若狭・山陰・山陽 ドライブ旅行の記録

福井-一乗谷-三方-小浜-天橋立-伊根-経ヶ岬 -城崎-出石-鳥取-境港-松江-出雲-津和野-   萩-秋吉台-山口-防府-宮島-広島

2006年 7月11日(火) ― 7月21日(金)








            はじめに

 
 2002(H14)年に西(九州)へ、2005(H17)年に東(東北)へ、そして2004(H16)年には北(能登・北陸)へと行った後で、さて今度はどこへ行こうかと考えた時に出てきたのは、また西からはじめてみようかということであった。
  連れ合いが山陰・山陽へは全く行ったことがないこともあったし、能登・北陸へ行った時に三方までは足を延ばせたが、残念ながらすぐ先の、国宝めぐりなどのできる小浜などへは行くことができなかったことなどもあった。それに何より決定的だったのは、その時、すぐ近くまで行っていながら「福井豪雨」の関係で一乗谷へ寄るのをあきらめざるを得なかったことであった。その時の残念な思いがまだ残っていたこともあって、今度は一乗谷から始め、三方、小浜、天橋立、丹後半島、城崎、……と、山陰から山陽へと回ってみようということになったのだった。

 
 山陰が初めての連れ合いのために有名な観光地をざっと見て回るという行程にしたのだが、倉吉、石見銀山(この頃はまだ「世界遺産」の話などはなかったと思う)、青海島などを日程・行程の関係でどうしようもなく、カットせざるをえなかったのが残念であった。山陽方面も広島までしか寄れなかったが、三原、尾道、倉敷などは翌2007(H19)年、四国を回った帰りに寄って一応、山陽は終わりということにしたのだった。

 このページはこうしたいきさつのもとで行った若狭・山陰・山陽ドライブ旅行の記録です。十分な記録とはいえないものですが、何かの参考になればうれしいと思います。
    
                                 2013.5   山寺行好
   
     行程表について
R329=国道329号線   K29=地方道(都道府県道) 29号線  ルート表示は主要部分のみ  青字は推定時刻・距離
○移動時間の中には場所・時間などを記してありませんが、移動途中の休憩・食事などの時間も含まれています。
○道を間違えたための迷走、カーナビの誤誘導・遠回り誘導などによって生じたそれほど大きくはない時間のロスはそのままにしてあります。

   


   若狭・山陰・山陽ドライブ旅行  - 前半行程 第1日目~第5日目 -

 福井-一乗谷-三方五湖-小浜-宮津-城崎-出石-鳥取-境港-松江
 
                    

〔第1日〕 7月11日(火) 福井-一乗谷-三方五湖

              ※以下、表中の青字は記録漏れ等のために前後の記録、地図上計測等から推定したおおよその時刻・距離です。

地域・場所 ルート・観光・見学箇所等 読み方  着時刻 発時刻
(通過
)
メーター 説 明 ・ 案 内 等
 白 馬  白馬     7.50 0.0  
     …R148…          
   糸魚川IC  いといがわ   8.50 51.0  
     …北陸道…          
  越中境SA   9.08 9.20 73.5  
  有磯海SA ありそうみ 9.38 9.53 104.5 休憩・給油
     …北陸道…           
福 井  福井IC     11.30 271.6  
一乗谷 朝倉亭(史跡センター) いちじょうだに 11.42 12.05 276.6  
  一乗谷朝倉氏遺跡   12.06 13.20 277.5  
   福井IC       13.30 282.5  
     …北陸道…          
   敦賀IC     14.05 328.4  
     …R27…          
三 浜  …レインボーライン…         久々子湖北辺→梅丈岳
三方五湖 梅丈岳山頂 ばいじょうだけ 14.35 15.30 367.6  
   …レインボーライン…          梅丈岳→水月湖西辺
水月湖 町営ホテル 水月花(泊) すいげっか 15.40   374.0  
            (374.0) 一日走行距離
             


   〔一乗谷・朝倉氏遺跡 ここを初めて訪れたのは1987年(S62年)、まだ車には乗っておらず、小生一人で列車やバスを乗り継いであちこち旅行していた頃で、郡上八幡、越前大野を旅した後ここ一乗谷に来たのだった。当時はまだ復元町並みはできていなかったが、館跡の唐門や礎石群、庭園跡などを前にして、歴史・時の流れを感じさせてくれる場に立ったその時の感動を今でも覚えている。2004年7月に能登北陸を旅した時(記録参照)にもすぐ近くの永平寺の参拝後に再度立ち寄ろうとしたのだが、その10日ほど前の「福井豪雨」で一乗谷川が氾濫して遺跡が水没して見学できなくなってしまっているという情報があったため、やむなく断念して福井へと向かったのだった。今回は二度目の訪問になるのだったが、遺跡は変わらずその静かな姿をとどめ、見せてくれていた。

 遺跡については、「一乗谷朝倉氏遺跡管理事務所」「福井市教育委員会文化課」発行の3種類のパンフレット(A・B・C)の説明を以下に引用しておきます。(一部省略、順序変更あり)
 
                   現地にあった「一乗谷朝倉氏遺跡」案内図(写真)  
     
 
(A)
特別史跡 一乗谷朝倉氏遺跡
 一乗谷は、福井市街の東南約1 0 km にあり、朝倉氏が文明3年(1471年)福井平野の黒丸館を離れてここに築城してから、天正元年(1573年)織田信長に亡ぼされるまで、敏景(孝景)、氏景、貞景、孝景、義景と5代103年間にわたる栄華の跡である。
 遺跡は一乗谷川に沿って帯状に広がる狭い平地と、その両側にそびえる広大な山地からなる。山間部には山城、砦、櫓などの防禦施設の跡が、山麓には土塁で囲まれた居館や武家屋敷、寺院、町屋などの跡が多くみられる。
 一乗谷は戦国時代一世紀の歴史だけがそっくり埋もれて残された貴重な遺跡で、昭和42年から発掘調査がすすめられ、昭和46年には一乗谷城を含めた278haが国の特別史跡に、平成3年にはそのうち朝倉氏4庭園が特別名勝にも指定された。
 
唐 門〉からもん
 朝倉氏5代義景の菩提を弔うためにその館跡に設けられた寺・松雲院の正門。向唐門形式で、江戸時代前期の建物である。門のかえるまたには朝倉氏の紋である三ツ木瓜が見られる。また、この位置は、館の正門にあたる。

館 跡〉やかたあと
 遺跡の中心的存在で、東西南北それぞれ80mあり、東は山に接し、西、南、北の三方は高さ4mほどの土塁で囲まれ、外側には堀が巡らされている。
 整然とした礎石が並び常御殿・主殿・会所一週侍・武者溜・厩舎・蔵などの間取りが判別できる。

湯殿跡庭園〉ゆどのあと
 館跡を見下ろす山腹にあリ、昭和42年の発掘。室町前期と推定される古風な石組が原形を保って残っている。南側には空堀の石垣がある。

中の御殿跡〉なかのごてんあと
 湯殿跡から空堀をへだてた南の台地にある。義景の母高徳院の居館といわれ、周囲は高い土塁と深さ2m余の堀跡がある。

諏訪館跡庭園〉すわやかたあと
 館跡の南約400mにあリ義景の愛妻少将の館跡に設けられた上下2段の構成を持つ、この谷で最も規模が大きく、豪華な庭園。下段の中央には、高さ4mを超す巨石を用いた豪壮な滝石組が見られる。また、この石には江戸時代末に彫り込まれた3代貞景、4代孝景等の法名が残されている。

朝倉敏景(孝景)墓〉としかげ (英林塚)     
 館跡から5分ほど山道を登った山間にある、敏景は初めて一乗谷へ築城して繁栄の基礎をつくった。この塚、時として鳴動するという伝説がある。

義景の墓〉よしかげ
 館の東南隅にあって寛文3年(1663年)松雲院建立の頃と思われる。義景公の法名は松雲院殿大球宗光大居士。
 
―乗城山〉しろやま
 遺跡の東部にある海抜436mの山で、自然地形を巧みに利用して頂上附近に山城が築かれた。 大きな礎石が現存する千畳敷、赤渕明神社跡、福井平野が一望できる宿直跡や小高い丘のーの丸、二の丸、三の丸などの遺構が、南北に走る尾根上500mの範囲にわたって認められる。これらの遺構をとりまいて、空濠、堀切、堅堀、伏兵地の跡が多数残存している。
 
上・下城戸〉かみ しも きど
 一乗谷の谷が最も狭くなっている地点2ケ所をえらんで土塁を築き城門とした。現在上城戸は幅13m、高さ5m、長さ50m。下城戸は幅18m、高さ5m、長さ20mがわずかにのこっている。
 上・下の城戸間は約1.7kmあり、「城戸ノ内」と呼ばれ、城主の居館、重臣の屋敷等の跡が密集している。
   
南陽寺跡庭園〉なんようじあと
 朝倉貞景が娘のために再興した寺で館の東北200m高台の景勝地にあり、朝倉の代々の女が尼僧として居住した。石組は京都金閣寺庭園を模したものといわれ、将軍足利義昭を招いて観桜の酒宴をしたところでもある。
 
西山光照寺跡〉にしやまこうしようじあと
 一乗谷の入り口に当たり、JR一乗谷駅から50mほど南寄りの線路沿いにある。天台宗真盛派で朝倉時代最大の寺院だったが、現在は旧参道の両側に38体を数える石仏群を残すのみである。石仏はいずれも笏谷石に彫られた秀作で永正・大永・天文などの年号が読みとれる。
 なお、古絵図や文献によると、一乗谷には約40の寺院があったと推定され、約3、000体の石仏・石塔が分布している。

 
 
   
唐 門
 
朝倉館跡を囲む土塁と堀
 
   
朝倉館跡
 
復元街並み
 
   
諏訪館跡庭園


 
朝倉義景公墓所


 
   (B)
朝倉氏の歴史

 朝倉氏の祖先は,兵庫県養父郡の豪族で、南北朝時代に朝倉広景が主家の斯波高経に従って越前に入国しました。朝倉孝景の代、1467年の応仁の乱での活躍をきっかけに一乗谷に本拠を移し、斯波氏、甲斐氏を追放して越前を平定しました。以後、孝景、氏景、貞景、孝景、義景と5代103年間にわたって越前の中心として繁栄し、この間、京や奈良の貴族・僧侶などの文化人が下向し、北陸の小京都とも呼ばれました。義景は、足利義昭を南陽寺に迎え観桜の宴を催しました。しかし天下統一の戦いの中で1573年織田信長に敗れ、朝倉氏は滅び、城下町も焼討ちにあい灰燼に帰しました。

一乗谷朝倉氏遺跡・庭園
 一乗谷は、福井市街の東南約10kmにあり、戦国時代朝倉氏の城下町の跡がそっくり埋もれていました。遺跡の発掘調査は、昭和42年から進められ、昭和46年には一乗谷城を含む278haが国の特別史跡に指定されました。また、平成3年には諏訪館跡庭園、湯殿跡庭園、館跡庭園、南陽奇跡庭園を含む4、205㎡が特別名勝に指定されました。

朝倉館跡と館跡庭園
 第5代当主朝倉義景が住んだ館の跡で、6、500㎡程の敷地があり三方は土塁と濠で囲まれています。常御殿、主殿、会所、茶室、花壇のほか、台所、厩(うまや)、蔵などが整然と配されていました。東側の山際にある館跡庭園は力強い滝石組、護岸石組を持ち、その洗練された石組に京都との交流が偲ばれます。

諏訪舘跡庭園
 諏訪館は朝倉義景の妻「小少将」の館で、その庭園は遺跡の中でも最も規模の大きいものです。中心の4m余りの巨石は、滝石組をなしており、全体に水平感と垂直感を基本にして安定感のある構成になっています。この石には江戸時代末に彫り込まれた3代貞景、4代孝景等の法名が残されています。

湯殿跡庭園
 館跡を見下ろす山腹にあり、先ず荒々しい石組に驚かされます。どの石も強い表情を持ち迫力があります。鶴岩亀岩を思わせる中島や出島があり、水路が山際に沿って南から北に走り滝口に注ぐ池泉庭園になっています。他の庭園とは様式も感覚も異なり、一乗谷で最も古い庭園とされています。

 
   (C) 
  一乗谷朝倉氏遺跡 
復原町並

 大小の屋敷により構成される、発掘調査により検出された町を、南北約200 m の道路を中心に、地下に残されていた塀の石垣や建物礎石を用い、出土資料に基づいて再現しています。大規模な武家屋敷は、周囲に土塀を巡らし、門を道路に聞いています。屋敷内は多くの建物で構成されています。これに対し、小さな庶民の住居は、建物が直接道路に面:し、裏庭を持ち、ここに便所等がある単純なものです。当時の道路を歩いて戦国時代の一乗谷にタイムスリップしてください。

立体復原
【目的】一乗谷朝倉氏遺跡では、広範囲に良好に残る遺跡を史跡公園として整備を進めています。この一環として、発掘調査により検出された遺構を現地で立体的に復原することにより、
一般の方にもわかりやす<親しめる、生きた歴史体験の場を提供し、遺跡に対する理解を深めることが立体復原の目的です。

【方法】復原建物は具体的で判り易いからこそ学問的な正確さが必要です。発掘調査で検出された遺構に基づき、出土した柱、壁、敷居、建築金具、建築工具や同時代の建物を参考として、さらに当時の建築技術を再現して用いる等、忠実な復原をしました。

一乗谷の町の様子と生活
【町並復原模型】 この模型は、町並復原を実施した南北約250m、東西約100mの地区全体を50分の1の縮尺で再現したものです。これまでの継続的な発掘調査によって、ここに見られるように、この一乗谷の中は、建物が建ち並び、にぎやかな都市であったことが明らかとなっています。

【生活復原展示】 発掘調査により、質、星共に豊富な遺物が出土しており、当時の人々の生活の様子が具体的に知られるようになりました。復原した建物の内部の要所には、出土遺物の複製等を置き、建物内での生活の様子を再現しています。


 
   〔三方五湖〕  「金沢・能登・北陸 ドライブ・旅行(2004年7月)の記録」に掲載した三方五湖について
            の記事と写真を再掲します。


 敦賀市と小浜市のちょうど中間位の所に位置する三方五湖は、三方湖、水月湖、菅湖、久々子湖、日向湖の5つの湖の総称である。今から約2万年前の頃には、三方五湖のそれぞれが海岸から遠く離れた内陸の湖だったが、その後の何度もあった地殻変動、海水面の上下変動、砂の堆積などによって現在のような姿・配置になったのだという。現在、五つの湖はもともとの自然の水路や、人工的に開削された水路、隧道などによってつながっているが、最も海に近い日向湖と久々子湖は塩水湖(海水)、菅湖と水月湖は海水と真水が半々の汽水湖(半淡水)、一番奥になる三方湖は淡水湖だそうで、それぞれの湖の水質や水深は違っており、すべて濃さの違う青色に見えることから「五色の湖」と呼ばれることもあるという。

 車で「レインボーライン」(有料道)を上って、五湖周辺から北西に伸びる常神半島の根元辺りにある標高397メートルの梅丈岳(三方富士)の山頂下の駐車場に行き、そこからリフト又はケーブルカー(並行して稼動)で梅丈岳山頂公園に登ると、それぞれが低い丘陵のような山々の豊かな緑に縁取られた五湖の何ともいえない全体の姿を見渡すことができる。


 残念ながらこのとき(2004.7)は頂上下の駐車場に着いたのが夕方5時を過ぎてしまっていたため、頂上公園に登るのはあきらめ、休憩しただけで水月湖畔にある宿「水月花」へと向かったのだった。が、二年後の7月(今回、2006.7)に山陰へ旅をした時、この時泊まった、手ごろな費用で泊まれ、施設がきれいでレイクビューの三方町営ホテル「水月花すいげっかが気に入っていて、連れ合いがまたあそこに泊まりたいというので再度三方五湖に立ち寄り、梅丈岳にも登って五湖の姿をたっぷりと眺めることができたのだった。さらに四年後の一昨年、城崎温泉まで行くことになった時にもこの「水月花」に泊まり、梅丈岳にも登ることになった。

    ☆上段左右の写真は2004年8月4日朝、レインボ-ライン途中の展望台から撮ったもの。
    ☆下段左右の水月湖の写真は一昨年(2011年)の7月に梅丈岳頂上から撮ったもの。

 
   
若狭湾(左上)と日向湖(右下)
 
日向湖(左下) 久々子湖(左上) 水月湖(右下)
 
   
水月湖と菅湖(右中央半島の先)

 
  水月湖(左)と三方湖(右)

 
   
レインボーライン(赤線)途中にあった案内板の写真
 
   
山頂へのリフト(左は日本海)

 
水月湖畔のホテル「水月花」(2011.07)

 



〔第2日〕 7月12日(水)  三方五湖-小浜-宮津

地域・場所 ルート・観光・見学箇所等 読み方  着時刻 発時刻
(通過
)
メーター 説 明 ・ 案 内 等
水月湖 町営ホテル 水月花     8.40 374.0  
    …R27・三宅・R303…           
熊 川 熊川宿   9.15 9.45 403.6  
  瓜割の滝・天徳寺 うりわり 9.53 10.40 410.9  
小 浜 国宝 寺巡り          
    明通寺 みょうつうじ  10.50 11.30 419.3  
    神宮寺   11.42 12.08 424.1  
    万徳寺   12.13 12.47 425.7  
    国分寺   12.52 13.20 431.2  
     ドライブイン 若狭松風     13.22 13.50 432.6  昼食 (R27沿い検見坂)
    多田寺   13.59 14.30 434.4  
    妙楽寺    14.38 15.05 438.0  
    円照寺     15.10 15.28 440.1  
    羽賀寺   15.43 16.22 447.8  
  小浜西IC     16.43 465.4 当時ここより東は未開通。 
   …舞鶴若狭自動車道…           
  舞鶴PA    17.00 17.05 485.7  
  綾部JCT      17.20 508.0  
  宮津天橋立IC      17.35 533.1  
    …K9…          
宮 津 うらしま荘(泊)     17.45 536.1  
            (162.1)


  〔熊川宿〕   若狭・小浜と京都を結ぶ旧若狭街道(鯖さば街道)[現在の国道R27→R303号線]沿いにあり、小浜と今津のほぼ中間点(JR小浜駅から約16k、20分前後)に位置する、重要伝統的建造物群保存地区に指定された宿場町。

  この地は室町時代に足利将軍家直属の沼田氏が山城を築いた所で、室町時代に沼田氏が山城を築いた地にある。天正17年(1589年)に小浜城主浅野長政が近江と若狭を結ぶ鯖街道(若狭街道)の宿場町として整備したりしたため、江戸時代を通して鯖街道随一の宿場町として繁栄したが、 近代以降は旧街道が衰退し、当地域は再開発されることなく古い町並みが残り、伝統的建築物や歴史的景観を残している。 古建築を活用した資料館、道の駅「若狭熊川宿」なども開設されている。 

   若狭鯖街道熊川宿資料館宿場館 [ かつて熊川村役場だった昭和15年建築の洋風建物を改修した資料館。]
   孝子与七の碑  [貧しい暮らしの中でも父母に孝行したという与七夫婦を顕彰した碑]
   松木神社      [領民達のために若狭藩の増徴されたままになっている「大豆納」の年貢の引き下げを求め続
              けて命を落とした名主の松木庄左衛門を祀る神社。境内に義民館(昭和10年建立)がある。]
   倉見屋       [ 熊川宿最古の問屋形式の町屋という。袖壁や卯建を備えた、平入りの主屋と土蔵がある。]
   得法寺       [ 「家康腰かけの松」があり、姉川の合戦の際に徳川家康が滞在した寺だという。 ]
   菱屋(勢馬清兵衛家) [屋号「菱屋」という旧問屋の旧家。格子と水路の取り合わせが見所という。]
   旧逸見勘兵衛家住宅 [伊藤忠商事2代目社長伊藤竹之助の生家。若狭町指定文化財(主屋・土蔵・庭)]
   まがり       [下の町と中の町の境にある曲がり角で、敵の直進を防ぐためのもの。]
   熊川番所(復元) [昔の場所に現存する唯一の番所という。]
   道の駅 「若狭熊川宿・四季彩館」
 
 
   
熊川宿街並み

 
熊川宿街並み

 
   
熊川宿街並み


 
熊川番所跡


 
   〔小浜 瓜割うりわりの滝・天徳寺〕 熊川宿から小浜の町に向って、三宅というところでR303からR27に入ってしばらく行った所の左側に「若狭瓜割名水公園」(瓜割の滝・名水の里・天徳寺)の入口がある。

 瓜割名水公園入口を少し入ると左側に大きな駐車場がある。車を置いてまっすぐ行くと右側に天徳寺があり、その辺り、道の左側一帯が「名水公園」になっていて、名水を引き込んだ菖蒲池や芝生広場などがある。天徳寺を過ぎてさらに200から300m行くと、昭和60年に「名水百選」に選定された「瓜割の滝」に着く。

 「瓜割の滝」は、天徳寺の境内奥に広がる森の中の岩間からこんこんと湧き出た水が流れをなして小さな滝となってたもので、その流れの水は一年を通して水温が変わらず、夏でも水につけておいた瓜が割れるほど冷たい事から、「瓜割」の名がつけられ、天徳寺の開基泰澄大師の昔(約1300年前:養老年間)から神泉と尊ばれ、「五穀成熟病退散の霊験あり」と信じられてきたのだという。

 駐車場の前にある休憩所「名水の里」では瓜割の滝の水を使った商品や、名産品を販売しているが、駐車場の入口に近い一角には「名水」の自動販売機があり、ペットボトルやポリタンクを持った人たちが並んで水を購入していた。

 天徳寺には「名勝 庭園」(町指定)、「石仏四国八十八か所」などがあったが、時間の関係などで拝観することはできなかった。

 
   
中央・湧水源  左下・瓜割の滝


 
中央白い部分・瓜割の滝


 
  〔小浜・国宝寺巡り〕 1979(S54年に友人と初めて小浜の国宝巡りに行った時に手に入れた、古いもので恐縮ですが、「国鉄バス・小浜市観光協会」 1979(S54)年発行のパンフレットにあった説明を引用しておきます。

   海のある奈良 若狭小浜   国宝めぐりと久須夜岳(くすやがたけ)エンゼルライン

 若狭小浜は古くから北海道や朝鮮との交流があり、往時の裏日本の良港で、若狭とはアイヌ語で゛ワッカ″(若くて水がきれい)がなまってワカサとなったと伝えられています。
 小浜には渡来文化を代表する数々の仏像や建造物が残されており、それらはここ小浜から京都や奈良へと継がれていました。

 海岸は海水の浸蝕により形成された天下の奇勝蘇洞門(そとも)をはじめ恵まれた自然の景観と豊富な国宝群に、エンゼルラインを通って久須夜岳の頂上から眺める景色は一幅の絵のようで、湖西線の開業に伴って京阪神からの距離もグ~ンと短くなり、今や水のきれいな、公害のない、波静かな小浜は〝坊やに見せよう若狭の海を″のキャッチフレーズのとおり、国鉄指定の周遊モデルコースにもなっています。


 小浜には、上記の案内にあるように、北側に素晴らしい自然の景観に恵まれた山と海があり、南側に「海のある奈良」と称されることでわかるように多くのすぐれた仏像や建造物のある寺院群などがある。1979(S54年の時は遊覧船に乗って蘇洞門見物などもしたのだが、今回は日数・時間の関係で「国宝巡り」だけに絞っていたため、そのとき回ったお寺関係の説明だけ、当時のパンフレットにあった説明の引用・紹介を中心に記載します。
  なお、1979(S54年の小浜・国宝巡りは車ではなく普通の旅行で、バスや徒歩ではとても回りきれないため、やむなく友人と二人でタクシーを「半日(4時間)貸切り」にしてもらって回ったのだった。

  ☆「若狭」には「朝鮮語ワカソ(行き来)が訛って宛字した地名」という説もある(神宮寺パンフレット)。

 
 
   
(山寺作成 小浜国宝巡り 概略地図)

 
   「〝海のある奈良〟 小浜市の 国宝めぐり ごあんない」
           [ 1979(S54年 小浜市発行のパンフレット 一部省略・句読点等表記一部改変 ] 
                                        
☆印黒字の部分は小生の補記。

 
   〔円照寺〕 美しく掃き清められた境内、モリアオガエルの生息する見事な庭園、四季移りゆく禅寺に金色燦然たる北陸随一の大日如来像に接する時、人はみな無我の境地に引きこまれる。

  臨済宗南禅寺派
 創立不明なるも、初め大日山堂谷に建立され、真言宗で遠松寺と称したが、文安元年(1444)現地に移され、その後越前杣山城主・瓜生民部の娘・慶智尼の発願により再興され、円照寺と改め、臨済宗に改宗された。
     ○木造大日如来坐像(重文)  像高251.5cm 作伝春日仏師 平安時代
     ○木造不動明王立像(重文)  像高158.7cm 平安時代
     ○庭園 江戸時代初期の造園になる庭園


 
   
円照寺入口

 
回遊式庭園

 
  〔妙楽寺〕   霊峰多田ヶ岳の麓、渓流の音律と杉木立を縫っての参道と境内の静寂な散策はしばし世俗を離れさせてくれる。

  高野山真言宗
 養老三年(719)僧行基の開創にして延暦十六年(797)弘法大師が再興したと伝える。
     ○本堂(附厨子) (重文) 鎌倉時代の建立、若狭における最古の建造物である。寄棟造り桧皮葺、和様
                 天井は寄棟式化粧屋根裏、内外陣境に菱間と格子戸を入れて区画、内陣正面の厨子は
                 永仁年号の墨書あり。 
     ○木造千手観音菩薩立像 (重文) 平安中期


     
 
   
山 門
 
本 堂(重文)
 
  〔多田寺〕  清らかな多田川の上流、さわやかな渓谷の涼風に心なごむ。春秋の彼岸には眼病に霊験あらたかな本尊薬師如来の参拝でにぎわう

  高野山真言宗
 奈良時代、孝謙天皇の勅命によって創建されたと伝えられる。本堂は江戸末期の建立のものである。
     ○木造薬師如来立像 (重文) 立像(日光菩薩) (重文) 
     ○木造十一面観音菩薩立像(日光菩薩) (重文) 奈良時代
     ○木造菩薩立像(月光菩薩) (重文) 平安初期

☆「多田のお薬師さん」 本尊の薬師如来立像(重文)には目が刻まれていないところから眼病の治癒にご利益があるといわれ、地元の人々から「多田のお薬師さん」と呼ばれて親しまれている。なお、この薬師如来は薬壺を持たない薬師如来としても知られている。
 
   
多田寺入口

 
本 堂

 
   〔神宮寺〕  芝生の前庭に立つと神体山を借景に若狭随一の木造本堂が雄大な景観で建ち、春は桜に秋は紅葉に秀でる。毎年三月二日奈良二月堂へお水送りを行なう。

  天台宗
 元明天皇和銅七年(714)泰澄大師の弟子滑元の創建になり、翌年勅願所となり神願寺と称す。鎌倉初期、若狭彦神社別当寺神宮寺と改名、七堂伽藍二十五坊を誇ったが、豊臣時代に寺領没収さらに明治初期の廃仏毀釈によって衰微する。
     ○本堂(重文)  室町時代の建立、単層入母屋造桧皮葺、和様を主体に木鼻に天竺様繰形、唐様束梁など
           の手法を用い妻飾も軒隅の反転と共に若狭随一の華麗な姿である。
     ○仁王門(北門)(重文)  鎌倉時代末期の建立、単層切妻造りこけら葺和様の八脚門、両端に密迹(みっし
           ゃく・吽形)・那羅延(ならえん・阿形)の金剛力士像を安置
     ○木造男神・女神坐像(重文) 男神像は衣冠束帯49.1cm 女神像は小袿姿50.9cm 南北朝時代
     ○スダジイ(椎の木) 本堂前庭向って左側に。根回り15.27m、樹齢約四百年の巨樹。
            (市指定天然記念物)


お水送り
 神宮寺の南に流れる遠敷川(おにゅうがわ)の上流2km程の所にある鵜ノ瀬の淵に流された水は、地下をくぐって奈良東大寺の二月堂で行なわれるお水取りで用いられる香水を汲む二月堂下の閼伽井屋(あかいや。閼伽は梵語で仏前に供える水のこと。)の中にある若狭井に通じていると伝えられており、毎年3月2日の夜には、神宮寺と鵜ノ瀬でお水送り行事が行なわれる。 神宮寺本堂の左手にある閼伽井戸で汲んだ水を鵜之瀬の淵に流すと10日程で東大寺二月堂の若狭井に到達するのだという。

 お水取り 奈良の東大寺二月堂で三月一日から一四日まで行われる修二会(しゅにえ)。特に、三月一二日の深夜から翌日の未明にかけて、堂前の若狭井(わかさい)から水をくんで本堂内陣に運ぶ儀式。儀式の際、大きな松明(たいまつ)を振りかざして二月堂の回廊を駆け巡ることから「おたいまつ」ともいう。 [明鏡国語辞典 第二版]

 
   
本堂(重文)


 
お水送りの閼伽井戸

 
  〔万徳寺〕   敷きつめられた白砂、苔むす石段、木ノ間もれる太陽の光、春はつつじ秋はもみじと四季織りなす自然の演出に名勝庭園心憎いまでの美を心に残してくれる。

  高野山真言宗
 音無川の岸にあった極楽寺が兵火にかかり江戸時代初期、今の山麓に移されて再興、万徳寺と改称し真言宗に改めたと伝える。
     ○木造阿弥陀如来坐像(重文) 極楽寺の本尊であったという半丈六仏 像高145cm 平安初期
                          台座の裳懸座が特徴
     ○絹本著色弥勒菩薩図像(重文)  宝塔を持って座る弥勒菩薩の見事に描かれた逸品。 鎌倉時代
     ○庭園(国指定名勝)  埋石式枯山水庭園  江戸時代初期
     ○山モミジ(国指定天然記念物)  根元の回り3.54m  樹齢450年以上

小浜市のHPの紹介記事(教育委員会)には以下のような記述がある。
 「応安年中(1368~1374)安芸円明寺の覚応法印が各地を廻り、この地にあった天台宗極楽寺を正照寺と改め真言宗を広めました。天文13年(1544)、祈願所となり、罪人は入寺すれば助かるという若狭唯一の「駆け込み寺」となりました。慶長7年(1602)寺号を萬徳寺と改めました。」
 
 
   
書 院

 
埋石式枯山水庭園(国指定名勝)

 
  〔国分寺〕  天平仏教文化の花咲いた若狭の中心地。往時の隆盛を偲ばせる遺構の前にたたずむと古代若狭文化の息吹きがそっと私たちの心に甦える。

  曹洞宗
 天平十三年(741)、聖武天皇は諸国に国分寺造営の詔勅を出され、建立された若狭国分寺は、幾度かの災厄によって焼亡。現在の釈迦堂は慶長十五年(1611)の建立である。
     ○木造薬師如来坐像(重文) 像高91cm 伝春日仏師作  鎌倉時代
     ○木造釈迦如来坐像 丈六釈迦如来坐像は県下最大の巨像  像高318cm
                    本像の体部は鎌倉時代、頭部は江戸時代(市指定文化財)
     ○若狭国分寺跡(国指定史跡) 昭和四七年(1972)より三ヵ年にわたる発掘調査によって南大門、中門、
                          金堂、講堂、塔などの遺構が確認された。



 
 
釈迦堂

 
中門跡

 
    〔明通寺 みょうつうじ〕  松永川の上流カジカの声する幽谷と老杉茂る木立ちの中に裏日本随一の国宝三重塔がスックリと立つ。そこに棡(ゆづり)の巨樹に憩う老仙の姿を見るのは幻覚であろうか。苔むす岩の根を澄んだ水が洗う情趣は忘れ難い。 
              
                                ☆棡(ゆづり=木の名。ナラガシワ)

  真言宗御室派
 大同元年(806)、坂上田村麻呂公の創建。
     ○本堂(国宝) 正嘉二年(1258)の建立。単層入母屋造桧皮葺。鎌倉時代。
     ○三重塔(国宝) 文永七年(1270)の建立。三間三重塔婆。総高22.12m。 桧皮葺。鎌倉時代
     ○木造薬師如来坐像(重文) 像高144.5cm 藤原時代
     ○木造降三世明王立像(重文) 像高252.4cm 藤原時代
     ○木造深沙大将立像(重文) 像高256.6cm 藤原時代
     ○木造不動明王立像(重文) 像高161.8cm 藤原時代
     ○カヤの木  太さ3.2m  樹齢約五百年 (市指定天然記念物)

 
 ☆桓武天皇の延暦25年、坂上田村麿が北陸巡行中、この山中で一本の棡の老樹の下に幾年となく修行する老人に出合った。将軍はその老人の命のままにここに一宇の堂を建て、棡にちなんで棡山と名づけ、その樹上に光明の輝いていたことから光明通寺と名づけたのだという。

 
   
本堂(国宝)


三重塔(国宝)

 
   〔羽賀寺〕  羽賀山の麓、女帝元正天皇の御影と尊崇される十一面観音菩薩の御姿を拝する時、人みなその美しさにしばし言葉を失なう。本堂前庭より千町田の黄金色のそよぎと散り敷く落葉が参道に埋まる風景が心に残る。

   高野山真言宗
 霊亀二年(716)行基が勅命を奉じて創建したと伝える。
     ○本堂(重文) 文安四年(1447)建立。入母屋造桧皮葺。室町時代。
     ○木造十一面観音菩薩立像(重文) 像高146.4cm 平安初期
     ○木造千手観音立像(重文) 像高135.4cm 長寛三年(1165) 仏師勝厳の作(像内墨書銘による)
     ○木造毘沙門天立像(重文) 像高159.4cm 治承二年(1178)の像内墨書銘
     ○紙本墨書羽賀寺縁起(重文) 後陽成天皇の勅筆 縦50cm全長430cmの巻物 平安後期


 
   
羽賀寺入口

 
本堂(重文)

 
       



〔第3日〕 7月13日(木) 宮津-天橋立-伊根-経ヶ岬-城崎

地域・場所 ルート・観光・見学箇所等 読み方  着時刻 発時刻
(通過
)
メーター 説 明 ・ 案 内 等
宮 津 うらしま荘     8.25 536.1  
    …R178-K2…          
 天橋立 天橋立駐車場    8.31    539.3  
    智恩寺文殊堂          
    廻旋橋          
    天橋立          
  天橋立駐車場      9.27  539.3  
    …K2-R178-国分…          
  成相寺 成相寺入口  なりあいじ   9.35    
  成相寺駐車場    9.45 9.47 550.9 Pまでかなりのヘアピン・急坂あり。休憩。
  成相寺上展望所   9.50 10.10  552.2 駐車場から3分程上る。「成相山パノラマ展望所」
  成相寺駐車場   10.13   553.5  
    成相寺          
  成相寺駐車場     10.35 553.5  
  成相寺入口     10.44   途中、数分ほど売店に立ち寄る。
    …R178…          
     成相寺下GS   10.45 10.50 557.3 給油
伊 根 伊根漁港  いね 11.13 11.20 574.5 対岸の舟屋群を見る
  舟屋の里公園  ふなや 11.25 12.25 575.8 昼食
    …R178…           
  浦嶋宇良神社(伊根町本庄)   12.40 12.50 586.3  
  経ヶ岬 きょうがみさき   13.12 13.20 596.9  
  道の駅 てんきてんき丹後   13.50 14.05 611.5  
    …R178…          
  久美浜          
    …K11-K9…          
  城崎温泉 つるや旅館駐車場    15.30   659.7  旅館前の公園内
城 崎 城崎温泉 つるや旅館   15.40 16.10   休憩・荷物整理
      温泉街散策・買物          
      鴻の湯(外湯)・入浴 こうのゆ        
    つるや旅館   18.00頃 19.00頃   夕食
      外湯巡り            (御所の湯-一の湯-柳湯-まんだら湯) 
    つるや旅館(泊)         21.00頃      
            (123.6)
             


  〔天橋立(公園)〕  松島、宮島とともに日本三景の一つとされる名勝地。日本海を流れる対馬海流に運ばれてきた砂と野田川から流れ出た砂が長い時間をかけてつくりあげた、長さ3.6㎞、幅は20~170m程の砂州で、宮津湾を二つに割くように宮津湾と阿蘇海(あそかい。天橋立の西側)との境をなしている。
 南端の文珠から北端の府中(丹後半島の東側にある町)までの公園内は1時間ほどで歩くことができる。松林の中を行くと橋立明神や磯清水(名水百選)、岩見重太郎仇討の碑などがある。東側の宮津湾に面した海岸は夏には大勢の人が泳ぎに来る白砂西松の海水浴場になっている。


〔回旋橋〕 南端に近い部分には水路をまたいで二つの橋が架けられており、北側の大きい方が大天橋、南側が小天橋と呼ばれており、小天橋は電動式の回旋橋で文殊水道に船が来ると中央の橋脚を中心に90度回転する。


〔智恩寺〕 平安時代初期の808年(大同3年)の平城天皇の勅願によって創建された寺という。宝形造の本堂(文殊堂)にまつられている本尊の文殊菩薩(鎌倉後期・重文・秘仏)は「切戸(きれど)の文殊」などともよばれ、安倍文殊(奈良県桜井市)、亀岡文殊(山形県高畠町)とともに日本三文殊の一つとして知られている。
 黄金閣と呼ばれる大きな山門をくぐった境内には多宝塔[室町時代・明応9年(1500)建立・重文]鐘楼門(暁雲閣)、和泉式部の歌塚などがある。


 
   
智恩寺文殊堂

 
黄金閣

 
   
多宝塔

 
天橋立公園

 
 
成相寺パンフレット 天橋立

 
 
  〔成相寺〕 成相寺HPにあった簡明な説明を引用、紹介しておきます。
  
 「 成相寺は天橋立を望む成相山の中腹にあり、元々は日本古来の山岳宗教の修験場でした。日本全国にある五つの「聖の住む所」の一つとして信仰を集めてまいりました。その中で文武天皇の勅願所として慶雲元(704)年に真応上人が創建したと伝えられています。悲話を伝える撞かずの鐘、奇怪な話の底なし池、美人観音として名高い聖観世音菩薩などがあり、しゃくなげの名所でもあります。

  本寺は「身代り観音」
☆1「撞かずの鐘」☆2などの伝説で知られています。車道もありますが、ケーブルカーと登山バスを乗り継いでお参りされるのも楽しいでしょう。どちらも天橋立を眺めながら上がれます。西国札所☆3最北端のお寺で、冬は雪が深くなりますが成相寺から見る雪の天橋立も格別です。」(成相寺について)

 「 もともと、本堂は現在より山の上に建てられていましたが、山崩れのため現在地へ移転しました。本堂は安永3年(1774年)の建築です
☆4
 古式に則り、5間4方の入母屋造、正面を千鳥破風、軒唐破風で飾っており、堂内のお厨子に安置された本尊の木造聖観世音菩薩は、平安期のものです。」 (参拝のご案内)

☆1 別のページに寺名の「由来」として次のような伝説が記されている。
 「一人の僧が雪深い山の草庵に篭って修業中深雪の為、里人の来住もなく食糧も絶え何一つ食べる物もなくなり、餓死寸前となりました。死を予感した憎は「今日一日生きる食物をお恵み下さい」と本尊に祈りました。
 すると夢ともうつつとも判らぬ中で堂の外に狼の為傷ついた鹿が倒れているのに気付がつきました。僧として、肉食の禁戒を破る事に思い悩んだが命に変えられず、決心して鹿の腿をそいで鍋に入れて煮て食べました。
 やがて雪も消え里人達が登って来て、堂内を見ると本尊の腿が切り取られ鍋の中に木屑が散って居ました。
 それを知らされた僧は観音様が身代りとなって助けてくれた事を悟り、木屑を拾って腿につけると元の通りになりました。此れよりこの寺を願う事成り合う寺、成合(相)寺と名付けました。 」(由来)

☆2 境内にある「撞かずの鐘」は、鐘を撞くと、鐘を鋳造する際に誤って命を落とした子供の泣き声のような音がするため、撞かなかったという伝説が伝えられているという。

☆3 西国三十三観音 第28番札所  最も北にある札所

☆4 本堂には左甚五郎作という龍の彫刻が残っている。本堂の下、山門近くの広場に面して、1998年(平成10年)に完成した新しい五重塔がある。鎌倉時代の建築様式を再現した塔だという。


  成相寺へは国道178号線の国分から丹後郷土資料館・丹後国分寺跡へ向かって左折する。寺の手前ではかなり傾斜のきついヘアピンカーブが続くので注意が必要。成相寺への参拝を後回しにして寺の駐車場を通り過ぎてしばらく上ると「日本一」と銘打った「成相山パノラマ展望所」がある。成相寺の下にある、天橋立の「股のぞき」で有名な笠松公園よりずっと高い所にあるので展望は抜群である。


 
   
天橋立(成相山パノラマ展望所)
 
成相寺本堂
 
     
  〔伊根の舟屋〕  伊根の集落では入り江を囲むように海べりに漁師さん達の家々が並んでおり、その山側に道路がある。道路から見ると普通の家と変わりはないが、海側から見ると家の一階部分が海に向かって口を開けており、海から直接舟を格納できる舟倉になっている。この「舟屋」と呼ばれる家の構造は、海岸まで山がせまった地形と、舟を大切にする伊根の人々の気持ちが創り出したものなのであろう。伊根湾ぞいに約230の舟屋があるといわれており、入り江の東側に回りこんで漁港のようになっている所まで行くと対岸の舟屋を海側から見ることができる。なお、3月~11月の間は集落西側の日出という所から伊根湾めぐりの遊覧船が運航されている。舟屋が立ち並ぶ景観は全国的にも大変珍らしいもので、重要伝統建造物群保存地区に指定されている。

 舟屋の里公園   伊根湾を北側から見下ろす高台に「舟屋の里公園」があり、そこに道の駅「舟屋の里 伊根」がある。レストラン、お食事処みやげ物店などがあり、食事や買物ができる。

           
 
   
舟 屋

 
伊根湾

 
  浦嶋宇良神社〕  伊根町観光協会のHPなどには「浦嶋神社」と記されているが、1989(平成元)年の11月に初めてこの神社を訪れた際に手に入れた神社発行のパンフレットの表題が「浦嶋宇良神社」となっていたのでその通りに表記することにしました。パンフレットにあった神社名・起源などについての説明と浦嶋太郎伝説の要約文を引用・紹介しておきます
  
鎮 座 地  京都府与謝郡伊根町本庄
祭   神   浦嶋子(浦嶋太郎)
相 殿 神  月読命・祓戸神 

 字良神社は祭神の名に因んで浦嶋神社と称されている。創祀年代は淳和天皇の天長二年(八二五)に浦嶋子を筒川大明神として祀るのが始めてであると伝えている。延喜式神名帳によると字良神社(うらのかむやしろ)として所載している。

  浦嶋子は丹後国与謝郡筒川の荘で浦嶋太郎の子であって父の名前を頂き、浦嶋太郎ともよばれていた。その大祖は月読命の子孫で当地の領主である。人皇二十二代雄略天皇の御字二十二年(四七八)七月七日に美婦に誘われ常世の国に行き、その後数百年を経て五十三代淳和天皇の天長二年(八二五)に帰えってきた。常世の国に住んでいた年数は三百四十七年間で、淳和天皇はこの話を聞いて同年七月二十二日浦嶋子を筒川大明神と名づけ小野篁を勅使として、勅宣をのぺたうえ小野篁は勅命をうけたまわって宮殿を造営し、ここに筒川大明神が鎮座したのである。(中略)

 この神社に伝わる浦嶋物語りは起源が最も古く、すでに八世紀にできた丹後風土記・日本書紀・万葉集などに記載があり、また延喜二十年(八二〇)撰の続浦嶋子伝およびそれに先行した浦嶋口伝記、浦嶋子伝などがある。近世以降の日本人に最も親しまれてきた民話の一つお伽話とは様相を異にしている。それは最も古い浦嶋の物語を伝えている。


   浦嶋のおはなし(浦嶋口伝記要約)

 雄略天皇ニ十ー年秋七月、丹後国与謝郡筒川庄に住む容姿端麗な水江浦の嶋子は、ひとり舟に乗り海上に浮んで釣りをしていたが、一匹の魚も釣れず、三日目に諦めて竿を上げようとしたところ、一匹の五色の大亀を釣りあげた。嶋子は舟中に上げ眺めているうちにやがて居眠りをしてしまい、目を覚ますと亀は大変美しい乙女の姿となって、嶋子を誘い、相ともなって舟にて常世の国に至る。常世の国の宮殿は目にしたこともなく、耳にした事もなくきらびやかであり「夢を見ているのでは?」と乙女に尋ねると、「常世の国であり君と共に住むところである」ことを知らされる。その後二人は手を取り合い、乙女のりっぱな屋敷に案内をされる。門の前で乙女は嶋子を待たせ、両親に夫婦の許しを得に門の中に入って行く。その間嶋子の前には七人の子供達と八人の子供達が、それぞれ神女(おとひめ
であることを告げに出てくる。その子供達にいたずらをされるが、その時初めて亀姫(神女・おとひめ)であることを知らされ、不安に待たされる。その後神女と嶋子は一緒になることを許され、夫婦となって毎日悦楽にひたった。ところが嶋子に望郷の思いかあることを知った神女は、嶋子に大変美しい衣を着せ、神女の分御霊(わけみたま)の入った玉櫛笥(玉手箱)を与えて再会を期するならば玉櫛笥の蓋を開くなと告げて固い約束の後常世の浜から舟にて送り返えされる。水江の浦に帰った嶋子は、故里の人跡絶えて古松のみ聳(そび)える変り果てた有様を見る。驚きさまよううち筒川の川の辺で洗濯する老女に出合い、「三百年の昔、嶋子という者が海に出たまま帰ってこなかった」という云い伝えがあることを聞かされる。嶋子は常世の国の生活が、三百年にもあたるものであったことをさとり、その後十日間程生きてはいくが、日毎に神女を思う心がつのり、約束を忘れて玉櫛笥の蓋をあける。中から紫雲が立ちのぼリ常世の国の方へたなびき、その紫雲をおっていくうちに白髪の老翁と化し、ついに亡くなっていった。


   
神社の所蔵する主要な「御宝物」には、「浦嶋神絵巻」(重文)、「浦嶋明神縁起」(室町初期・重文)、伝説にちなんだ玉手箱(玉櫛笥)二合、神御衣(かんみぞ)[白練緯地桐桜土筆肩裾文様繍小袖(しろねりたてじきりさくらつくしかたすそもんようぬいこそで)]一領(重文)などがある。 

  1989(平成元)年の11月に初めてこの神社を訪れた際には、神主と思われる方が参拝者を座敷に招じ入れ、さまざまな宝物の説明をしてくださったうえ、絵巻物を広げて「浦島太郎伝説」の話してくださったりしたのだが、話がなかなか終わらないうちにバスの時間が来てしまったため、やむなく中座してしまったのだった。
  今回は神社の社務所にはどなたもおられなかったようで、残念ながら宝物の拝観も、「浦島太郎伝説」の話を聞かせていただくこともできなかった。


 
   
浦嶋神社


 
浦島太郎と神女(おとひめ)の像


 
  〔経ヶ岬〕 丹後半島の北の先端である。断崖の上に立つ経ヶ岬灯台は1世紀以上前の明治31年(1898年)末に初点灯したもので、全国で6台しかない最高級の第1等レンズを使用して日本海を航行する船舶の安全を守り続けてきた灯台だという。  

 灯台に近いと思われる駐車場までは行ってみたのだが、灯台まではしばらく歩いて往復しなければならないようだったのであきらめ、休憩しただけで城崎温泉へ向って出発した。


 
 
  〔城崎温泉〕  奈良時代以来の古い歴史を持つといわれる温泉で、街の中心を流れる大渓川(おおたにがわ)をはさんで和風の旅館が立ち並び、川の両岸には柳並木が続き、その所々にいくつか小さな石橋がかかっている。
 しっとりとした温泉情緒が漂う温泉街で、 マッバガニをはじめ日本海でとれる新鮮な海の幸も楽しめるため、年間を通じて多くの観光客が訪れるという。

  城崎温泉観光協会のHP「昔話」の頁には『城崎温泉』の起源について次のように記されている。

 「時のみかど舒明天皇(629)の頃、けがをしたコウノトリにより発見されましたのが『城崎温泉』の起こりとされていますが(鴻の湯の由来)、その後、元正天皇の養老元(717)年、この地を訪れた道智上人が難病の人々を救う為に、当所鎮守四所明神に祈願を込め、明神の神託を得て一千日の間八曼陀羅を唱え、その祈願によって『城崎温泉』が開かれたとされています(まんだら湯の由来)。」 
  
                                   ☆「鴻の湯・まんだら湯」は外湯の名。

 
 
   
街の中心を流れる大渓川

 
城崎温泉と円山川(大師山頂より)

 
  〔外 湯〕 城崎温泉観光協会発行の「観光パンフレット」には次のような言葉がある。

     城崎名物といえば  「外湯めぐり」でございます。 外湯めぐり発祥の地と申しても よいでしょう。
   遥か昔から城崎の人々は 宿を客間、道を廊下とし 湯治に訪れた人々を町全体で もてなしました。


  城崎温泉では内湯の温泉につかって楽しむというより、古い由緒と風格のある七つの外湯(共同浴場)めぐりを楽しむ方が有名でメインである。旅館宿泊者には各旅館で外湯券(無料)をくれるので必要な枚数もらって外湯をめぐる。浴衣に着がえ、ゲタを鳴らしてみやげ物店などをのぞきながらそれぞれに特徴のある七つの外湯をめぐって歩くのも楽しい。
  他の温泉地の外湯が、何もなく、あまり広くもない無人の脱衣場とそのままでは入れないような熱い湯の入った浴槽が一つぽつんとあるだけというようなのが多いのに対して、城崎温泉の外湯は一つ一つが独立した普通の入浴施設のようになっていて、いろいろな設備や浴槽があったりして入浴者を楽しませるような工夫がなされていたりする。

 数十年前、友人と初めてここに来た時には、夏だったため、浴衣をビショビショにしながら若さにまかせて七箇所全部をまわり、さらに旅館の内湯にも入るということをやったことがある。もちろん今回は夕食前に一つ、夕食後に四箇所ほど、合計五箇所まわっただけで宿にもどったのだった。もっとも、翌朝、起き抜けに宿のすぐ近くにある鴻の湯で朝風呂に入ったりはしたのだが。
 全部回りたい場合は、一晩に一度で全部回るのは少々きついので、午後早めにチェックインし、夕食の前後に分けて回るようにすればよいと思う。七湯のうち、鴻の湯、御所の湯、一の湯、地蔵湯などが観光客向きだという。なお土日以外は、各湯に週一の定休日があるので注意が必要。


 
  〔志賀直哉〕 ここ『城崎温泉』には古くから多くの文人たちが訪れているが、特に有名なのが志賀直哉である。かつて高校の現代国語(現代文)の教科書に載っていたことのある短編小説『城の崎にて』はこの地、城崎温泉の三木屋旅館に逗留している時に書かれたものだという。三木屋旅館のHPには次のように記されている。

  「 志賀直哉と三木屋
大正2年、30歳の時に山手線に引かれ大怪我を負った後の養生に城崎温泉を訪れ当館へ約3週間逗留されました。その間に当地で目の当たりにした蜂、ネズミ、イモリの3つの生き物の死と、九死に一生を得た自分とを照らし合わせて名作「城の崎にて」は執筆されました。以降長きに渡りご贔屓
(ひいき)にして頂き、執筆の為にお1人で、自樺派のご友人やご家族とのご旅行など様々なシチュエーションでお越し頂きました。
大正14年の北但大震災によって当館は一度倒壊しましたが昭和2年の再建以降の愛用のお部屋や当館主人宛ての直筆ハガキなどは今でもご覧いただけます。」


 ☆ 『城崎にて』の記述からすると、下の写真の屋根付玄関の屋根の左側の2階、ガラス戸の入っていない部屋に
    滞在して「城崎にて」を執筆していたと思われる。

 ☆ 『城崎にて』の記述からすると、「蜂の死」は三木屋玄関上の屋根、「ねずみの死」は街の中心部を流れる大渓
    川が舞台になっていると思われる。


 
   
外湯・御所の湯

 
旅館・三木屋

 
 
城崎温泉旅館協同組合のHP「お宿とれとれ」掲載のMAPを組合了解のもとに紹介

 
 
城崎温泉旅館協同組合発行のパンフレット
 



〔第4日〕 8月1日(日)   城崎-出石-餘部-鳥取

地域・場所 ルート・観光・見学箇所等 読み方  着時刻 発時刻
(通過
)
メーター 説 明 ・ 案 内 等
城 崎 つるや旅館     6.00    
   鴻の湯(朝湯入浴) こうのゆ 6.01 6.45    現在は朝7時より
  つるや旅館      8.55    薬師公園へ
  ロープウエイ・山麓城崎温泉駅   9.00 9.10   9.10始発
     大師山頂駅   9.17 9.30   山頂公園・温泉街展望台
     中間・温泉寺駅   9.33 9.53   温泉寺拝観
  ロープウエイ・山麓城崎温泉駅   10.00      
  つるや旅館駐車場     10.10 659.7  
    …K548-R426…           
  玄武洞   10.23 10.42 665.6  
  豊岡          
出 石 出石・西の丸駐車場 いずし 11.30   687.6  
     出石城跡            
     辰鼓楼          
     家老屋敷          
     昼食・皿そば          
  西の丸駐車場     13.05 687.6  
豊 岡 豊岡          
    …R178…          
餘 部 餘部鉄橋 あまるべ 14.38 14.45 746.2  
    …R178・R9…           
鳥 取 鳥取砂丘   15.38 16.40 787.8  
  白兎会館(泊)   17.00   795.5  
            (135.8)
             
             

  〔城崎温泉〕  本当は前日に大師山山頂からの展望を楽しんだり、温泉寺を拝観したりしたかったのだが時間がなくてできなかったため翌日にまわしたのだった。が、当日朝、できるだけ早く出発したかったにもかかわらず、ロープウエイの始発が遅いため、やむなく出発準備を全部すませ、チェックアウトした上で始発のロープウエイに乗るというふうにせざるをえなかった。幸い宿の駐車場がロープウエイ乗り場と同じ薬師公園内だったので、山から下りてきてすぐにそのまま出発することができたのだった。


 
  〔薬師公園・大師山〕 温泉街の西の最奥には温泉寺薬師堂がある薬師公園があり、その一角のポッケットパークには泉源や足湯、温泉卵を作れる売店などがある。大師山山頂行きのロープウエイの山麓駅もあり、7分ほど上った大師山頂からは東西に細長く続く温泉街(前日写真参照)やその東側をゆったりと流れる丸山川とその先に広がる日本海などを一望することができる。


 
  〔温泉寺〕 ロープウエイの中間駅の目の前には温泉寺がある。そのなだらかな勾配の美しい屋根をもつ本堂の大悲殿は、国の重要文化財に指定されており、内部には国重文の千手観音立像や秘仏十一面観音立像などが安置されている。その奥には多宝塔と城崎町美術館もある。
 美術館には温泉寺所蔵の仏像や掛け軸など由緒ある文化財や、円山川流域にある遺跡や古墳からの出土品が展示されている。 


 
   
薬師堂

 
温泉寺本堂(重文)

 


  〔玄武洞〕  円山川の東岸に面した山裾にあり、玄武岩のみごとな柱状節理の岩壁に洞穴がぽっかりと口を開いている。自然がつくりだしたすばらしい造形美といわれ、国の天然記念物に指定されている。玄武岩のみごとな柱状節理を見ることができる、最も大きな玄武洞の他、青龍洞白虎洞南朱雀洞北朱雀があり、それらの洞窟と玄武洞ミュージアムと合わせて玄武洞公園として整備されている。
  約160万年前に起こった火山活動によって、山頂から流れ出したマグマが冷えて固まる時に玄武岩塊が形成され、不思議な美しさを見せる規則正しいきれいな割れ目を作り出し、約6000年前に波の侵食によってその玄武岩塊が姿を現し、人々がそれを採掘したために洞となったものだという。


 
  〔出 石(いずし)  出石は兵庫県豊岡市にある、かつての出石城の城下町。城下町として整備された町割が碁盤の目状であることなどから、但馬(たじまの小京都とも呼ばれることもあり、国の重要伝統的建造物群保存地区に指定されている。
  「但馬國出石観光協会」発行の観光ガイドマップ「出石散策絵図」にあった出石についての次のような説明と「絵図」の一部(中心部)を紹介しておきます。

  日本の歴史に関わる山間の小国『出石』
出石は「古事記」「日本書紀」にも登場する古い町です。但馬
開発の祖神「天日槍」(あめのひぼこ)がこの地を拓いたと伝えられています。室町時代には、山名時氏が但馬を制圧、その子時義が此隅山(このすみやま)に本拠を構えたことにより、出石は但馬の中心として繁栄しました。その後、時義の孫、宗全(持豊)は応仁の乱を引き起こし、西軍の大将となりました。しかし、戦国時代に入り、織田軍に攻められ此隅山城は落城、その後、有子山(ありこやま)に城を移しましたが再び攻められ有子山城も落城しました。その後、小出氏が領主となり、山麓に平山城を築城、城下町作りを行いました。元禄十年(一六九七)松平氏が移封されましたが宝永三年二七〇六)に信州上田の仙石氏とお国替えになりました。仙石氏は七代に渡り、出石藩を治めましたが、仙石騒動により減封され明治に至っています。

  なお、Wikipediaの説明には「明治9年の大火により80%以上の建造物を焼失したが町割は文化7年(1810年)の絵図の状態がほぼ完全に残り、そこに建設された明治時代の寺院や町家、および焼失を免れた武家屋敷や社寺が現存し、近世後期の城下町の歴史的風致を今日に伝えている。」とある。

  
 
 
但馬國出石観光協会」発行の観光ガイドマップ「出石散策絵図」(一部・中心部のみ)


 
   出石城跡  出石城は街の南、有子山(321m)の山麓に小出吉英(よしひさ)が慶長9年(1604)に築城、以後明治維新まで小出、松平、仙石の各氏の居城であった。現在、本丸、二ノ丸、三ノ丸の石垣が残っているだけだが、昭和43年に隅櫓が復元され、その後登城門や登城橋も建設された。本丸跡に稲荷神社があり、そこから城下町ならではの町並みを見渡すことができる。

 
   辰鼓楼  旧三の丸大手門跡の一隅に見張台として建設されたもので、辰ノ刻(午前8時)に藩士の登城を知らせる太鼓櫓でもあったという。旧藩時代の姿そのままに残り、明治十四年に寄贈されたオランダ製の大時計が取りつけられてから出石名物の時計台になったのだという。

 
   出石家老屋敷  武家屋敷らしい落ち着いた雰囲気を感じさせる白壁の築地塀や長屋門が美しいこの屋敷は出石城内にあった出石藩の家老仙石氏などの上級武士(家老級)の居宅として使われていたもので、外観は平屋建てだが隠し2階があったりして不意の襲撃に備えた造りだという。天保年間に仙石騒動(二人の家老の勢力争いに端を発するお家乗っ取り騒動)の首謀者であった仙石左京の屋敷があった所でもあるため「左京屋敷」とも呼ばれるという。

 

   
出石城跡

 
振鼓楼

 
     
   
家老屋敷・長屋門

 
出石街並み

 
  出石には、この他に、
    宗鏡寺【すきょうじ】 (漬物の沢庵漬けを広めたといわれている孤高の禅僧、沢庵和尚が再興した寺)
    桂小五郎居住跡 (長州藩が蛤御門ノ戦いに敗れた後、出石に逃れてきた桂が潜伏していた所という。)
    おりゅう灯籠 (舟着場跡にある灯籠)
    武家長屋資料館 (幕末の足軽長屋
    出石町立史料館 (建物は明治の生糸を商った豪商の旧邸)
などの観光ポイントがあるが、時間の関係で見て回ることはできなかった。

  が、出石といえばよく知られた「出石皿そば」がある。ちょうど昼時でもあり、城崎の旅館でもらってきた割引券もあったので、時間を気にしながらもこれだけはと挑戦してみた。味音痴の小生にはそばそのものの微妙な味などはよくわからなかったが、五つの小皿と数種の薬味等がついてくる、その出方、食べ方が変わっていておもしろく、いろいろな味が楽しめて、全体として満足できるおいしいものであった。

  「出石皿そば」とはどんなものか、「但馬國出石観光協会発行の観光ガイドマップに載っていた説明と写真を紹介しておきます。

 
      三百年の伝統が育んだ 出石皿そば
宝永三年(一七〇六)に出石藩主松平氏と信州上田の仙石氏がお国替えとなりました。その際、仙石氏と供に信州から来たそば職人の技法が在来のそば打ちの技術に加えられ誕生しました。 その後、出石焼が始まり白地の小皿に盛る様式が確立されました。今では、約50軒ものそば屋が並ぶ関西屈指のそば処として知られています。


 
   (ひ)きたて、打ちたて、茄(ゆ)がきたて
  伝統の「三たて」製法

多彩な薬味も出石そばの特徴で、わさび・ねぎはもちろん、多くのお店で玉子・山芋等も定番の薬味としてそえられています。また、お店では一人前5皿となっていますが、地元では、箸を立てた高さを食べるとそば通と言われています。

  食べ歩きの参考に
お皿はお店の顔。おそばが盛られた小皿は、屋号や絵など独自の意匠が施されています。また、 指定枚数を食べると記念品がもらえるお店もあります。(要確認)

  「おせっかい」 食べ方指南
一、つゆをお猪口に注ぎつゆの旨味を味わう。
二、まず、そばとつゆだけで、麺を味わう。
Ξ、次に薬味。ねぎ・わさびでさっぱりと。
四、山芋・玉子で、違った美味しさを味わう
五、最後はそば湯でしめて、ごちそうさま。


   
 
〔餘部あまるべ鉄橋〕  山陰本線鎧駅 - 餘部駅間にある橋梁(単線鉄道橋)で、香住を過ぎて鳥取に向う国道178号線が下を通る(餘部駅からは徒歩10分程の所)。1912年(明治45年)3月1日に開通した、わが国最初の、鋼材をやぐら状に組み上げた橋脚が特徴的なトレッスル型橋梁で、この種のものでは日本一の規模を誇ったものだという。

  1986年(昭和61年)12月28日13時25分頃、香住駅より浜坂駅へ回送中の8両編成の客車列車が日本海からの最大風速約 33 m/s の突風にあおられ、客車の全車両が台車の一部を残して、橋梁中央部付近より脱線転落し、橋梁の真下にあった水産加工工場と民家を直撃、回送車だったので乗客はいなかったが、乗務員と工場従業員の6名が死亡し、6名が重傷を負うという事故が起こった。初めての事故だったという。

 その後、2007年3月からの3年余の架け替え工事を経て、エクストラドーズドPC橋(主塔と斜材により主桁を支える外ケーブル構造)という新しい形式のコンクリート造りの現在の橋梁が完成し、2010年8月12日に供用が始まった。最寄駅である餘部駅の裏山には展望所が設けられているという。   ☆下の写真は2006年7月の旧鉄橋。

 
   

 

 
       
  〔鳥取砂丘  山陰海岸国立公園のメインポイントで、鳥取市の北に位置し、曰本海を背景に東西16㎞、南北2㎞にわたって天然記念物に指定されている広大な砂丘がひろがる。赤味をおびた白砂がなだらかな稜線を見せる砂丘は起伏に富み、曰本海から吹きつける風によってさざ波状の美しい風紋や砂廉(されん)☆が描かれ、いたるところにスリバチといわれるくぼみがある。 
 鳥取砂丘は中国山地の砂が千代川(せんだいがわ)によって曰本海に運ばれ、さらに北西の季節風によって内陸に移動、堆積してできたものという。

  ☆砂廉 砂粒が砂丘の急斜面を滑り落ちる様子が簾(すだれ) のように見えるためこのようにいうのだという。

 
 
 
 



〔第5日〕 7月15日(土)    鳥取-境港-松江

地域・場所 ルート・観光・見学箇所等 読み方  着時刻 発時刻
(通過
)
メーター 説 明 ・ 案 内 等
鳥 取 白兎会館  はくと   8.30 795.5  
    …R53・R9…           
白兎海岸 道の駅 神話の里白うさぎ   8.53 9.30 809.5  
    …R9…          
米 子 淀江インター入口(ローソン)   10.53 11.08 878.3 休憩
  二本木(右折)     11.16 883.6  
    …R431…          
弓ヶ浜 弓ヶ浜展望駐車場   11.35 11.50 893.2  
  竹内町 回転寿司(昼食)   12.00 12.30 900.3 三保町の先
 境 港 境港駅前駐車場   12.40   904.8  
     水木しげるロード          
  境港駅前駐車場     13.30 904.8  
    …R431…          
  道の駅 本庄   14.00 14.20 922.3 休憩・買物
松 江 城山西駐車場   14.50   934.8  
     堀川めぐり         15.15-16.00 松江堀川ふれあい広場(乗下船)
  城山西駐車場     16.30 934.8  
  松江ユニバーサルホテル(泊)   16.45   938.1  
            (142.6)
             

  〔白兎海岸〕  白い砂浜が弓なりに連なった美しい海岸で、 大国主神(おおくにぬしのかみ)=大穴牟遲神(おおむなぢのかみ)の神話「因幡の白うさぎ」の舞台といわれている海岸。 

 
  〔道の駅 神話の里 白うさぎ〕 国道9号線沿いにある「道の駅」の目の前には、白うさぎの神話の舞台となった日本海・白兎海岸が広がり、後ろには白兎神社がある。

 
  〔白兎神社〕 白兎神社の主祭神は白兔神で、白兔神とは日本神話に登場する因幡の白兎のことである。その説話の内容から皮膚病に霊験のある神として信仰されてきたという。また、大国主と八上姫神との婚姻を取り持ったことから縁結びの神としても信仰されている。境内への道脇には、神話の因幡の白うさぎが傷口を洗い、治療したといわれる「御身洗(みたらし)池」があり、季節を問わず水位が一定のため、不減不増の池といわれているとのこと。

 
  〔因幡のしろうさぎ〕  「因幡の白うさぎ」は「古事記にある神話。昔、隠岐の島に流されたうさぎがワニザメをだまして気多の崎まで渡ろうとしたが、だまされたことに気がついたワニザメに皮をむかれて苦しんでいる時に、因幡に行こうとして通りかかった大国主神の兄弟である八十神たちが、『海で塩水を浴びて、風に当たって伏していなさい』と教えたので、そうしたところ、体中の皮がことごとく裂けて、痛みに苦しんで泣いていると、後から通りかかった大国主神が『なぜ泣いているのか』と聞き、『真水で身体を洗い、蒲(がま)の穂にくるまっていなさい」と言ったのでその通りにしたら完治したという話。

 
 
   
白兎神社

 
「大国主命と因幡の白うさぎ」の像

 
 
〔弓ヶ浜〕
  日本海の美保湾と中海を隔て、米子と境港をつなぐ半島で、出雲神話で国引きの綱となったとされる弓浜半島。 白い砂浜と松林が続く美しい弓ケ浜海岸は、半島東側の美保湾沿いに弓なりに弧を描き、長さ20kmにわたって続く白砂青松の海岸。半島を貫く国道431号に沿っており、その東側にすばらしい景色を眺めることができる。米子の南から三保湾に流れ込む日野川から運ばれてきた土砂が堆積してできたといわれ、その美しさから「日本の渚百選」、「白砂青松100選」に選ばれている。
 
 
   
中央右端 三保関方面

 
中央右 大山方面

 
 
〔境 港〕
  美保湾、境水道、中海に面した境港は、「環日本海交流」の拠点の一つで、山陰を代表する歴史ある港町であり、日本有数の水揚高を誇る漁業の町。最近は多彩な観光スポットが次々登場しているが、水木しげるロードは人気のスポット。
 
 弓浜半島の北端にある境港の街の、西側の駅周辺や水木しげるロードを見た後、東側を通る国道R431に戻って北に行くと美保湾と中海をつないでいる境水道をまたぐ「境水道大橋」がある。橋を渡ってそのまま国道R431を西に向えば松江、県道k2を東に行けば三保関に到る。


 
  〔水木しげるロード〕 JR境港駅前から800mほど続く通りの「水木しげるロード」は、境港出身の漫画家水木しげる氏の漫画『ゲゲゲの鬼太郎』に登場する妖怪たち、鬼太郎はもちろん、目玉おやじやねずみ男、ねこ娘など、人気者たちのブロンズ像が80体ほど(現在は153体という)も並ぶ人気のスポット。

 商店街には鬼太郎グッズのショップがずらりと並び、鬼太郎焼き(大判焼)、鬼太郎・ネズミ男・砂かけ婆などを型どったパンなど境港でしか買えないキャラクターグッズがいろいろある。妖怪パワーで願い事をかなえてくれるという「妖怪神社」や癒しスポット『河童の泉』のある「妖怪広場」などもある。最近では「水木しげる記念館」 、はがきに妖怪の消印がついて届く「妖怪ポスト」目玉のおやじや猫むすめなどのキャラクターが描かれた「妖怪街灯」、大きな壁に妖怪たちが描かれた「妖怪壁画倉庫」などもできているという。

 
   
境港駅

 
ねずみ男・執筆中の水木氏・鬼太郎の像(駅前)

 
   
MIZUKI ROAD

 
鬼太郎グッズ販売店

 
   
境駅前(河童の三平・タヌキ・カッパ)
 
妖怪神社

 
   
ゲゲゲの鬼太郎の塔

 
ゲゲゲの鬼太郎

 
 
〔松 江〕
 境港の街を出て美保湾と中海をつなぐ境水道にかかる「境水道大橋」を渡ってそのまま国道R431を西に向かう。しばらく中海の北岸沿いに走り、「道の駅 本条」を過ぎてから中海沿いを離れて松江へと向かう。松江の西には中海と大橋川でつながっている宍道湖がある。松江は中海と宍道湖に挟まれた町といってもいいのかもしれない。さらに松江の街は大橋川で南北に分けられ、その北側には松江城を囲むように堀川が巡らされている。さまざまな水に抱かれた松江は、まさに「水の都」といえるだろう。

 「水の都」である山陰随一の都市・松江はまた城下町の風情を色濃くとどめる街でもある。1611年(慶長16)、築城の名手といわれた堀尾吉晴が築いた松江城(別名千鳥城)を中心に、堀尾氏の後に入った松平氏によって特有の豊かな文化の香りを残す城下町として発展した。 城下町の風情を色濃くとどめているといわれるのは城の北堀沿いにある塩見縄手地区。

 塩見縄手地区  道路を挟んで片側には深緑色の堀川に影を落とす、大きく枝を張った老松などが並び、もう一方には趣のある漆喰と板張りの調和の美しい屋敷塀が続いている。伝統美観地区に指定されたこの地区には松江をこよなく愛したといわれる文豪・小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)の記念館小泉八雲旧居、茶の湯美術館ともいうべき田部美術館、格式あるどっしりとした構えの門をもつ武家屋敷(塩見邸)などが並び、少し離れて奥まった所には不昧公 (ふまいこう)こと7代藩主・松平治郷(はるさと)が育んだ茶の湯文化を今に伝える茶室・明々庵がある。

 松江郊外をみると、西には藩主松平家の菩提寺である月照寺、東には八雲の「怪談」にも登場し、茶室・観月庵のある普門院、北東には不昧公の指図によって造られたと言う、国重文の茶室・菅田庵などがある。
  南の郊外に出ると、『出雲神話』に登場する八重垣神社、日本最古の大社造りといわれる国宝の神魂(かもす)神社、出雲国分寺跡や出雲国庁跡などがある島根県立八雲立つ風土記の丘など、出雲の古代世界をうかがわせるものが点在する。
 
 宍道湖は、中海とつながっているため、淡水にわずかに海水が混じった、周囲48km、水深3~6mの汽水湖で、漁も盛んで、宍道湖七珍(スズキやシジミなど7種の魚介)といわれる豊富な魚介類が獲れるという。
朝のシジミ獲りの小舟が湖上に浮かぶ風景もいいが、小泉八雲も絶賛したという夕日の沈む景色がすばらしいとのこと。

  松江大橋周辺の京店商店街には食事処や名産品店が立ち並び、大橋の南、天神町商店街には代々受け継がれてきた茶の湯文化を実感させる和菓子やお茶の老舗が点在するという。


  松江の城山西(じょうざんにし)駐車場に着いたのが午後3時前。時間いっぱいあちこち見て周りたかったのだが、駐車場にわりと近いところにある塩見縄手地区を見て回るにしてもやや時間不足。やむなく駐車場のすぐ近くにある遊覧船乗り場から1時間ほどですむ「堀川めぐり」の船に乗るのがやっとであった。松江城や塩見縄手地区を見て周るのは翌日(第6日)にまわし、この日は「堀川めぐり」だけを楽しむことにしたのだった。

  というわけで、松江城や塩見縄手地区についての説明等は「後半行程 第6日」のほうに記載します。


 
  〔堀川めぐり〕  松江堀川ふれあい広場から堀川めぐりの船に乗ると、四十間堀川(東へ)、城山西堀川(南へ)、京橋川(東へ)、米子川(北へ)、北田川(西へ)と城の西側から南側の大橋に近い市街地へ、そして市街地を東へ、北へ、最後にまた城の北側を西に向って出発地へと戻る。大きな変化に富んで楽しい約50分ほどの船旅である。

 堀川遊覧船管理事務所作成のHP「ぐるっと松江 堀川めぐり」にあるこの「堀川めぐり」についての説明と城や松江の街の説明がわかりやすいので、これを引用・紹介しておきます。


  堀川めぐりのご紹介
松江城を囲む堀は一部、築城(1611年)と同時に造られ、今もそのままの姿を残しています。
このように城と堀が当時のまま現存する城下町は全国でも珍しく、この堀を小舟でめぐる「堀川めぐり」の醍醐味は、舟に揺られながら見る松江城下の懐かしい日本の風景、築城400年の時を越えその姿をいまだに残す森の自然や堀の美しさを四季を通じて楽しめることです。
 川面を渡る風は時を忘れさせ水辺の鳥たちは訪れるものの心を和ませてくれます。
堀川には16もの個性ある橋がかかっていて、その内4つは、橋げたが低く舟の屋根を下げて通ります。


  松江城下の特徴
 現存する天守をもつお城は、松江城を含めて12城、古さでは6番目です。
 外堀、内堀は、一部埋め立てられたり、幅が狭くなっていますが、ほぼ完全な形で残存しています。
西内堀と北堀には、経済的や労働力、城の立地条件などから石垣が築いていませんが、そこに古木が生え繁り周囲の情景とマッチしています。
 江戸時代の城下絵図と現在の住宅地図とを比較すると、城下の堀・町の構造がほとんど変化がないことがわかります。
T字路、鍵方道路もほぼ同じ。
城を中心として町があり、お城が町に溶け込んでいます。

 このような要素が相まって、松江は旅行者にも不思議な落ち着きを与える城下町です。


 堀川遊覧船管理事務所発行のパンフレット掲載のルートマップを紹介します。
           
            「ぐるっと松江 堀川めぐり
 城下町めぐる水景めぐり」
 
 
   
西堀川


西堀川

 
 
   
亀と2種の鳥

 
米子橋

 
   
松江城

 
塩見縄手地区

 
   
宇賀橋

 
乗下船場

 



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