでこの日、客は我々2人だけだったのだが大変気持ちよく応対し、もてなしてくれた。残念ながら、この国民宿舎はその後、移転したのか、廃業したのか、現在、もとあった場所にはないようだ。

 
  萩〔東北部〕・観光 案内マップ  (萩市観光課発行)  [東北部を抜粋]   
   


 
  〔東光寺〕  東光寺発行パンフレットの説明を引用しておきます。 ※印部分は引用者補足。

    黄檗宗(おうばくしゅう) 東光寺

 「みどころ」
   ●明末、清初の中国風の雄大華麗な建築美
   ●春蘭秋菊の美を競う諸堂の扁額、柱聯にみる黄檗墨跡
   ●静寂、そして幾何学美をもつ毛利氏廟所
            
※聯=れん。柱または壁などの左右に、相対してかけて飾りとする細長い書画の板・軸。
                  はしらかくし。[広辞苑第六版]


 「沿 革」
    萩市大字椿東字権原にあり山号を護国山といい、元禄4年(1691) 萩藩 三代藩主毛利吉就が建立しま
   した。吉就は若くして深く黄檗宗(おうぱくしゅう 禅宗の一派)に帰依して、京都府宇治市、本山黄檗山万
   福寺に範を求めて広壮な堂宇を建立し、萩出身の高僧慧極道明禅師を開山に迎えました。
    吉就の歿後ここに墓所を営み、毛利氏菩提寺となりました。黄檗三叢林の随一と称えられ、文化年間の
   最盛時には全山塔40棟を数えたといいます。

 「建 築 物」
   中国の明時代の末から清時代の初めにかけての黄檗伽藍様式で、伽藍配置は龍の形を表わしたものと
  伝えられています。
    ①総   門 元禄6年(1693)頃の建立  重要文化財
    ②三   門 文化9年(1812)建立     重要文化財
    ③鐘   楼 元禄了年(1694)頃の建立  重要文化財
    ④大雄宝殿 元禄11年(1698)建立     重要文化財
    ⑤大方丈書院 寛政4年(打92)建立

 「毛利氏廟所」
   萩藩主3代吉就、5代吉元、了代書就、9代斉房、11代斉元並びに各夫人10基の外、枝葉近親者20余基
  があり、藩主五公、吉元の嗣子宗元の業蹟を記した神道石碑6基、単表5基、重臣諸家により献上した石
  灯寵約500基が整然と立ち並び、周囲には老杉檜の大樹が生い茂り森巌な霊域であります。
       
※ここには3代から11代までの奇数代藩主とその夫人などの墓があり、偶数代藩主の墓は
        市街南部の大照院にある。
 

 「元治甲子殉難烈士墓所」
   元治元年(1864)京都禁門の変の際、幕府に謝罪の為、徳山で自刃した益田右衛門介、国司信濃、岩国
   で自刃した福原越後等三家老、反対派の為萩野山獄で処刑せられた竹内正兵衛、中村九郎、佐久関左
   兵衛、宍戸左馬介、前田孫右衛門、毛利昔人、山田亦介、渡辺内蔵太、楢崎弥八郎、大和国之助、松島
   剛敵等十一烈士、俗論党の為萩で自刃を命ぜられた漬水漬太郎、又幕府の萩藩征討の起因の責を感じ
   山□で自刃した周布政之助等、身を以て難に殉じた藩士の為明治29年(1896)に建てられた慰霊墓所で
   あります。
    尚 墓所の右隅の三墓碑は選鋒隊士の為明木権現原で暗殺された桜井三木三、香川半助、冷泉五郎
   等鎮静会議員の墓であります。

 
 
  〔松陰神社 しょういんじんじゃ  松陰神社は幕末から維新にかけての歴史の流れに大きな影響を与える原動力となったとされている吉田松陰を祀る神社。1890(明治23)年に創建され、1955(昭和30)年に朱塗りの本殿が造営されて現在の形になったという。敷地内には松下村塾、吉田松陰歴史館、松陰遺墨展示館等がある。
 明治15年(1882年)には現在の東京都世田谷区若林4目の墓所[文久3年(1863年)に改葬]に松陰神社が創建された。

 
  〔松下村塾 しょうかそんじゅく  1857 (安政4)年に当時28歳だっだ松陰が叔父である玉木文之進が開いていた私塾を引き継ぎ、 米国への密航を企てた咎で投獄されていた野山獄から出獄した後、1858年(安政5年)に老中暗殺を企てた等の咎で再入獄するまでの1年問、身分や階級にとらわれずに広く門弟を指導したという。その教育法は一方的な講義などではなく、松陰が弟子と意見交換したり、広くさまざまことを行なったりする「生きた学問」だったという。門下には高杉晋作、伊藤博文らの他、久坂玄瑞や山縣有朋、前原一誠、品川弥二郎などもいたとのこと。

 安政6年(1859年)、幕命により江戸に送致された松陰は、幕府批判、倒幕計画等、自らの思想を語り、老中暗殺計画の詳細を自供するなどして、自身を「死罪」にするのが妥当だと主張したりしたため江戸伝馬町の獄において斬首刑に処されたという。享年30歳(満29歳没)。

 
 
東光寺総門

 
奇数代藩主の墓所

 
 
松陰神社
 
松下村塾
 



〔第8日〕7月18日(火)

地域・場所 ルート・観光・見学箇所等 読み方  着時刻 発時刻
(通過
)
メーター 説 明 ・ 案 内 等
国民宿舎 萩浦荘     8.35 1240.1  
  城下町駐車場   8.50   1242.6  ここから徒歩観光
     円政寺・金毘羅社         江戸屋横丁
      青木周弼旧宅         江戸屋横丁
     木戸孝允旧宅         江戸屋横丁 
      旧久保田家住宅         江戸屋横丁 
     菊屋家住宅         菊屋横丁
     高杉晋作誕生地         菊屋横丁
  城下町駐車場     9.38 1242.6  
  萩城跡駐車場   9.50   1246.1 ここから徒歩観光 
     萩城跡          
      旧厚狭毛利家萩屋敷長屋 きゅう あさもうりけ はぎやしき        
     堀内・武家屋敷巡り
      天樹院入口
      口羽家 くちばけ
      堀内鍵曲 かいまがり
      旧児玉家
      旧祖式家
      旧二ノ宮家
         
  萩城跡駐車場     12.00 1246.1  
  駐車場(藍場川)   12.23   1246.1  藍場川(南端、湯川家の南側にあった。)
     桂太郎旧宅        
     旧湯川家屋敷          
  駐車場     12.55 1246.1  
  萩駅舎前(昼食)   13.02 13.45 1254.5  
  大照院   13.55 14.28 1257.0  
   …玉江…R191…          
   宗頭…K28…     14.45    
秋吉台 景清洞   15.00 15.38 1281.6  
  秋吉台 展望台   16.00 16.25 1293.0  
  国民宿舎 若竹山荘(泊)   16.30   1293.4  
            (53.3)
             


   萩・観光 案内マップ  (萩市観光課発行)  [北部を省略]  
   

 
   萩・観光 案内マップ  (萩市観光課発行)  [西・中央部を抜粋]    
   

 
  〔 萩  「おいでませ 萩へ」と題する「萩市観光協会」発行のパンフレット(萩観光案内図の裏面)には
       「萩のみどころ」として次のように書いてある。

   「日本海に流れる松本川と橋本川に囲まれた静かなまち‥・萩。
   江戸時代には長州36万石の城下町として栄えたところ。幕末から
   維新にかけて、歴史の流れを大きくかえる原動力となった数多<の
   志士を生んだ町でもある。落ち着いた家なみや夏みかんが顔を出す
   石垣・土塀に、訪れる人は旅情をかきたてられる・・・。」


 
   〔萩城城下町〕 萩城の南東部に形成された城下町には、江戸時代の地図がそのまま使えるといわれるほど当時そのままに、碁盤の目のように整然と区画された町並みが残っており、中・下級武士の屋敷や富裕な商家などが数多く残されている。西側の橋本川に近い堀内地区には武家屋敷が立ち並び、長屋門、なまこ壁、土塀や、鍵曲(かいまがり)など江戸時代の城下町の風情が色濃く残っている。また、東側の新堀川に近く、御成道に面した菊屋横丁、伊勢屋横丁、江戸屋横丁と呼ばれる小路がある国指定史跡(萩城城下町)に指定された地区には、豪商菊屋家や久保田家、なまこ壁の土蔵、高杉晋作誕生地、木戸孝允|日宅など往時の面影をよく残したものが色々残されている。

  ※鍵曲(かいまがり)  国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されている、藩の重臣が住んでいた萩市堀内近辺には、直角に折れ曲がった道が多い。これは道を鍵手型にして直進できないようにした城下町特有の道路で、外敵の侵入や攻撃に備えるためのものである。さらに左右とも土塀を高くして、見通しがきかないようにしてある。

 


  〔円政寺・金毘羅社 江戸屋横丁南端に近い所にある。入口に「高杉晋作、伊藤博文 両公幼年勉学之所」という立札が立っており、近くに住んでいた高杉晋作、木戸孝允、伊藤博文らが幼少期にここで学問を学んだという真言宗の寺院。境内には金比羅社があり、高杉晋作は幼少期にたびたびつれてこられ、度胸を鍛えるためとして社殿に掛かる天狗の面を何度も見せられたという。
 
 
  〔青木周弼しゅうすけ旧宅  青木周弼は幕末には日本屈指の蘭学医と言われた人で、13代藩主毛利敬親の侍医であった人物。長州藩医の能美洞庵に師事して医学・儒学などを学んだ後、大阪、江戸、長崎でオランダ語やオランダ医学を学んだ。早くから種痘法に注目して研究し、弟の研蔵とともに藩内で種痘を実施、コレラ治療に大いに貢献したという。また、藩の医学館(好生堂)創設にも関係し、後に館長となって防長(周防スオウ・長門)の医学の発展に大きく貢献したり、その洋学の知識が幕末の藩政改革に生かされたりもしたという。
 
 
 
円政寺・金毘羅社

 
青木周弼旧宅 (写真提供:萩市

 
  〔木戸孝允きどたかよし旧宅 藩医和田昌景の長男として生まれ、後に藩士・桂家の養子となり桂小五郎と称していたが、後に藩命により姓を「木戸」と改め、木戸孝允と名乗ったのだという。西郷隆盛、大久保利通と並んで維新の三傑と呼ばれた桂小五郎こと木戸孝允は、吉田松陰の教え子で萩藩志士の一人。尊攘運動に加わり、坂本竜馬の仲介のもと西郷隆盛らと薩長同盟を結んだりして討幕に大きな役割を果たした。維新後は新政府の要職を歴任、「五箇条の御誓文」の起草に参画したり、版籍奉還や廃藩置県などを推進したりした。明治10(1877)年、西南の役の途中、享年45歳で病死した。

 藩医の長男として生まれた木戸が江戸に出るまでの20年問を過ごした家。家人用以外に患者用の門がある木造2階建ての家で、孝允が誕生した部屋や勉強部屋が公開され、幼少時代の手習いの書を表装した掛け軸や写真などが展示されている。

 
 
  〔菊屋家住宅(重文) 菊屋家は萩藩の御用商人を務めていた萩きっての豪商で、当時は幕府巡見使の宿として本陣になっていた。屋敷は400年の歴史がある江戸初期の建築で、現存する商家としては最古の部類に属するいう。母屋、木蔵、米蔵、釜場などが残り、五棟が国の重要文化財に指定されており、庭園や藩主から拝領した美術品など数多くの貴重な資料が展示されている。

 
 
   
木戸孝允旧宅

 
菊屋家住宅

 
   〔久保田家住宅 江戸後期から明治にかけて当初は呉服商、後に酒造業を営んでいた久保田家は、主屋・門・塀などが旧御成道〔おなりみち。参勤交代の際などに大名行列が行き来した主要道)〕に面してあり、道を挟んで菊屋家住宅と対峙するかのように存在する。
  江戸時代の後期に建てられた旧久保田家住宅の主屋は、屋根裏に物置や使用人の寝間を設けた「厨子二階」(つしにかい/ずしにかい)を持った造りが特徴という。幕末から明治前期にかけて造られた町家として、意匠・構造・技術に優れ、造り酒屋として繁栄した往時の状況もよく伝えていて、「史跡萩城城下町」を構成するきわめて重要な建物とされている。

 厨子二階 2階の天井が低く、虫籠(むしこ)窓がある。近世後期に完成し、明治後期まで一般的に建築された様式で、中二階ともいう。ここは居住空間ではなく「物置」として利用されていた。当初、礼拝対象などの大切な物を保管する場所だったことから「厨子」という言葉が用いられたともいわれている。一説には、町民が武士を見下ろすことが許されなかったことから、外から見た時に二階建てに見えない形になったとも言われ、そのために本格的な二階はなかなか建築されなかったのだという。

 
 
  〔高杉晋作誕生地 幕末の風雲児といわれる高杉晋作が生まれ育った家があり、邸内にある平屋の民家は当時よりは縮小されているが、江戸期の面影をよく残しているものだという。屋内には晋作ゆかりの品や書・写真などを展示し、庭には産湯の井戸や句碑がある。
 
 萩藩の禄高200石の中級武士・高杉小忠太の長男として生まれた晋作は、藩校明倫館に通う一方、松下村塾にも通い、久坂玄瑞とともに吉田松陰門下の双璧と称されたという。身分を問わない志願制の我が国初の軍事組織「奇兵隊」を創設して挙兵し、討幕戦の勝利に貢献したりしたが、肺病が悪化し、維新の始まった慶応3年(1867)に29歳という若さで逝去した。

 
 
 
久保田家住宅
 
高杉晋作誕生地
 


  〔萩城跡 萩市内の西北隅にある萩城は関ヶ原の役後毛利輝元が、指月山(しづきさん。標高143メートル)の麓に慶長9年(1604)、防長2州36万石の居城として築城に着手し、4年後の同13年(1608)に完成したもの。山名をとって指月城とも呼ばれた。山麓の平城と頂上の山城とを併せた平山城で、本丸の御殿は藩主居館と藩庁(政庁)を兼ねており、二百数十年の間、防長両国政治の中心であったが、13代毛利敬親の代になって幕末多端な国事を処理するのに不便なため文久3年(1863)4月に藩庁が山口政事堂(山口市)に移され、萩城は藩庁としての役目を終えた。明治7年(1874)には廃城令により建物の全てが解体され、本丸には高さ14、5メートルの五層の天守閣があったが、その台座のみが残された。現在、その他に壕と城壁の一部、石垣などが昔の姿をとどめて残っており、旧本丸の一部が指月公園として整備されて、春は桜の名所となっている。

 
  〔旧厚狭毛利家萩屋敷長屋 きゅうあさもうりけ はぎやしきながや 萩城跡の指月公園入口の南側にある毛利家一門のひとつ、毛利元就の5男元秋を祖として厚狭(厚狭郡山陽町)に知行地を与えられた厚狭毛利家の武家屋敷で国の重要文化財。1856(安政3)年に建築された、桁行51.5m、梁問5mの長大な入母屋造り本瓦葺きの建物は、萩に現存する武家屋敷のなかでも最大のものだという。白壁に出格子5ケ所、格子窓6ケ所、式台および縁付で仲間部屋もある代表的な格式ある武家屋敷長屋で、5つに区画された内部には土間がなく、特に東の座敷は狭いながらも畳廊下を配した格調高い造りであることから、身分の高い者に対して用意された詰所であったらしいという。

 
   
萩城跡(公園入口)


旧厚狭毛利家萩屋敷長屋(写真提供:萩市)

 
  〔堀内・武家屋敷巡り〕 萩市街西側の重要伝統的建造物群保存地区に指定されている橋本川に近い平安古(ひやこ)などの堀内地区には武家屋敷が立ち並び、長屋門、なまこ壁、土塀や、鍵曲(かいまがり)など江戸時代の城下町の風情が色濃く残っています。こちらが見て周ることのできたそのごく一部を以下に紹介しておきます。 

 
  〔天樹院〕 利家の墓所の一つで、萩藩を創設した毛利輝元の墓所。毛利元就の長男隆元の子である毛利輝元と輝元の妻、殉死した家臣長井治郎左衛門の墓石がある。明治2(1869)年に廃寺となって現在は墓所だけが残っている。

 
 
天樹院入口

 
天樹院墓地(写真提供:萩市)

 
  〔口羽家〕 永代家老に次ぐ家柄とされる口羽家の住宅。萩に残る上級武士の屋敷としては古く、かつ全国的にもあまり遺例のない貴重な武家屋敷とされており、主屋と表門が国の重要文化財に指定されている。 表門は、入母屋造り本瓦葺きで白壁となまこ壁のコントラストが美しく、萩城下で最も雄大な規模を有する長屋門だという。 

 
  〔堀内鍵曲 かいまがり 藩の重臣が住んでいた萩市堀内近辺には、直角に折れ曲がった道が多い。これは道を鍵手型にして直進できないようにした城下町特有の道路で、外敵の侵入や攻撃に備えるためのものである。さらに左右とも土塀を高くして、見通しがきかないようにしてある。

 
 
   
口羽家長屋門

 
堀内鍵曲

 


   〔旧児玉家〕 児玉家は、二千石余の高禄をもつ家柄で、毛利一門や上級武士が暮らした堀内地区の平安古(ひやこ)の総門にほど近い場所に、広い敷地を有していたという。現存するなまこ壁の長屋門は、桁行32m余、梁間5m弱の桟瓦葺き入母屋造りで、出入口付近には出格子窓も設けてあり 、白壁になまこ壁の腰壁が見事な長屋門。

 
   
旧児玉家長屋門(外側)

 
旧児玉家門内長屋(内側)

 
  〔旧祖式家長屋〕 祖式家は石高は670石余の家柄という。堀内の蔵田町筋と横町筋の角に所在し、西側は入母屋造、東側は切妻造である。石垣の形状からするともとはさらに東側に延びていたらしいという。

 
 
  〔旧二ノ宮家〕 二宮家は毛利元就の子孫にあたる900石弱の禄高をもつ家柄であったという。二宮家長屋門は、本瓦葺き入母屋造りで、桁行8間、梁間2間。中央から左寄りに2間半幅の門をあけ、右手片潜門の西側には4畳2間の門番所を置き、表と門の内側に向かって出格子の窓を設けている。

 
 
   
旧祖式家長屋


 
旧児玉家門内長屋


 
  〔藍場川〕 萩市南方の山中から日本海に向って流れてくる阿武川が、萩市街の南側で橋本川と松本川とに分岐する三角州の突端(川島)を起点に、三角州内の市街地を2.6kmにわたってジグザグに流れる藍場川は、もともと農業用水、家庭用水や防火用水として利用されていた人工の用水路である。最初享保2年(1717)に造られ、元文4年(1739)に新堀川まで延長された。その後、延亨元年(1744)に川舟が通行できるように拡張、整備され、米や薪炭などの物資の運搬などにも利用されるようになったのだという。
 当初、大溝と呼ばれていたが、後にこの下流の川端に藩営の染色用の藍場ができて川が藍色に染まったりしたため、いつの間にか藍場川と呼ばれるようになったのだという。大きな鯉がゆったりと泳いでいるこの川沿いには、今でもハトバと呼ばれる洗い場や川舟が通りやすいように中央を高くした石橋など昔の面影を偲ばせるものがあれこれ残っていて、かつての城下町の生活の情緒を伝えており、この辺りは歴史的景観保存地区に指定されている。

 
 
  〔桂太郎旧宅〕 明治維新後、台湾総督や陸軍大臣を務めた後、3回にわたって内閣総理大臣を歴任した桂太郎の旧宅。桂太郎は、萩藩士桂與一右衛門の長男として、萩城下平安古に生まれ、3歳の時にこの地、川島に移り住んだという。この旧宅は、明治42年(1909)に新築された数寄屋風の家で、主屋は派手さを抑え、規模も比較的小さなもので、藍場川沿いの生活を穏やかに楽しむために造られたものという。藍場川の水を引き込んだ流水式池泉庭園内には桂太郎公銅像が建っている。


 
 
   
藍場川の鯉

 
桂太郎旧宅

 
  〔旧湯川家屋敷〕 萩市観光課発行のパンフレットにあった説明を引用しておきます。

 旧湯川家屋敷は、藍場川の最上流に位置しています。川沿いに長屋門があり屋敷の中へは、橋を渡って入ります。
 主屋(おもや)には、玄関・座敷と茶室などがあります。茶室周りの意匠は特に優れています。
 またこの屋敷では、藍場川の水を屋敷内に引き入れて流水式庭園を造り、池を出た水は家の中に作られた
「ハトバ」で家庭用水として使われた後、再び藍場川に戻っていきます。 (中略)
 このように旧湯川家屋敷では、藍場川沿いの民家として典型的な水の利用法を見ることができ、しかもその技
術が優秀です。藍場川の歴史を語る風景として非常に価値が高いといえます。
 湯川家の建物は、正確にはいつ建てられたのかわかっていませんが、湯川家の古文書の中に、明治3年
(187O)に建物を改築した記録が残っていますので、当初の建物は明治以前に建てられたものと考えられます。
 湯川家は禄高23石余の武士で、遅くとも明治の初めにはこの建物に居住していたものと思われます。

ハトバ
 簡単にいえば、「川沿いに階段を作って、水に近づけるようにしたところ」です。この湯川家屋敷のなかにも、
風呂場と台所の2ヵ所に作られています。道沿いにあったり、屋敷のなかにあったり、屋根があったりなかったり
とさまざまですが、藍場川沿いには、今もたくさん残っています。
 ①庭園
  川の水を庭に引き込んで、池を作っています。また、他の水がどこに流れているかに注目してください。
 ②台所のハトバ
  庭園から流れ出た水は、建物の下をくぐって、台所のハトバに出てきます。ここで野菜や茶碗を洗った水はま
  た藍場川に還っていきます。
 ③風呂場のハトバ
  ここの風呂場のハトバは、外から見ると三角形のでっぱりがつき出ていて、雨の日でも濡れずにお風呂の水
  を汲むことができます



 
   
旧湯川家屋敷入口(パンフ写真)

 
旧湯川家屋敷(南側)

 
   
旧湯川家屋敷台所のハトバ

 
旧湯川家屋敷庭園の池

 
  〔旧萩駅舎〕 「維新の里 萩」の南の玄関口にあたる、白く美しい外観が目を引くレトロな萩駅舎は大正14年に建てられたもの。ドーマー窓(洋風の民家の屋根に見られる小窓)を有する、白壁に柱や梁が露出するハーフティンバー構造の駅舎で、代表的な洋館駅の傑作とされている。現在の駅舎は平成10年に当時の姿に復元・補強したもので、萩市の登録有形文化財となっている。駅舎内は、萩市「自然と歴史の展示館」として公開され、日本の「鉄道の父」といわれる萩市出身の井上勝に関する資料なども展示されている。

 駅舎玄関前脇にある大きな電話ボックスは、大正末期から昭和初期に設置された日本で2番目の型式のものを写真を元にして復元したもので、現在この型式の電話ボックスは日本で唯一のものだという。

 
 
   
萩駅舎

 
電話BOX


 
  〔大照院〕 「萩市 ポータルサイト」(萩市役所観光課運営)の説明を引用しておきます。

  霊椿山大照院は臨済宗の寺院で、荒廃していたものを、2代藩主綱広が亡父の初代藩主秀就の菩提所とするために承応3年(1654)から明暦2年(1656)にかけて再建した。寺伝によると、前身は天台宗の月輪山観音寺で、桓武天皇の勅願寺であった。隣接する大照院墓所は国指定の史跡で、秀就以下2代から12代までの偶数代の藩主と夫人及び一族と秀就に殉死した7藩士の墓石があり、墓前には藩士が寄進した石灯籠が600数基ある。
 当寺は延享4年(1747)の火災で焼失したが、現在の本堂、庫裏、鐘楼門は6代藩主宗広が寛延3年(1750)に再建したもので、特に庫裏は藩主の菩提寺にふさわしい規模と風格を備えており、県の文化財に指定されている。寺宝類も多く、国の重要文化財の木造赤童子立像、県の有形文化財の木造義翁和尚倚像などがある。


 
   
大照院鐘楼門(内側) (国重文)

 
庫裏(国重文)

 
 
偶数代藩主墓所

 
偶数代藩主墓所

 


  〔景清洞〕 景清洞がある美東(みとう)町の観光課発行のパンフレット「秋吉台 リフレッシュパーク」にあった説明を引用しておきます。

  天然記念物 景清洞(かげきよどう)   三億年のタイムトンネル。学術的化石の宝庫

壇の浦の戦いに敗れた平家の武将・平景清が潜んでいたと伝わる洞窟で、洞内には目の神様を祭った生目八幡をはじめ、景清のどん張・景清明神・兜かけなど景清にちなんだものが多数あります。また、天井や壁は芸術品のように素晴しく、フズリナ・サンゴ・海藻などの化石のほか小さな生物も見ることができ、カルスト台地誕生の神秘を探る学術の宝庫としても知られています。 


  ※ 景清洞には一般の観光コースとは別に闇の生物、化石を探す探検コース(所要時間:約1時間。
    別料金)もある。

    美東町には景清洞の他、今回見学しなかった「大正洞」「サファリランド」「景清洞トロン温泉」など
    もある。

 
 
   
景清洞入口付近

 
景清洞出口付近

 
  〔秋吉台〕 最初に美東町観光課発行パンフレット「秋吉台 リフレッシュパーク」にあった説明を引用します。
  
  国定公園  特別天然記念物  秋吉台

  日本最大のカルスト景観地秋吉台は、今から2~3億年もの昔海底に堆積した生物の遺体からできたものです。台上には長者ヶ森と呼ばれる原生林をはじめカレンフェルト
※1を代表する地獄台、ドリーネポンド※2として特異な帰り水などが散在し、石灰柱群が露出する広大な緑の草原には四季折々に詩情あふれる情景が見られます。(以下略)

 次に秋芳洞のある秋芳町観光課発行パンフレット「秋吉台 秋芳洞」にあった説明も引用しておきます。

 
 秋吉台は日本最大のカルスト台地で国定公園(面積4,502ヘクタール)及び特別天然記念物(面積1,384ヘクタール)の指定を受けています。秋吉台の雄大な景観は、石灰石の岩肌が露出するラピエ〔石灰岩の柱〕、月のクレ-ターのような凹地のドリーネやウパーレ※3、ポリエ※4などがあり、異国的な雰囲気をかもし出しています。
  秋吉台を造っている石灰岩は、3億年の昔、海の中でサンゴ礁として生まれました。この石灰岩は雨水に溶けるという性質があり、独特のカルスト地形をつくりました。石灰岩の表面の複雑にからみあう模様は、心揺れる美しさをかくしています。

自然用語アラカルト〕

カルスト
 石灰石は水に溶けやすいため、石灰岩地には特有の溶食地形が見られます。これをカルスト地形と呼んでいます。カルストという語は旧ユーゴスラビアの有名な石灰岩地の地名です。

石灰岩柱(ラピエ)
 カルスト台地には石灰岩の柱がたくさんみられます。この柱をラピエと呼んでいます。ラピエの近くに行き、その表面をみると多くの溝が上から下へとみられるものや、波状に凸凹になっていることに気づきます。これは石灰岩が雨水にとかされることを物語っています。

ドリーネ
 カルスト台地の上に降った雨は岩の割れ目をったわって地下に流れ込みます。水は石灰石を溶かすので、そこにはドリーネと呼ばれる凹地ができます。秋吉台はドリ一ネの密度が高いことで世界一と云われています。

洞窟性動物
洞窟には暗黒の世界に適応した動物がたくさん見られます。 そのほとんどは体は白く、目が退化しています。秋芳洞には、シコクヨコエビ、アキヨシシロアヤトビムシ、アキヨシホラズミカニムシなど、この地方の洞窟固有の動物がたくさんいます。

ユビナガコウモリ
秋吉台の地下には430に及ぶ洞窟があり、洞窟性コウモリの宝庫です。ユビナガコウモリ等6種15.000頭のコウモリが生息しています。

カレンフェルトの用語解説 - 石灰岩の節理や断層に沿って溶食が進んで溝が刻まれ、岩柱が林立している地形。墓石地形。〔デジタル大辞泉〕

※1 カレンフェルト  〔渡辺 裕氏「地学百景」の説明・写真を引用させていただきました。〕

  カルスト地形とは、石灰岩が雨水や地下水などで浸食されたことによってできる特有の地形です。地上では写真のようにところどころに羊のような石灰岩のかたまりが見られます。このような原野をカレンフェルトといいます。この石灰岩の表面は雨水によって溶食されて縦に筋が入っています。また、フズリナ・サンゴ・ウミユリ・腕足貝の化石を含むものもあります。秋吉台は日本一のカルスト台地で、古生代の石炭紀から二畳紀あたりの珊瑚礁が隆起してできたものです。台地には科学博物館と自然研究路がもうけられており、それぞれの見所には質問が書いてあるプレートが設置されていて、観察・学習に便利になっています。



 
 
   
カレンフェルト  写真提供:渡辺 裕氏「地学百景」

 
  ※2 ドリーネポンド
  雨が降ると雨水は凹地にある穴(=ポノール)へと吸い込まれてゆくが、ポノールを持たないドリーネの一部は学術的にドリーネポンドと呼ばれる池になるという。 

※3
 ウパーレ  
 ウバーレ
は多数の小さな互いに独立したドリーネが1つの陥没穴として結合して生じるたカルスト地形のこと。 規模の大きなものは面積数平方キロメートル、深さは約200メートルにまでなるという

※4 ポリエ

  溶食によってウバーレからさらに大きくなった盆地の底に地下水面が現れ、広い沖積平野が生じた地形をポリエ(=容食盆地)といい、カルスト地形のうち、通常面積が5~ 400km2となるような大型の平坦な地形のことだという。

 
  ※2 ドリーネポンド
  雨が降ると雨水は凹地にある穴(=ポノール)へと吸い込まれてゆくが、ポノールを持たないドリーネの一部は学術的にドリーネポンドと呼ばれる池になるという。 

※3
 ウパーレ  
 ウバーレ
は多数の小さな互いに独立したドリーネが1つの陥没穴として結合して生じるたカルスト地形のこと。 規模の大きなものは面積数平方キロメートル、深さは約200メートルにまでなるという

※4 ポリエ

  溶食によってウバーレからさらに大きくなった盆地の底に地下水面が現れ、広い沖積平野が生じた地形をポリエ(=容食盆地)といい、カルスト地形のうち、通常面積が5~ 400km2となるような大型の平坦な地形のことだという。
 
 
  〔秋吉台展望台〕

大パノラマをひとりじめカルスト展望台
 秋吉台科学博物館の西、秋吉台バス停から徒歩3分の所にあるカルスト展望台。2階の展望部は円形となり、360度の大パノラマを堪能できる。車椅子用のスロープも整備し、障害者の方にも利用できるようになっています。
 
 
   
秋吉台展望

 
秋吉台展望

 
   


 


 
  〔国民宿舎 若竹山荘〕 こちらも前夜の萩の国民宿舎の場合と同様午後三時過ぎ頃に、どうせあいていないだろうなと思いながらだめでもともとと電話をしたところ、ここ数日天候が悪かったせいだったのだろうか、思いがけずOKという。ここはずっと昔、友人と泊まったことがあったので、建物は古いが、眺めがいいのと安いのだけは承知していたので、大喜びしたのだった。

 多くの国民宿舎がそうであったように、建物が古くなってしまうと国定公園の中にあったりする関係で建て替えが簡単にできなかったり、利潤第一に押され、役所の援助もなく利益を上げられずに廃業するしかなかったのだろうか、この宿も萩と同様、現在は存在していないようだ。
 手軽に、安く泊まれる公共の宿が利益優先の風潮の嵐の中でどんどんなくなっていくのが寂しい限りである。

 
 


〔第9日〕 7月19日(水)

地域・場所 ルート・観光・見学箇所等 読み方  着時刻 発時刻
(通過
)
メーター 説 明 ・ 案 内 等
秋吉台 国民宿舎 若竹山荘     8.25 1293.4  
  秋芳洞   8.31 10.10 1297.3  
   …K242…R435…R9…          
山 口 瑠璃光寺   10.45 11.25 1323.7  
  山口ザビエル記念聖堂   11.35 11.45 1325.0  
  常栄寺(雪舟庭園)   11.53 12.45 1329.9  
   …R262…          
防 府 周防国分寺 すおう 13.15 14.08 1349.8  
  防府天満宮 ほうふ 14.13 14.40 1350.9  
  毛利家庭園   14.45 15.23 1352.2  
  防府東IC     15.35    
    …山陽道…          
  下松SA   16.00 16.20 1394.2  
    …山陽道…           
  岩国IC      16.54  1427.6   
    …R2…            
岩 国 ホテルα1岩国(泊)   17.05   1436.2  
            (142.8)
             


  〔秋芳洞〕 これも秋芳町観光課発行パンフレット「秋吉台 秋芳洞」にあった説明です。

 秋吉台の地下100m、その南麓に開口する東洋屈指の大鍾乳洞 「秋芳洞(あきよしどう)」 は、大正15年昭和天皇が皇大子の御時、本洞を御探勝になり、この名前を賜わったものです。
 ひんやりた肌をさす冷気漂う杉木立を通り抜けると、秋芳洞入口です。洞内からの水は三段の滝となり、飛沫を舞い上げながらコバルトブルーの川面へと流れ落ちています。洞内の観光コースは約1km(総延長10km)温度は四季を通じて17(Cで一定し、夏涼しく冬は温かく、快適に探勝できます。
 時間が凍結したような不思議な自然の造形の数々は変化に富み、私たちの心に大きな感動を呼び起こさせてくれます。


  洞内には次のような「名所」とされるものがある。
  青天井  長渕  百枚皿  広庭(洞内富士)  傘づくし  千畳敷  黄金柱  岩窟王  五月雨御殿

  また、一般観光コースの他、別料金の必要な冒険コース、未公開洞窟探検コースなどもある。

 
 
   
秋芳洞入口付近

 
秋芳洞出口付近

 
   
百枚皿

 
黄金柱

 
 
岩窟王


   
(財)山口観光コンベンション協会発行「山口市観光案内図」の東部半分


 
  〔山 口〕 (財)山口観光コンベンション協会発行「やまぐち観光案内」というパンフレットに載っていた説明を引用・紹介しておきます。

山口小史
西の京と謳われた大内氏時代の山□
 山□は、中世に文化の粋を集め「西の京」と謳われた街。南北朝時代中頃の一三六〇年、中国地方の豪族で守護職の大内氏の24代・弘世が居館を山□に移し、京都に模した街造りをして大いに栄えた。大内氏の歴代当主は文武兼備の勇将名将が続き、約二百年間大陸文化渡来の門戸として、貿易で莫大な富と権力を貯えて、中世戦国時代の雄として君臨。特に30代大内義興の頃は、将軍足利義稙を補佐し十一年間幕政を左右する西国一の大大名であった。応仁の乱で疲弊した京を逃れて、多くの公卿文人たちが来山し、大内文化はますます栄え、その遺薫は街中の随所に今なお漂う。
 31代義隆の頃には七州の守護大名として栄華はその極に達するが、一五五一年武断派の重臣・陶晴賢の謀反に依り、義隆は長門の大寧寺に敗走自刃。大内氏の正統は断絶する。以後山□の街は、幕末に討幕活動の拠点として毛利毛利敬親公が藩庁を山□に移すまで、静かに息をひそめる。

幕末、討幕運動の拠点としての山□
 大内氏滅亡後、広島の毛利元就は下剋上の将・陶晴賢を討ち、大内氏に執って代る大大名となるが、元就の嫡男・毛利輝元の時、関ヶ原の戦いで反徳川の旗を掲げた為、家康によって旧領八力国、百二十一万石を没収され、周防・長門の防長二州三十六万石となり萩へ封じ込められた。以来討幕維新までの約二百七十年間、長い試練の藩政時代のトンネルに入いっていく。
 嘉永六年(一八五三)ペリー来航により泰平の夢が破られ、新しい時代の創建に向け日本中が激動する。長州藩に於ては、吉田松陰をはじめその門下生たちが維新の志士たちとして活躍。文久三年(一八六三)藩主・毛利敬親は幕命を無視して山□に藩庁を移す。山□は俄然一新し防長政治の中心地、否、新日本建設の策源地として明治維新(一八六八)を達成させる、華やかにして激動の時代の脚光を浴びることになる。
 山口市は全国で一番人□の少ない県庁所在地だが、今なお歴史を色濃く残す美しい街である。

 
 
  〔瑠璃光寺〕 瑠璃光寺発行のパンフレットにあった説明・イラストを引用・紹介しておきます。

山口 曹洞宗 保寧山 
瑠璃光寺(るりこうじ)

1、本山…福井の永平寺と横浜鶴見の総持寺。
2、本尊…薬師如来(瑠璃光如来とも言う)。
3、誰の菩提寺か…陶(すえ)六代弘房の菩提寺。  \
    陶弘房は(大内氏第一の重臣)応仁2年(1468)、応仁の乱で京都の相国寺で戦死したの で、その夫人
   「妙栄大姉」が夫の菩提を弔うため弘房念持彿の薬師如来をもって本尊として 山口の奥地仁保に文明3年
   (1471)瑠璃光寺を建立。

4、瑠璃光寺沿革
 
    開山は石屋門派の知識大庵須益大和尚、中国三山の一つといわれ、江戸末期まで、僧禄 司(そうろくす
    )の要職を務め、常恒会16ヶ寺の中に入る格式を与えられていた。
    1586年(天正14年)毛利元就次男吉川元春(岩国城主)が小倉で逝去した時、瑠璃光寺11代華翁和尚
   が、その導師となり寺を霊牌所とし「随浪院殿海翁正恵大居土」の法号により、海翁寺とした。当時300余
   の末寺があった為、のち藩の了承を得、瑠璃光寺に復号した。寺紋は吉川氏の意向により定紋九曜紋に
   改められた。九州に於ける布教活動は3世から始まり、特に15世中華桂法大和尚は、島原の乱後、幕府
   の承認を得、東向寺を建て、天草全土を布教したといわれている。
   現在、末寺県内22力寺、県外11力寺あります。 

5、国宝瑠璃光寺の五重塔

   ここには、25代大内義弘が応永2年(1395)に建てた香積寺(こうしゃくじ)があった。義弘が応永の乱にお
   いて泉州境(せんしゅうさかい)で戦死したので、弟の盛見(もりはる)がその霊を弔うため五重塔を建立。
   完成は嘉吉2年(1442)で、塔の高さは31.2m。屋根は檜皮葺で、各層とも軒の出が深く屋根の勾配はゆ
   るやかで、形状の優美なことで有名。一層内にある須弥壇はケヤキ作りで円形をなし他にはない。 1992年
   (平成4年)が建立550年に当り記念して石塔を寺境内に建立。
    大内氏が亡びて毛利氏が領することとなり、後、毛利輝元、関ケ原の戦い(慶長5年=1600)で敗れて
   防長二州に封じられ、居城を萩とした時、この地にあった香積寺を萩に移し洞春寺とした。
    この時、五重塔も解体されそうになったので山口町民が奉行所に嘆願書を提出、奉行所がこれを了承し
   てくれたお蔭で塔は残されることになった。その嘆願書の写しは瑠璃光寺資料館に展示されている。その
   後、元禄3年(1690)瑠璃光寺が仁保の地から香積寺の跡地に移ってきたのである。


   その間84年間塔は田圃の中にぽつねんと立っていたのである。萬治4年(1661)に老朽激しい塔の大修理
   をしている。しかし瑠璃光寺がここに移ってからは寺の管理のもとにその偉容は今日まで保たれてきたの
   である。  

6、瑠璃光寺資料館(山門左側)
    全国の五重塔を写真パネルで説明し模型と寺宝が展示してある。

   本堂並びに境内には次のようなものがまつられており信仰を集めている。


 ◎ 賓頭盧尊者(びんずるそんじゃ)=なで佛(本堂入口右側)
    この佛様は、自分の体の悪い所と同じ所を撫でると病気が治るという佛。

  -畑薬師山口分院…本山は出雲の一畑寺(本堂正面右側)
    眼病の仏様として信仰されている。毎月8日の縁日にはお参りが多い。

  金毘羅様(本堂右側の参道を登ったところ)
    薬師如来の眷属に十二神将という仏法をお護りする神様がおられる。その筆頭に梵語でクンビーラという
    神様がおられる。クンビーラは鰐の化身で、鰐は水に住むということから水難・海難を避け大内時代より
    四国金毘羅様の分院としてまつられ航海安全・交通安全の神様として信仰されている。

  長寿薬師如来(本堂右)・慈母観音(山門内)

  身代わり地蔵…(本堂正面・階段昇り口左側)           十
    悪い因縁・病気・縁談・不幸等に対して御身体を三つに切って身代りになって下さるというお地蔵様。

  佛足石 
    お釈迦様は今からおよそ2、500年位昔のお方で、西暦二世紀頃お釈迦様の像(仏像)が出来て、これを
    拝むようになるまではお釈迦様のお墓である塔や仏足石などが礼拝の対象物であった。

  県下―大きいすりこ木と杓子…(本堂正面左右)
    佛様は我が身をすり減らしても、お救い下さるということからすりこ本と杓子が置かれている。これは信者
    が平素のご加護を感謝して納めたもの。
       
  知足の蹲い(ちそくのつくぱい)手水鉢 〔ちょうずばち〕)・‥(本堂正面左側) 
     蹲い(手水鉢)の四方の字と真中の口とを結んで字を考えると吾唯足知※(われ ただ たるを しる)
     となります。この言葉はお経の中にある言葉で、今の自分はこれ以上我欲を求めてはいけないという
     意味。

     
※私はただ満足することだけを知っている=どんな状況にも満足し、不平不満は言わない。
       江戸時代の封建道徳「知足安分(ちそくあんぶん)」=足るを知って分(身分・分際)に安んずる。どんな
       境遇でも自分の境遇を満足なものと思い、自分の身分・分際に安んじる意」とほぼ同じ。
        物欲にとらわれないという仏教の大切な基本理念だが、支配者が被支配者を絶対服従させる道具
       にもなる考え方。


 
     

     上=吾  右=唯  左=知  下=足

  知足の蹲い

  ※京都銀閣寺方丈の壷庭にも同類のものがある。
    真中の四角い所に水を溜める。


 
   
瑠璃光寺五重塔
 
瑠璃光寺五重塔

 
  〔山口ザビエル記念聖堂〕 (財)山口観光コンベンション協会発行「やまぐち観光案内」というパンフレットに載っていた説明を引用・紹介しておきます。

  ▲ザビエル記念聖堂
 街の中央に亀に似た小高い丘があり、亀山という。頂上は公園になっており市街の展望が美しい。丘の中腹にザビエル記念聖堂がある。聖堂は、日本へ最初に渡ったキリスト教布教師フランシスコ・ザビエルの偉業を記念して建てられた教会。[布教の寺跡(市内・金古曽)にも記念碑が建てられている。]亀山公園のー角には、小・中学校時代を山□で過ごした国木田独歩の「山林に自由存す」の碑も見える。

 
   
ザビエル記念聖堂

 
ザビエル像

 
  〔常栄寺(雪舟庭園)〕 常栄寺発行入場券の裏面にあった説明図等を引用・紹介します。

 臨済宗 常栄寺 (雪舟庭)
 この庭園は凡そ五百年前、大内政弘が別荘として画聖雪舟に依頼して築庭させたものであります。後政弘は母の菩提を弔うために寺となし、妙喜寺と称しておりましたが、毛利氏の時代に隆元の法名により常栄寺と改称しました。雪舟禅師といえば幼いとき涙で鼠を描いた逸話で有名ですが、後年中国に遊学して画聖と称せられるまでに大成しました。さてこの庭は大内政弘の請に応じて、その禅的教養と絵画的神技とをもって作られた日本庭園の代表作にて大正15年に国より史跡並びに名勝に指定されました。

 この庭園は平面の部分を内庭と呼び、中央に心字池を設け、四仙島を浮べ、北隅に十数米の飛瀑をもって竜門の滝を現わし、下に鯉魚石をおいて水分けとし、前に一尊仏をおいて仏岩と称しています。その左方には洗耳渓、十六羅漢の石組、坐禅石とつづいています。本堂のすぐ前面は中国の大陸を象徴したと云われ、三山五嶽を配し、富士山を以って日本を表しております。内庭全面は最初より芝生で覆い、一木をも用いず、わずかに、さつき、つつじを植込んで、山林雲煙を表現しています。石はいずれもするどい線のあるのを堅に使っているのが特徴で、あたかも彼の山水画を観る思いがするのであります。

 周囲の高地は外庭と呼ばれ、中国崇山の三十六峯に擬して名づけてあります。林の中に妙喜寺の開基、政弘の母堂の墓、雪舟の筆塚があります。本堂には雪舟画並びに寺宝が展観されて居り、有名な一本溝の建具も復元されていますからご覧下さい。

 玄関並びに書院は旧野田御殿の一部にして、明治天皇が御宿泊なされたものを移築したものです。
 次に本堂南面には重森三玲師作昭和の新石庭、南潤庭があります。七五三の石組、上杉苔を以って覆われた新しい感覚の海岸線、白川砂にて大海をあらわし、涯しなく永遠へと連なる仏国土、輝やく理想の世界を象徴する南溟、雪舟はこの南溟を踏破して終に画聖と称せられたのではないでしょうか。坐って静かに御覧下さい。                    
 尚山門を入ったすぐの円月庭の中に筆塚が立ちました。これは誰でも自分の使用済の筆を納めて、感謝の意をあらわし且つ技芸の向上を祈るもので毎年五月三日筆
つりが行なわれます。

  
 
   


 


 
   
常栄寺僧堂

 
雪舟庭園

 
   〔雪 舟〕  (社)山口県観光連盟・山口県観光交流課発行 「雪舟 SESSHU  謎めいた逸脱の画聖」(おいでませ山口へ)というパンフレットにあった説明の一部も紹介しておきます。

謎めいた逸脱の画聖

日本人なら誰しも知っている画聖、雪舟。心の動きに正直なダイナミックな筆の運び、ほとばしるスピード感、前代未聞の鮮やかな原色使い、こうした当時の水墨画の常識をはるかに逸脱した傍若無人ぶりこそ、雪舟の本質といわれています。しかしその生涯は謎に包まれています。果たして雪舟とはどんな人物だったのでしょう? 雪舟ゆかりの地を巡り、その謎を探ってみませんか?

  
として、以下のような所が紹介されている。
     1 常栄寺雪舟庭  2 普賢寺庭園   3 通化寺庭園   4 常徳寺庭園
     5 大寧寺庭園     6  妙青寺庭園
     A 雲谷庵       B 毛利博物館   C 吉川資料館   D 菊屋家住宅
     E 山口県立山口博物館   F 瑠璃光寺資料館   G 熊谷美術館 

常栄寺雪舟庭   山水画さながらの世界。 山口の伝・雪舟庭を巡る。
室町時代中頃、大内29代政弘が雪舟に築庭させたといわれる。政弘の別荘の庭として造られたが、後に妙喜寺という寺になり、さらに毛利隆元の法名により常栄寺と改称した。本堂の北側に広がる庭園は、水と石に主体が置かれた枯山水。東西北の三方を山林に囲まれ、北側に滝、中央には無染池(心字池)を設け、その周囲には立石を豊かに配している。富士山や中国大陸の三山五嶽になぞらえた石組みなど、広大なイメージが無数の石で表現されており、雪舟の水墨画を思わせる。秋は紅葉、冬は雪化粧と、四季折々の風情ある景観が楽しめる。     

雲谷庵  数々の傑作を生み出した雪舟の旧居兼アトリエ
明(中国)から帰国した雪舟は、諸国を旅し、山口の雲谷庵に移り住んだ。雪舟はここから瑠璃光寺の五重塔を眺めながら、日々創作活動に励んだといわれている。庭を掃き、花を生け、水をくみ、香をたいて、座禅を組む。絵を描く前には、少し酒を飲み、尺八をしばらく吹き、詩歌を吟じて、気分がもりあがったところで墨をすり、筆をもって紙に向かう。そんな風にして「山水長巻」を代表とする数々の名作が生み出されたといわれている。現存する建物は明治時代に再建されたもの。


 
 
     
  〔周防国分寺〕(すおう)    国分寺発行のパンフレットにあった説明を引用・紹介しておきます。

  聖武天皇勅願所  
   周防 國分寺

 周防国分寺は、多数の文化財を保存した極めて歴史的価値の高い古刹である。北に多々良山を負い、南には防府市街をとおして三田尻湾を望む景勝の地にそびえ立つ大伽藍は、創建当初の地にあり、国分寺の堂塔の偉容をあらわしている。
 当時は、金光明四天王護国之寺又は金光明寺など、いろいろな寺号があったが、後に浄瑠璃山国分寺と称せられるようになった。奈良時代の天平十三年(七四一)聖武天皇の勅願によって、国家の鎮護と国民の景福を祈願するために国ごとに建立された由緒ある官寺の一つである。本寺が創建された奈良時代は、わが国律令政治の栄えた時で、国分寺は宗教によって国家を統治する勅願所で、皇室との因縁が特別に深く、往昔の規模が壮大であったことは、その寺域の面積が六十一町歩余りにまたがり、七堂伽藍と二十五ヶ寺の塔頭と末寺を擁していたことでもうかがえる。後世、寺領の減少や維新後の寺院制度の変革等により、その規模は縮小され、現在では往時の遺構遺跡と建造物の一部を残すのみになったが、今なお仁王門をくぐると荘重な大金堂がある。ここには多数の国宝的仏像が安置されており、他の歴史的文化財と共に宗教上、学術上の一大宝庫をなしており、旧態を現存することにおいては、全国国分寺中極めて稀である。本尊は創建当初丈六の釈迦如来であったが、奈良時代の終わり頃から平安初期には薬師如来に替わっている。
 寺格は現在高野山真言宗に属する別格本山である。

 本寺がこうして旧格を維持し、歴史の各時代にまたがる豊富な霊仏至宝を保存してきたことは、実に聖武天皇の聖徳と歴代天皇の信仰の賜であり、また周防国府の力や大内氏、毛利氏の歴代国主の崇仏保護が非常に厚かったからである。
 多数ある寺宝の中で後奈良天皇宸筆般若心経及び金堂、並びに堂内の薬師如来、日光・月光菩薩立像、四天王立像及び持仏堂内の阿弥陀如来坐像など、八躯が国の重要文化財に指定され、国分寺旧境内は史跡に指定されている。


 
  伽藍と遺跡

仁王門
 重層入母屋造、建坪二十六坪の堂々たる楼門である。往昔のものは、応永二十四年焼失したので、文亀二年大内義興が復営した。現在のものは慶長元年毛利輝元が建立し、ついで明和四年毛利重就が修築した。門の左右には仁王像を、また楼上には十六羅漢を安置している。 (山口県文化財)

金 堂
 荘重な二層入母屋造の仏殿で建坪百拾六坪余、堂内の須弥壇は桃山時代のものと伝えられている。往古のものは応永二十四年焼失したので応永二十八年大内盛見が再建した。現存の仏殿は安永八年(一七七九)毛利重就の建立したものである。
 内陣には大小五十余躯の仏像が安置されて丁度古美術館の観がある。須弥壇上中央には丈六の薬師如来が本尊として安置され、そして日光菩薩、月光菩薩の立像が両脇侍として控え、その前に十二神将が護持し、壇の四方には四天王四躯が守護の座についている。この外堂内の左右並びに後堂には阿弥陀如来立像をはじめ多数の仏像が処せましと安置され荘厳この上もない。(重要文化財)

聖天堂 しょうてんどう
 堂内の秘仏聖天像は、商売繁昌・開運・夫婦和合・良縁など現世におけるあらゆる願望に応え、悩みを救ってくれる神として、遠近よりの参詣者が多い。

持仏堂
 半丈六の阿弥陀如来坐像をはじめ聖武天皇像及び行基菩薩像が安置されている。現存のものは宝永二年毛利吉広が建立したものである。

中 門
 この中門は桃山時代の建造物と伝えられ、創建当初のものは礎石だけが残っている。

築 地 ついじ
 元禄十四年毛利吉広の修築したもので、仁王門より東方二十八間半、西方五十三間の間に残る古雅重厚な白塗土塀である。

水鑑(みずかがみ)の井戸
 延喜元年(九。一)菅原道真が、昌泰の変によって太宰府に左遷される道すがら勝間の浦について当時に参詣の際その姿を水に写し、自画像を書かれたという伝説のある古井戸である。自画像は、天満宮の御神幸の時に本堂内にて奉拝することができる。

塔 跡 金堂の東南方に位し、昭和二十八年十月発掘された。

南門跡 仁王門の南側に位し、昭和二十九年一月発掘された。

中門跡 金堂の南方仁王門の北側に位し、昭和二十九年五月発掘された。

主な仏像と文書

本尊薬師如来坐像(在金堂)
 国分寺の本尊は、創建当初釈迦如来であったが、奈良時代の終わり頃から平安初期に薬師如来に替わっている。周防国分寺も創建当初は釈迦如来であったが、国分寺の国家鎮護と、八々の慶福を祈願するという趣旨から、早い時期に薬師如来に替わっている。しかし、室町時代(一四一七)の火災で焼失している。現在の薬師は室町時代(一四二一)に大内盛見によって造られたものである。また、一四一七年の火災のときに時の住職仙秀宝憲が薬師如来の仏手を持ち出し、現在の本尊の胎内に収めたと寺伝で言い伝えられてきたが、平成九年の金堂の解体修理の為の仏像移動で、胎内から出てきた。その他に、薬壷の中に、五穀・丁子・菖蒲根・朝鮮八参など十七種類の薬と、五輪塔が収めてあった。
 坐高二一八センチ檜材寄木造り (重要文化財)

日光菩薩立像 月光菩薩立像二躯(在金堂)
 金堂本尊薬師如来の両脇侍として安置された左右同形の菩薩像である。像高一・八二m(六尺) 一木造であるが太造りではなく、相貌温和腰が高くそれ以下が長く、伸々とした崇高な美しさである。藤原時代の初期のものと見られ同仏像中では全国稀有の優秀作といわれている。  (重要文化財)

四天王立像 四躯(在金堂)
  金堂須弥壇の四隅に安置してある四天王で、東に持国天、南に増長天、西に広目天、北に多聞天が位置し、それぞれ剣・鈷・三鈷・宝塔を捧持している。それは釈迦説法の座を守護することを表している。そのため、いずれの四天王も甲冑で身を固め、足下に邪鬼を踏みつけている。仏教を信仰すると四天王が、国を鎮護し、知恵を与え、財を授けると言われている。像高約二・十二メートル(七尺)どれも一木造りで藤原時代初期の優れた作といわれている。(重要文化財) 

阿弥陀如来坐像 一躯(在持仏堂)
 
持仏堂に安置してある半丈六の桧材寄木造、漆箔、彫眼の仏像で、上品下生の印を結んだ姿である。衆生済度にふさわしい伏目勝な慈相、肩の張りのなだらかさ、衣文線流麗さは藤原時代美術の特色をよく表わし藤原中期の完好の作として推賞されている。(重要文化財)

    〔 以下、省略 〕


  
 
   

 

 

  〔防府天満宮〕  天満宮発行の「防府天満宮略記」というパンフレットにあった説明を引用・紹介しておきます。

  御祭神および由緒

 当社は菅原道真公を始め公の御祖先である天穂日命・武夷鳥命・野見宿禰の四柱が奉祀してあります。
 道真公は御父を是善公と申され御母は大伴氏で仁明天皇の承和十二年(八四五)乙丑六月二十五日京都の菅原院で御生誕。幼名を「阿呼」または「吉祥丸」と申され、後の人はその徳を敬慕して「菅公」と称え、古くから文教の祖神として広く敬仰されて参りました。
 菅公は幼少より文学に秀でられ、御年僅か五才の時庭前の梅花を見て
   美しや紅の色なる梅の花
      あこが顔にもつけたくぞある
と詠まれました。
 また十一才の時最初の詩 「月夜見梅花」 を作られ、十八才で文章生となり、二十三才で文章得業生に選ばれ、さらに二十六才で対策に及第せられ、三十三才で文章博士等、学識愈々高まり誠直な政見によって、時の帝の親任篤く次第に高位高官に昇り、遂に五十五才の時右大臣兼右近衛大将に任じられ当代随一の学徳をもって政務を担当されましたが、延喜元年正月二十五日(菅公五十七才の時)藤原氏の讒言により俄かに太宰権師に左遷せられ九州へ下向されることになり、同年二月紅梅殿の邸を発たれる時、
   東風吹かば匂ひおこせよ梅の花
     主なしとて 春な忘れそ
と庭前の梅花に別れを告げられたことは余りにも有名であります。
 西下の途中、時の周防の国司土師信貞は公と同族であったので船を当地勝間の浦におつけになり、暫く国司の館に御滞在になりました。公は酒垂山にお登りになり、山秀水麗の勝景を深く愛でられ、〝身は筑紫にて果つるとも、魂魄は必ず此の地に帰り来らん〟とお誓いになり、家宝の金の鮎を十二尾国司に託して淋しく旅立たれました。
 延喜三年(九〇三)二月二十五日、勝間の浦に神光が現れ、酒垂山に瑞雲が棚引き人々を驚かせました。国司は公の異変を感じ、直ちに使を九州に遣わして公の安否を伺わしめたところ、丁度その日が公の薨去の日とわかりました。そこで国司は早速館に公の御霊をお祀りし、翌延喜四年八月今の松崎の地に宝殿を建立して松崎の社と号しました。
 菅公をお祀りしたお社は日本全国津々浦々に至るまで約一万二千社もありますが、当社の創建をもって日本最古(「扶桑菅廟最初」)とし、北野天満宮(京都市)太宰府天満宮(太宰府市)と共に日本三天神と称せられております。

   
社  号
 「天満宮」「松崎天満宮」と称していたが、明治六年臣下を祀る神社の宮号禁止により、地名にちなんで松崎神社とした。昭和二十八年全国神社に魁けて宮号を復活することを許され再び防府天満宮と改称した。

   
社  殿
 延喜四年八月周防国司土師信貞が初めて祠を建立し松崎の社と号した。建久六年俊乗坊重源が国司となり東大寺落成の御礼として朱塗の本殿・廻廊・楼門を建立し、その後、鎌倉末期の元徳二年火災に罹り、正平十九年大内弘世が再建に着手、翌二十年に本殿、天授元年に拝殿を造営。同四年に大内義弘が楼門・廻廊を建立し、応永八年大内盛見が三重の塔婆及び鼓楼を寄進した。大永六年再度の火災にあったので享禄三年大内義隆が再建した。その後毛利隆元さらに修築を施し、寛政元年毛利重就またこれを造替したが、過る昭和二十七年三度目の火災に罹り、そのすべてを失ったが全国の敬神の人士の献資により一億余の巨費を以って造営せられた。

   
大専坊跡
 天満宮境内には、明治維新まで社坊九坊があり、一山の総号を酒垂山万福寺と称え、大専坊が別当で天満宮創建当時の草創といわれている。
 この坊は弘治三年毛利元就が大内義長を山口に攻め、これを長府で自刃せしめて防長両国を平定するまで元就の参謀本部となったところ、又尊皇譲夷で激動した幕末にはこの地方を警固する諸士の屯所となった史跡である。昭和六十三年に県の指定史跡となった。

   
春 風 楼
 春風楼(通称通夜堂)は往昔防長藩主毛利斎煕公が社頭に五重塔の建立を思い立ち、文政五年六月大専坊に於て地鎮供養の祈祷を修し釿始の儀を行ったが、同年七年二月を期しその資金調達中、天保二年不慮の支障に遭い一時中止の止むなきに至った。
 その後大専坊および氏子世話元締や崇敬者等の発起で塔の設計を変更して、現在の楼閣様式とし明治初年に完工した。
 この楼の床下の木組は文政年間(約一七〇年前)着工当初の塔の一層軒下に使用すべき組物をそのまま床下に組んだもので、当時の豪壮な面影を偲ぶに充分である。
 この楼から俯瞰する市の全景や瀬戸の風光は四時洵に絶佳で、春風楼の名のある所以である。

   
茶室 芳松庵
 御祭神菅原道真公は勅命を受けてお茶に関する故実を調査、研究して正史に著し宮廷貴族を始め庶民社会に喫茶の習慣を広められ、茶聖菅公と称せられるようになった。
 この菅公とお茶の深い関わりを後世に顕彰するため、御神忌千百年式年の記念事業として平成三年春茶室芳松庵を建立した。
 庭内の一角には勤皇の志士達が密議を交わした史跡暁天楼も建っている。

   
境内並びに神苑
 境内は勝景の地に在り総面積八万五千八百余坪で、ここより遠く周防灘を隔てて煙霞の間に四国・九州の山々を望み、近く眼下に点在する瀬戸の島々の影見え、西に佐波の清流、右田の奇峰聳え菅公の鐘愛せられた延喜時代の勝景を偲ぶことができる。

   
附近の名所旧跡
 当地方には数多くの豪族・貴人の古墳が残存しており、往古すでに当地方が絢爛たる文化の華を開いていたことが想像される。
 大化二年周防の国府が置かれ一国の政治文化の中心となって幾多の史跡名勝を遺し、県下で最も古い文化をもつ史都である。
O史跡・周防国衙跡(当社より徒歩二十分)
○国 分 寺(当社より徒歩七分)
O名勝毛利邸(当社より徒歩十五分)
O阿弥陀寺(当社より車で十分)
O月の桂の庭(当社より車で五分)
 
 
   


 


 
  〔毛利氏庭園〕  毛利氏庭園発行の入場券裏面にあった説明を引用・紹介しておきます。

 名勝毛利氏庭園(平成8年3月国指定)

 本園は明治25年井上馨が旧長州藩主毛利氏の本居にふさわしい処として現地域を選定し資材 の準備にかかったが日清日露の戦役に遭遇し遅延、大正元年9月施工準備がととのい同5年に完成した。回遊式日本庭園で広さ約84、000平方メートル、自然美を配した規模雄大なもので当時の日本庭園の頂点をゆくものとして高く評価されている。

 
 
   

 

 


〔第10日〕 7月20日(木)


地域・場所
ルート・観光・見学箇所等 読み方  着時刻 発時刻
(通過
)
メーター 説 明 ・ 案 内 等
岩 国 ホテルα1岩国     8.25 1436.2  
     …R2…           
  錦帯橋 きんたいきょう 8.45 8.50 1444.8 激しい降雨。橋を渡れず。
     …R2…          
宮島口 宮島口駐車場   9.30   1474.1 連絡船乗り場前
     宮島・厳島神社         車を駐車場に置いて船で往復
  宮島口駐車場     11.55 1474.1  
    …R2・R54…           
広 島 駐車場(元安橋東)   12.20      
     平和記念公園          
     広島平和記念資料館          
  駐車場(元安橋東)     15.15 1500.5  
  ホテル28広島   15.17 15.28 1501.7  
  三川町駐車場(ホテル指定)   15.30   1502.0 車移動。徒歩でホテルへ。
  ホテル28広島(泊)   15.40      
            (65.8)
             
             
             


  〔錦帯橋〕  岩国市観光課発行のパンフレットにあった説明を引用・紹介しておきます。

  人々を魅了し続ける橋 - 周防岩国錦帯橋
  堂堂完成

    錦帯橋の概要

 錦帯橋は山口県最大の河川である錦川(川幅200m)に架かっている5連の木造橋であり、今から約330年前の1673(延宝元)年、第三代岩国藩主吉川広嘉によって創建されました。
 岩国藩の悲願である流れない橋として誕生したこの橋は、創建翌年の1674(延宝2)年5月の梅雨の洪水によりあえなく流失しましたが原因を徹底的に究明し、同年10月末に二代目錦帯橋が完成しています。.
 それから、276年間不落を誇った錦帯橋でしたが昭和25年9月に岩国地方を襲ったキジア台風によって2度目の流失をしてしまいます。しかし、岩国市では橋脚に近代工法を取り入れるなどして直ちに再建工事に着手し、3代目錦帯橋は昭和28年に完成しました。以来、半世紀にわたって人々を渡し続けてきた錦帯橋ですが、木造橋の宿命である腐朽による傷みが見られるようになったため、今回、平成13年度から平成15年度にかけて50年ぶりの「平成の架替」に取り組み、総事業費約26億をかけた大事業は、平成16年3月20日に完成しました。

 ●大正11年  3月8日  1922  史蹟名勝天然記念物保存法により錦帯橋及びその上下流
                        各60間が「名勝」の指定を受ける。
 ●昭和18年  8月24日 1943  名勝指定区域の追加指定
                        上流 350間(大内迫)
                        下流 230間(臥竜橋)
 ●昭和25年  5月30日 1950  文化財保護法に基づく「名勝」となる。

 
    錦帯橋が初めての連れ合いは渡ってみるのを楽しみにしていたのだが、あいにくの雨。橋の近くまで行ったが、車から降りることもできないほどの土砂降り。しばらく雨が小降りになるのを待ったが、雨勢は変わらず。ちょっとおさまったかなという時に急いで数枚の写真を撮ったが、その後またすぐ土砂降り。あまり時間をとるわけにもいかず、大変残念だったが渡橋を断念して宮島へと向かった。

 
    
錦帯橋

 
宮 島・厳島神社

 
   

 

 
  〔宮 島・厳島神社〕 宮島の歴史は、主峰の弥山(みせん)を中心とする山々と、原始林に覆われたその山容に霊気が感じられたため、古来、自然崇拝の対象となっていたが、推古元年(593)に、大和時代の安芸の豪族で、厳島に住む土地の有力者・佐伯鞍職(さえきくらもと)が現在の場所に嚴島神社を創建したことに始るという

 大同元年(806)には、唐から帰朝した僧空海(弘法大師)が、京都への帰途、島を見て霊気を感じ、ここは霊場に違いないと弥山に御堂を建て、百日間の求聞持[ぐもんじ]の修法をしたりしたという。

 久安2年(1146)に安芸守に任ぜられた平清盛は、夢枕に立った老僧の「嚴島神社を造営すれば、きっと位階を極めるであろう。」という言葉を信じ、嚴島神社を深く信仰するようになったという。仁安3年(1168)、清盛は当時の寝殿造りを模して神社を現在の規模に造営し、また舞楽を大阪四天王寺から移したりしたという。さらに一門をあげて法華経を写経し、清盛の願文とともに奉納したりした。それが現在国宝になっている「平家納経」である。その他、甲冑や刀剣、美術工芸品等を多数奉納したり、社領を増やしたりして、手厚く嚴島神社を庇護した。

 平安末に平家が滅亡した後も、鎌倉幕府や室町幕府、地元の領主大内氏や毛利氏、また、豊臣秀吉なども篤く信仰して庇護し続けてきた。 江戸時代には、安芸国の藩主となった福島正則、続いて浅野氏も商業・廻船業を保護し、宮島は交易の中継基地として発展し、瀬戸内地方文化の中心地として栄えてきたという。

 嚴島神社は、創建以来、台風や落雷などの自然災害や合戦による破壊、神仏分離令による混乱などがあったが、その都度、再建・修復が繰り返されてきてその姿が今日まで継承されてきた。

 大正12年(1923)、宮島全島が国の史跡名勝に、昭和25年(1950)には瀬戸内海国立公園に指定され、さらに平成8年(1996)12月には、嚴島神社が原爆ド-ムと共にユネスコの世界文化遺産に登録されて今日に至っている。


 
  〔広島平和記念公園資料館 (財)広島観光コンベンションビューロー 観光振興部発行の「広島平和記念公園・周辺ガイドマップ」とその裏面にあった説明を引用・紹介しておきます。
 
     
   



 
  すべてはここから…
平和記念公園

 元安川と本川にはさまれた平和大通り以北と原爆ドーム周辺をあわせた平和記念公園は、約2.2ヘクタールの広さがある。このあたりは城下町時代から昭和初期までの長い間、広島市の繁華街だった。大正末期からだんだん現在の八丁堀付近に繁華街が移っていったが、それでも被爆前には、劇場、飲食店旅館などが軒を並べて、日夜にぎわい、多くの人々が暮らしていた。
しかし、人類初の原子爆弾によって、まちは破滅した。戦後、この地域に世界の恒久平和の願いを込めて、記念公園とすることが計画され、1949年(昭和24年)8月6日に公布された広島平和記念都市建設法に基づいて建設がすすめられた。公園内には、平和記念資料館、国立広島原爆死没者追悼平和祈念館、広島国際会議場などの施設や、原爆死没者慰霊碑をはじめとするモニュメントが数多く建てられており、広島市民のほか国内外から寄せられた約40種類1200本の樹木が植樹されている。

「証」をのこして…
原爆ドーム
「世界遺産」
 
被爆前のこの建物は「広島県産業奨励館」といって、広島の特産品などを展示したり、いろいろな催し物が開かれていた。 1915年(大正4年)に開館。チェコの建設家ヤン・レツルの設計によるモダンな建物であった。原爆はこの建物の南東160mの上空約600mでさく裂し、このような廃墟の残骸となった。
原爆の惨禍を後の世まで伝えるため、被爆当時のままの姿で残しておこうという声が市民などからだされ、全国募金などにより3回の保存工事が施された。1996年(平成8年)12月核兵器廃絶と人類の平和を求める誓いのシンボルとしてユネスコの世界遺産一覧表に登録された。

語り継ぐ…
平和記念資料館………

1945年(昭和20年)8月6日午前8時15分。広島に原子爆弾が投下され、その年の12月末までに約14万人の人々が亡くなった。
平和記念資料館は被爆の実相を伝え、核兵器のない平和な世界の実現へ貢献するため設置された。東館では被爆までの広島の歴史や、原子爆弾の開発から投下までの経緯、現在の核兵器の状況など、西館では被爆者の遺品や高熱で融けた瓦等の被爆資料を紹介している。
開館時間  3月~11月は8時30分~18時 (ただし8月は19時まで開館)
      12月~2月は8時30分~17時  ※入館は閉館30分前まで
休館日  12月29日~1月1日
入館料  大人50円 小人30円
T E L  082-241-4004

祈りそして誓い…
原爆死没者慰霊碑
(公式名:広島平和都市記念碑)

平和記念公園のほぼ中央にある原爆死没者慰霊碑(公式名:広島平和都市記念碑)は、原爆犠牲者の霊を雨露から守りたいとの願いを込めて、家型八二ワに設計されている。中央には石室があり、その中に原爆犠牲者の名(平成17年8月6日現在で242、437名)を記載した原爆死没者名簿が納められている。石室の正面には「安らかに眠って下さい 過ちは繰返しませぬから」ときざみ込まれている。

心からの追悼と平和への祈り…
国立広島原爆死没者
追悼平和祈念館


祈念館は、国として、原爆死没者に対する追悼の意を表し、永遠の平和を祈念するとともに、原爆の惨禍を全世界の人々に知らせ、その体験を後代に継承することを目的に設置されました。館内には、原爆死没者を静かに追悼し、平和について考える「平和祈念・死没者追悼空間」、原爆で亡くなった一人一人の存在を実感できる「遺影コーナー」、被爆体験記を読んだり被爆者証言ビデオなどを見ることにより、被爆の実相について学ぶとともに被爆者の思いに触れる「情報展示コーナー」や「体験記閲覧室」があります。
開館時間・休館日  平和記念資料館に同じ
入館料    無料
TEL     082-543-6271

明日へ…
原爆の子の像………

年中たくさんの千羽鶴がささげられることから、「千羽鶴の塔」とも呼ばれている。頂上には、金色の折鶴をささげもつ少女のブロンズ像が立ち、平和な未来への夢を託している。この像は、12歳のとき原爆性白血病で入院し、鶴を千羽折れば病気が治ると信じ、鶴を折りつづけながら短い人生を終えた佐々木禎子さんの死をきっかけに、原爆で亡くなった全ての子供たちの死を慰め、世界平和を呼びかけようと、子供たちが国内外の友だちに支援を求め、1958年(昭和33年)に建設された。


 
   
元安川と原爆ドーム

 
原爆ドーム

 
   
原爆死没者慰霊碑

 
石室の正面

 
 
原爆の子の塔(千羽鶴の塔

 

平和記念資料館
 
 
  〔広島平和記念資料館 資料館発行のパンフレットにあった説明の一部も引用・紹介しておきます。  
      はじめに
 1945(昭和20)年8月6日午前8時15分、広島は世界で初めて原子爆弾による被害を受けました。まちはほとんどが破壊され、多くの人びとの生命がうばわれました。かろうじて生き残った人も、心と体に大きな痛手を受け、多くの被爆者がいまなお苦しんでいます。 
 平和記念資料館は、被爆者の遺品や被爆の惨状を示す写真や資料を収集・展示するとともに、広島の被爆前後の歩みや核時代の状況などについて紹介しています。
 資料の一つ一つには、人びとの悲しみや怒りが込められています。原爆の惨禍からよみがえったヒロシマの願いは、核兵器のない平和な社会を実現することです。

    
広島に投下された原子爆弾について
 原子爆弾は、ウランやプルトニウムが核分裂するときに発生するエネルギーを兵器として利用したもので通常の爆薬に比べるとはるかに大きな破壊力をもっています。さらに、核分裂の際に発生するカンマ線や中性子線などの放射線は、長い期間にわたり人体に深刻な障害を与えます。
 広島に投下された原爆は、長さ約3メートル、重さ約4トン、開発当初の設計よりも短くしたためリトル・ボーイ(少年)と呼ばれていました。約50キログラムのウラン235が詰められていたとされていますが、このうちの1キログラムにも満たないものが瞬間的に核分裂し、高性能爆薬の1万6干トン分に相当するエネルギーを放出しました。
 その内訳は、爆風(衝撃波)が50パーセント、熱線が35パーセント、放射線が15パーセントで、これらが複雑にからみあって大きな被害を引き起こしたのです。                 ゛j 
 強烈な熱線と爆風は、爆心地から2キロメートル以内にあったほとんどの建物を破壊し、焼きつくし、放射線による急性障害が一応おさまったとされる1945(昭和20)年12月末までに約14万人の尊い命が失われました。


放射線による被害
 原子爆弾の特徴は、通常の爆弾では絶対おこらない放射線の影響によって、人体に大きな障害が加えられたことです。
 特に、爆心地から1キロメートル以内にいた人は致命的な影響を受け、多くは数日のうちに死亡しました。
 被爆直後から短期間に現れた急性障害は、発熱、はきけ、下痢、出血、脱毛、全身のけだるさなど、さまざまな症状をひきおこし、多くの人が死亡しました。
 さらに、後障害は2、3年ないし10数年の期間を経て発病するもので、ケロイドや白血病、ガンなどの病気が多くの被害者を苦しめています。

熱線による被害
 爆発の瞬間、爆発点の中心温度はセ氏百万度を超え巨大な火球が発生しました。火球は1秒後には最大直径280メートルの大きさとなり、表面温度は5、000度に達し、強い熱線が放射され、大きな被害を与えました。

爆風による被害
 爆発の瞬間、中心は数十万気圧という超高圧となり、空気が大きく膨張し、強烈な爆風が発生しました。その圧力は、爆心地から500メートルの地点で1平方メ一トルあたり19トンに達するという強大なもので、ほとんどの建物は押しつぶされ、人びとも吹き飛ばされました。

遺品は語る
 ー瞬にして街のほとんどが壊滅し、多くの尊い生命が奪われました。そのなかには、建物疎開作業に動員された中学生や女学生など、作業現場に遺品を残しただけで、遺体はおろか遺骨さえ肉親の元に戻らなかった人たちも多かったのです。
 ここに展示されている遺品の多くは、肉親の人たちがその安否を気遣って、焦土の中を探し求め、見つけだされたものです。
 これら一つ一つには、人びとの苦しみ、悲しみ、怒りが込められ、このような悲劇が繰り返されることのないよう、静かに語りかけています。

1945年8月6日
 1945(昭和20)年8月6日午前8時15分、人類史上初めて原子爆弾が投下されました。    
 原子爆弾は、市街地の上空約600メートルで目もくらむ閃光を放ってさく裂し、爆心地から2キロメートルにおよぶ市街地の建物が跡形もなく壊され焼きつくされ、爆風や熱線などによって多くの人びとが亡くなりました。
 かろうじて生き残った人びとも、焼けこげて血みどろになったボロボロの衣服をわすかに身にまとい、瓦れきの街を逃げまどったのです。


原子爆弾 ― 開発から広島への投下まで

なぜ開発したか?
 第二次世界大戦が始まった1939(昭和14)年、アメリカは原爆の研究に乗り出しました。 1942年8月には「マンハッタン計画」と名付けられた原爆製造計画に着手し、1945年7月16日、原爆実験に成功しました。

なぜ日本に投下することを決めたか?
 日本の戦況が圧倒的に不利な中、アメリカは戦争終結手段として、日本本土上陸作戦、ソ連への対日参戦の要請、天皇制存続の保証、原爆の使用という選択肢がありました。こうした状況の下、原爆投下により戦争を終結することができれば、戦後ソ連の影響力が広がるのを避けられ、また膨大な経費を使った原爆開発を国内向けに正当化できるとも考えました。

なぜ広島に投下したか?
 アメリカは、投下目標を原爆の効果を正確に測定できるよう、直径3マイル(約4.8キロメートル)以上の市街地を持つ都市の中から投下目標を選び、その都市への空襲を禁止しました。そして、広島、小倉、新潟、長崎いずれかへの投下命令を下しました。その後、広島を第1日標としたのは、目標都市の中で唯一、連合国軍の捕虜収容所がないと思っていたためです。


被爆までの広島
 広島は、江戸時代に城下町として栄jましたが、明治以後、高等師範学校が開校し、学都として、また、陸軍の施設が集中し、軍都としても発展を遂げていました。被爆当時は約35万の人がいました。

8時15分で止まった時計
 1945年8月6日午前8時15分、世界で初めて原爆が広島に投下されました。核兵器という大量破壊兵器を手にしたことで、この時から世界は核時代に入りました。

戦争・原爆と市民
 広島は、原爆投下によって、都市基盤そのものが奪われました。被爆音や原爆孤児はもとより、復員軍人や引揚者、疎開先から帰ってきた人びとなど被爆をまぬがれた市民も、家や職場を失いました。しかし、市民は被爆直後の混乱期、敗戦、占領下の大変動の中で、困難にめげず、生活の再建へと立ち向かいました。

平和への歩み 
 あまりにも悲惨な原爆の被害は、市民に人類は今後核兵器と共存できないという考え方を根づかせました。
 こうした核兵器廃絶と世界恒久平和の実現を求める「ヒロシマの願い」から、広島の平和の歩みは世界へ向かって始まりました。
 原子爆弾は戦争で使われた兵器ですが、三たびさく裂させないためには、核兵器を地上からなくし、他国と戦わない決意が大切です。平和への歩みは、どんな小さなことでも、そこから始まります。

核時代
 広島・長崎への原爆投下で世界は「核時代」に入りました。強力な核兵器で相手国を脅し、攻撃を思いとどまらせる核抑止論は、核大国の論理です。アメU力、ロシアをはじめとする核保有国は、核兵器の威力を大きく飛躍させ、ミサイルなどの運搬手段や電子技術を発展させてきました。
 核軍縮が進んだ現在でも、核兵器の数は、2万発を超え、ひとたび核戦争がおされば人類は破滅の危機にさらされます。


 
   


〔第11日〕 7月21日(金)

地域・場所 ルート・観光・見学箇所等 読み方  着時刻 発時刻
(通過
)
メーター 説 明 ・ 案 内 等
広 島 ホテル28広島          
  三川町駐車場(ホテル指定)     8.05  1502.0   
     …K264-K70…          
  広島東IC   8.35      
     …山陽道…          
  小谷SA 給油   8.56 9.20 1545.0  
  吉備SA きび 10.30 10.40 1659.1  
  三木SA   11.53 12.40 1774.9  
  神戸JCT          
     …中国道・名神高速…          
  桂川PA   13.40 14.04 1858.1  
  大津SA   14.22 14.35 1874.4 中央道通行止め(台風)情報確認
  米原JCT     15.05   →北陸道へルート変更
     …北陸道…          
  賤ヶ岳SA 給油   15.31 15.40 1971.3  
  尼御前SA   16.48 17.12 2085.8  
  有磯海SA   18.25 19.15 2213.6  夕食
  糸魚川IC     19.46 2265.2  
     …R148…          
白 馬 倉下の湯   20.40 21.35 2311.8  
  三四郎小屋   21.45   2317.4  
            (815.4)
             


宿泊先一覧
                                                   2006年(H18) 7月
        宿 泊 先   電 話        所在地  種類・条件  二人料金
 1 若狭町町営 水月花 0770-47-1234  三方上中郡若狭町海山51-13 二食付き全込   18,400
 2 うらしま荘※1 0772-22-4224   宮津市字島崎小字川跡2039-8  二食付き全込  15,708
 3 つるや旅館  0796-32-2924  豊岡市城崎町湯島606 二食付き全込   16,680
 4 白兎会館※2 0857-23-1021  鳥取市末広温泉町556 朝食付き全込  12,706 
 5 松江ユニバーサルホテル  0852-25-0001  松江市朝日町471 ツイン全込  9,030
 6 マスダセントラルホテル  0858-23-5511   益田市あけぼの東町2-1 ツイン朝食付き全込   10,850 
 7  萩浦荘※ 0838-22-2511   萩市椿東開作2968 二食付き全込  15,690 
 8  秋吉台若竹荘※  0837-62-0126   秋吉町秋吉台 二食付き全込  13,440 
 9  ホテルα1岩国 0827-21-2244  岩国市麻里布町4-8-2 ツイン朝食付き全込  12,100 
 10 ホテル28広島 082-247-2811   広島市中区田中町6-24 ツイン全込  11,800 

                ※1 公立学校共済組合京都宿泊所宮津分館
                    ※2  公立学校共済組合鳥取宿泊所  その後廃業したようで現在はない

                ※ 国民宿舎の萩浦荘と若竹山荘はその後廃業したようで現在はない。


    トップページに戻る  「はじめに」へ  後半行程トップに戻る  山陰・山陽 前半行程へ