東北ドライブ旅行の記録

2005年 7月17日(日) ― 31日(金

-  後半行程  第8日目~第15日目 -

  前半ルート 後半ルート   
       


〔第8日〕 7月24日( 日 )

 地域・場所  ルート・観光・見学箇所等  着時刻  発時刻  メーター  説 明 ・案 内 等
 角 館  プラザホテル…R341(46)…   8.15  1476.9  
   生保内…R341…        
   トロコK23…           
 八幡平  大沼温泉…K23… 9.42 9.51  1558.1  バス停の所からでは大沼のごく一部しか見えなかった。
   後生掛温泉…アスピーテライン…        混雑していたため入浴をあきらめ、通過。
   八幡平頂上レストハウス 10.14  10.45 1570.4  雄大な八幡平を展望出来る所。周囲にはトドマツの樹海が広がる。実際の頂上はここから徒歩40分位の所とのこと。
   …K23…柏台…K45…        
   松尾八幡平IC…東北道 …   11.15    前森山PA 
   安代JCT…八戸道 …        折爪SA
 八 戸  八戸IC 13.05 13.09 1686.7  知人・その家族と合流
   ウエルサンピア八戸 13.10 14.15 1687.6  知人一家と会食
 種 差  種差海岸・天然芝生地 14.30   1700.0  八戸線種差駅近くの白浜海岸の北側に天然の芝生の絨緞がゆったりと広がる。空の白と青、海の青、芝生の緑、天気のよい日には気持ちよく、素晴らしい景観。
 葦毛崎  K1……葦毛崎展望台   16.25  1712.0  岩礁に打ち寄せる真っ白な波を中心にした、海と空の景観。うみねこラインの途中、種差海岸の北部に位置する。
 葦毛崎   八戸シーガルビューホテル
(泊)
16.30   1714.0  

   〔八幡平〕 「日本に残された数少ない原始の姿をとどめる高原」として知られている八幡平は、山登りや温泉に入るのが好きな小生としてはゆっくりと楽しんでみたい気持ちはあるのだが、残りの行程を考えると残念ながらのんびりとはしていられない。せめてアスピーテラインの景色だけでもと思ってもあいにくの低く黒い雲。雨に降られず、雲の切れ目から岩手山の頂上付近が短時間見られただけでも拾い物と思いつつ八戸へ向かった。

 
   〔八戸・種差海岸〕 11年前(1994(H6)年)に八戸を訪れた際に会って以来の知人との再会。知人一家との会食で楽しいひと時をすごした後、以前こちらに来たときに大変美しく、素晴らしいと思っていつかまた行きたいと思っていた種差海岸へと向かった。八戸に来てみると今にも雨が降り出しそうだった八幡平とは打って変わってほとんど雲のない快晴。種差海岸の広々として気持ちの良い天然芝生地やその周辺の海岸などはまた前回と同様の、ゆったりとした美しい姿を見せてくれた。同行してくれた知人一家の人々とここで過ごしたひと時もまた忘れられない。

 当初、八戸では市内のビジネスホテルか何かに泊まる予定だった。知人と落ち合う場所を電話で打ち合わせるために立ち寄った折爪SAでビジネスホテルなどに五軒ほど電話してみたがまったく空室がない。あいにく八戸市内で中学総体(総合体育大会)が行われていてその関係者たちで一杯なのだった。どうなることかとややあせったが、市内をあきらめ、周辺部を探してやっと決まったのが葦毛崎の「シーガルビューホテル」だった。どっちにしても葦毛崎には行く予定だったので行程上の問題はなく、予算的にはオーバーなのだが止むを得ない。知人一家と葦毛崎展望台のところで別れ、ホテルについて部屋に入ると、見えたのは夕日に赤く染まった水平線の雲だった。それはきれいな眺めだった。渋い顔をしていた財布も納得してくれるはずの景色であった。

 
     
  八幡平 大沼   アスピーテライン 八幡平頂上レストハウス付近  八幡平より岩手山(中央雲間)を望む
     
 種差海岸 天然芝生地(南側)  種差海岸 天然芝生地(北側)  葦毛崎

〔第9日〕 7月25日( 月 )

地域・場所  ルート・観光・見学箇所等 着時刻  発時刻  メーター 説 明 ・案 内 等
 葦毛崎  八戸シーガルビューホテル   8.15  1714.0  
 蕪島  [かぶ]K1 8.23 8.26  1717.0  今は陸続きになっている小さな島で、ウミネコの繁殖地として知られ、国天然記念物に指定されている所。
   八戸市街…R340…K251…        
   売市…R104…内舟渡…R454…         
 新郷村  キリストの墓…R454…林道… 10.10 10.28  1776.9  新郷村役場から3㎞程西(十和田寄り)に行った所にある。
   大石神ピラミッド(?)登り口
 …林道…R454…
10.40  11.20  1789.2 国道から右折して林道を3K近く入り、それらしい所を右手へかなり登って巨石のある所まで行ったが、案内・説明版等がないため、結局よくわからなまま国道に戻った。下段説明参照
 十和田湖  宇樽部…R103…        
   五色台・瞰湖台…R103…        
 休 屋  乙女の像・十和田神社 12.08 13.17 1822.9  村光太郎最後の彫刻作品と言われる、ふくよかな二人の裸婦が向き合って立つブロンズ像。名前のイメージとはちょっと違う感じの像だが、「乙女の像」は十和田湖のシンボル。
   …R103…宇樽部…子ノ口…        
 奥入瀬  奥入瀬渓流…R102… 13.30      渓流に沿って下りながら、銚子大滝・雲井の滝・阿修羅の流れ等の見所がある度に道端に車を止めての見物。
   石ケ戸休息所…R102…   14.17 1843.7   
   焼山…R103…      
 蔦温泉  蔦温泉…R103… 14.40  15.20 1854.8   明治の文人、大町桂月 が愛した古くからの温泉宿で、深いブナ林に囲まれた一軒宿。
酸ヶ湯  酸ヶ湯…R103… 15.45  16.20 1870.6   江戸時代から湯治場として知られてきた、男女混浴の総ヒバ造りの千人風呂で有名な温泉宿。
 青 森  ねぶたの里…R103… 16.45  17.25 1891.2   青森自然公園内にある施設で常時ねぶたを展示している。
 青森駅前  ホテルニュームラコシ(泊) 17.50    1900.8   
   [りんご茶屋 ]        郷土料理店・民謡酒処(津軽三味線ライブ演奏)


  〔キリストの墓〕 この旅行に出かける1年位前にたまたま古書店の百円コーナーで見つけた 『日本の不思議スポット』 なる文庫本で 「キリストの墓」 なるものの存在を知り、いつか見てみたいと思った所で、山口県にある 「楊貴妃の墓」 とともに、そんな馬鹿なことがと思いつつも興味を持ってしまった所です。この「キリストの墓」のある所は国道に面した公園になっていて、キリスト兄弟の墓の他、その奥に「キリストの里・伝承館」、憩いの広場、駐車場、WCなどがある。なぜこんな所に「キリストの墓」があるのか。現地にあった案内版の説明を記しておきます。

公園入り口の新郷村の案内板

蕪島神社とウミネコ
    「 キリストの墓   昭和10年、茨城県の磯原市(現北茨城市)から訪れた武内巨麿氏により、武内家の古文書をもとに発見されました。古文書によると、ゴルゴダの丘で傑刑に処されたのは弟のイスキリであり、キリスト本人は日本に渡り、ここ新郷で106才の天寿を全うしたというのです。向かって右側がキリストの墓"十来塚″、向かって左側が弟イスキリの墓゛十代墓″と言われており、毎年キリスト祭では慰霊祭が行なわれ、ナニャトヤラの唄と踊りが奉納されます。     新郷村 

墓のそばにあった案内板

   「 キリストの墓  イエスキリストは二十一才のとき日本に渡り十二年間の間神学について修業を重ね三十三才のとき、ユダヤに帰って神の教えについて伝道を行いましたが、その当時のユダヤ人達は、キリストの教えを容れず、かえってキリストを捕らえて十字架に傑刑に処さんと致しました。 しかし偶々イエスの弟イスキリが兄の身代わりとなって十字架の露と果てたのであります。他方、十字架の傑刑からのがれたキリストは、艱難辛苦の旅をっづけて、再び、日本の土を踏みこの戸来村に住居を定めて、百六才長寿を以って、この地に没しました。この聖地には右側の十来塚にイエスキリストを、左側の十代墓に弟イスキリを祀っております。以上はイエスキリストの遺言書によるものと謂われております。 」

  大和朝廷初期に活躍したという記紀伝承上の人物である武内宿禰(たけうちのすくね)の子孫と称する武内家が所蔵していた武内文書の中に「キリストの遺言書」なるものがあり、その記述をもとに当時の戸来村(へらいむら・現新郷村)を訪れた武内巨麿氏らによってキリストの墓が発見されたというのである。この「へらい」という地名も「ヘブライ」からくるものであり、この地には「ナニャトヤラ」の唄と踊りというものがあることや、墓を守ってきた家の家紋の形が星形であること、生後間もない子供の額に十字を描くことなど、ヘブライ文化やユダヤ教などに関係していそうな風習などがあれこれ残っているという。

 キリストの里 案内板  キリストの墓  弟イスキリの墓 奥に見えるのが伝承館

   [大石神ピラミツド] 上記行程中に記した通りなのだが、こちらが大石神ピラミッドの登り口と思ったところは結局大石神ピラミッドの入り口ではなかった。後で調べてみると小生がやっとの思いで登り着いた巨石はどうも当初こちらが目指していた大石神ピラミッドとは別物で「上大石神 ピラミッド」と呼ばれるものの一部であったようだ。目指していた大石神ピラミッドの入り口は国道から右折して2K程入った左側にあったらしい。この入口にも案内板があったらしいのだが、それに気づかずに見落として奥まで入りすぎてしまっていたようだ。貴重な時間と体力をかなり費やしたにもかかわらず、結局、目指していた大石神ピラミッドにはお目にかかれぬまま、残念な思いを抱きつつ十和田湖へと向かった。
 この大石神のピラミッドは、キリストの墓と同じように武内巨麿らの調査隊によって発見されたものだという。その中心の部分には赤い鳥居が立てられ、近くには太陽石、鏡石、方位石、祠などがあるとのこと。
 

 
 
 
 
 国道からの入口にあった案内板  上大石神ピラミツドの一部らしい巨石



[乙女の像] 彫刻家であると同時に詩集「智恵子抄」「道程」の作者としても有名な高村光太郎は、戦時中多くの戦争に加担する作品、戦意高揚のための戦争協力詩などを作った。戦後そのことを恥じた光太郎は東京を離れて岩手の花巻市郊外の山里に引きこもるようにして移り住んだ。居室一つと土間があるだけの、粗末な小屋といってもいいような鉱山事務所として使われていた建物を提供してもらい、地元の人々に支えられながら7年間ほとんど自給自足の自炊独居生活を送った。
  昭和27(1952)年、青森県から十和田湖畔に設置する作品の制作を依頼されたのを機に東京に戻って制作を開始し、翌年に光太郎最後の彫刻作品といわれる裸婦像、現在の「乙女の像」を完成させたのだという。 光太郎はこの作品に寄せての 「十和田湖畔の裸像に与ふ」 という詩の中に次のように書いている。


   「銅とスズとの合金が立ってゐる。  どんな造型が行はれようと  無機質の図形にはちがひがない。  
    はらわたや粘液や脂や汗や  生きもののきたならしさはここにない。  すさまじい十和田湖の 
    円錐空間にはまりこんで  天然四元の平手打をまともにうける  銅とスズとの合金で出来た  
    女の裸像が二人  影と形のやうに立ってゐる。  いさぎよい非情の金属が青くさびて  
    地上に割れてくづれるまで  この原始林の圧力に堪へて  立つなら幾千年でも黙って立ってろ。」 


 この「乙女の像」と言う、一般的なイメージとは違った、ふくよかでたくましい感じのする婦人像には、光太郎のこうした思いが込められているのである。 この像のモデルは、光太郎の意を受けた知人によって 「みちのくの自然美に対抗できる、力に満ち満ちた女性美の持ち主」 として探し出された当時19歳の女性だと言う。また、像の顔に関しては次のような話も伝えられている。像の制作中、光太郎は像の顔を白布で覆い、だれにも見せなかったが、完成後、「あれは智恵子夫人の顔」といわれるようになった。それを確かめようとした建設委員会のメンバーの一人に対して、光太郎は「智恵子だという人があってもいいし、そうでないという人があってもいい。見る人が決めればいい」と答えたという。

 光太郎が暮らしていた岩手県花巻の建物は現在も「高村山荘」として覆い屋をすっぽりかぶせて保存されている。花巻・盛岡近辺には、宮沢賢治や石川啄木関係の施設などもあり、本当は寄ってみたかったのだが、残りの行程がまだだいぶあることや以前に一通り見て回っていたこともあって、この時は残念ながら割愛した。
 
 [奥入瀬渓流] 木漏れ日の中、すぐ足下を流れる、ほどよい川幅と水量の清流が何とも言えず心地よい。下流から上流へと岸辺をたどって、周辺の木々や、時に激しく時にゆったりと流れる水流が、次々にその姿を変えてゆく景観を楽しみながら、もっとゆっくり散策してみたい所であった。ここに来たのは4度目だが何回でも来たい所の一つだ。

 

 [蔦温泉] 明治の文人、大町桂月 が愛した温泉宿で、深いブナ林に囲まれた一軒宿。大正7年に建てられた本館の建物の古き良き温泉宿の風情を残すたたずまいは風格がある。檜造りの湯船の底からはふつふつと温泉がわき出る。大町桂月は詩人・評論家だが、多くの紀行文や随筆の美文で知られた人。

 
 [酸ヶ湯温泉] 江戸時代から湯治場として知られてきた、男女混浴の総ヒバ造りの千人風呂で有名な温泉宿。約八十坪程もあるという広く大きな千人風呂には湯温や造りの異なる五つの浴槽がある。いかにも昔からの湯治場という雰囲気が何とも言えずよい。

 


 [ねぶたの里] 実際に青森ねぶた祭りで使用されたねぶたと弘前のねぷたを十台近く展示している。間近で見るねぶたの細工のすごさには驚嘆する。大太鼓をたたくことができたりして結構楽しめる。

 





 [りんご茶屋] 津軽三味線の演奏を生で聴きたいという連れ合いのリクエストで行った所。津軽民謡歌手の長谷川勝枝さんが女将の郷土料理店。当日は娘さんら若い女性二人が演奏してくれた。やはりすぐ目の前で聴く生演奏の迫力には圧倒される。

 


     
 十和田湖畔「乙女の像」  十和田湖畔「乙女の像」   奥入瀬渓流 銚子大滝
     
 奥入瀬渓流  奥入瀬渓流 石ヶ戸付近  蔦温泉
     
 酸ヶ湯温泉   ねぶたの里  ねぶたの里


〔第10日〕 7月26日( 火 )

地域・場所 ルート・観光・見学箇所等 着時刻  発時刻  メーター 説 明 ・案 内 等
 青 森  ホテルニュームラコシ   8.00   1900.8  
   三内丸山遺跡…R280…… 8.25 9.50   1908.0  大規模な縄文集落跡で、国特別史跡。「縄文の丘・三内まほろばパーク」という公園になっている。
 弘前半島  蟹田 10.30 10.50   1941.7  弘前半島東岸中央。下北半島行きフェリー乗り場がある。
     ~~むつ湾フェリー~~        
 下北半島  脇野沢……R338… 11.50  12.00   1941.7  陸奥湾をはさみ蟹田の対岸、下北半島頭部西南の角にある。
   仏ヶ浦……R338…        海蝕を受けた絶壁が奇岩怪石を造ってそびえ立っている。
 大間崎  大間崎……R279 14.00  15.00   2020..8  本州最北端の地。マグロ漁でも有名な所。
   むつ…K4…        
 恐山  恐山菩提寺…K4… 16.30  17.30   2082.3  日本三大霊場の一つ。寺域は大小の岩や石積みが連なり、霊場らしい独特な雰囲気を持つ。宇曽利湖、温泉もある。
  む つ  民宿パーク下北(泊) 18.00    2096.7


    [三内丸山遺跡]  縄文時代前期から中期(約5500~4000年前)の大集落跡や平安時代の集落跡などがある。縄文の大集落跡からは、竪穴住居跡、大型竪穴住居跡、掘立柱建物跡、大量の遺物が捨てられた谷、大人の墓、子供の墓などが発見されている。広い園内のそこここに竪穴住居、大型竪穴住居、掘立柱建物などが復元されていて見学することができる。「縄文時遊館」というモダンで大きな資料館もあってさまざまな資料等を展示している。縄文時代の「むら」を体験し、当時の人々の生活を具体的に知ることができる貴重な遺跡として国の特別史跡に指定され、さまざまな工夫をしながらの整備が進められている。

 
    [仏ヶ浦] 下北半島の西岸にある約3㎞程の海岸線で、絶壁の下にそびえ立つ岩には五百羅漢、十三仏、如来の首などの名がつけられている。遊覧船に乗って見物しようと思っていたが乗り場がわからず、結局道路脇にあった展望台からの見物となつた。

 
    [大間崎] 大間は下北半島最北端の町であり、同時に本州最北端の地でもある。「ここ本州最北端の地」と刻まれた石碑やマグロのモニュメント、石川啄木の歌碑などがある。天気が良ければ北海道がすぐ目の前に見える所なのだが、あいにくの台風の影響による強風と時折の小雨、「本州最北端の地」の石碑などの数枚の写真を撮るのがやっと。すぐ近くにあった食堂に飛び込んでほっと一息つく。これで、前年の九州ドライブ旅行の際に「日本本土最南端」の碑の立つ佐多岬へ行っているので、日本主要部分の南北両端への自車走行での到達という一つの目標を達成したのであった。

 

     
 三内丸山遺跡  三内丸山遺跡 大型竪穴住居  下北半島 仏ヶ浦
 大間崎   「ここ本州最北端の地」と刻まれた碑  恐山・地蔵堂参道 両端は温泉小屋


  [恐山菩提寺] 恐山というのは下北半島中央部の蓮華八葉と呼ばれる山々とそれらに囲まれた盆地の総称だという。ここは死者の霊が集まる所と言われる霊場で、高野山、比叡山と並ぶ日本三大霊場の一つとなっている。その盆地にある宇曽利湖の北岸に建つ恐山菩提寺がその中心。総門・山門をくぐり、地蔵殿や宿坊のあるところを抜けて左手南側のごつごつした岩だらけの荒涼とした地獄巡りの地域に入り、溶岩の大きな固まりを縫うようにして上り下りしてゆくと、一帯には噴気孔や小さな間欠泉がいくつもあるため硫黄のにおいが一面に漂っている。

  無数の小さな岩の山や大小の石積みが立ち並ぶ中、ぽつんぽつんと地面や石の山にさされて立つ、色鮮やかなピンクや赤のプラスチックの風車と、その時折からからと回る音や、風雨にさらされて朽ちかけた棒杭の先端に止まっている烏などが異様な雰囲気をかもし出し、「恐山」という名にぴったりの、いかにも「霊場」という感じの光景が展開する。台風の余波であいにくの天候だったが、その低く垂れ込めた黒い雲がそうした雰囲気をいっそう強く荒涼凄絶なものに感じさせた。

 
いくつかのお堂無間地獄血の池地獄賽の河原などを巡っていくと宇曽利湖があり、極楽浜と呼ばれる白砂の美しい浜に出る。湖底から温泉が湧き出しているせいであろうか、場所によって微妙に色合いや濃淡に違いのあるコバルトブルーの湖水の色は何とも言えずすばらしく美しい。この極楽浜から寺入口の総門へ向かう途中は、賭博地獄、重罪地獄、どうや地獄、修羅王地獄と地獄巡りが続く。総門を出た所の駐車場から少し離れた所に宇曽利湖から流れ出る川があり、「三途の川」と呼ばれて善人だけが渡れるという太鼓橋が架かっている。 なお、この寺は夏と秋の大祭の時に死者の言葉を伝えると言われる霊媒師イタコの口寄せが行われることでも有名。

 
 

     
 恐山菩提寺 中央が山門  恐山菩提寺  恐山菩提寺 八角円堂
   
 恐山菩提寺 塔婆堂  恐山菩提寺 宇曽利湖遠望  恐山 宇曽利湖 極楽浜 


   [地蔵と共におわす故に浄土なり] 慈覚大師円仁が入唐求法中に見た夢のお告げによって帰国後に開いたと伝えられるこの寺の本尊は延命地蔵菩薩である。寺のパンフレットに書いてあった地蔵尊にまつわる話を紹介しておきたい。

  「 地蔵菩薩の『地』という文字は〝大地〟をあらわし、『蔵』は生命(いのち)を産み育む〝母胎〟をあらわしている。人に踏まれながらもひたすら支えてくれるこの大地と、人々の痛みをわが痛みとしてしかと受けとめてくれる慈母のごとき心こそ、地蔵菩薩そのものなのである。
 
『地獄の責苦を代わりに受けて、生死に迷う人間を助け、清浄世界の天人を度す』
 この地蔵菩薩の誓願がある限り、深山の硫黄が咽ぶ地獄谷も絶対安楽の大地であり、『地蔵と共におわす故に浄土なり』と、無言の説法が巡らされているのである。 
「 地蔵菩薩の『地』という文字は〝大地〟をあらわし、『蔵』は生命(いのち)を産み育む〝母胎〟をあらわしている。人に踏まれながらもひたすら支えてくれるこの大地と、人々の痛みをわが痛みとしてしかと受けとめてくれる慈母のごとき心こそ、地蔵菩薩そのものなのである。
 
『地獄の責苦を代わりに受けて、生死に迷う人間を助け、清浄世界の天人を度す』
 この地蔵菩薩の誓願がある限り、深山の硫黄が咽ぶ地獄谷も絶対安楽の大地であり、『地蔵と共におわす故に浄土なり』と、無言の説法が巡らされているのである。」
 
 
かくしてこの恐山の地も、そのイメージにも関わらず、「絶対安楽の大地」であり、「浄土」なのである。

 
    [恐山温泉] この菩提寺の境内にはちょっと場違いな感じではあるが、恐山温泉と呼ばれている四つの湯がある。浴槽を覆うだけの簡素な小屋と言った感じの建物が四つあり、古滝の湯、冷抜の湯、薬師の湯、花染の湯と名付けられている。小さな浴場なので混浴で、もう20年近く前のことだが、宿坊に宿泊したときに、こちらが入浴していると若い女性やおばさまが臆することなく堂々と入ってきて、こちらがどぎまぎして目のやり場に困ってしまったことがあった。今回は入浴する時間もなく建物を見ただけで通過するしかなかった。
 

 

  [ルート変更] 下北半島巡りは、当初の予定では、蟹田→フェリー→脇野沢→仏ヶ浦→大間→恐山→むつ(宿泊)→脇野沢→フェリー→蟹田→竜飛崎というルートで下北半島の頭部を一周してから直接弘前半島に向かうつもりであった。ところが心配していたとおり、27日の朝、台風の影響で帰りの脇野沢からの蟹田行きフェリーが欠航ということがわかったため、宿泊していた「むつ」から、野辺地、青森経由のルートで弘前半島に行くことに変更せざるを得なくなってしまった。やむなく単調な陸奥湾の縁の国道をうんざりしながら延々と走って青森に向かったのだが、そのまま青森から弘前半島に入ったのでは一日ほとんど走るだけで終わってしまうため、弘前半島を回った後で行くことにしていた弘前を先に見てから半島に入ることにして、青森で棟方志功記念館(写真右)に寄って見学した後、弘前へと向かったのである。

 
 

〔第11日〕 7月27日( 水 )

   地域・場所   ルート・観光・見学箇所等   着時刻   発時刻  メーター  説 明 ・案 内 等 
  む つ   民宿パーク下北…R279…     7.58    2096.7   
     野辺地…R4…     9.00頃      
  青 森   棟方志功記念館  10.07  10.45    2196.3   青森市生まれの版画家棟方志功の代表作などを多数展示。
     青森中央IC…青森・東北道…     11.10      高舘PA 休憩5分
     黒石IC…R102…     11.35    2235.2   
  弘 前   弘前市役所P   12.00      2250.6   
     弘前城跡(弘前公園)            江戸末期再建の城だが、天守閣、隅櫓、城門が国重文。
     石場家・岩田家            仲町伝統的建造物群保存地区。武家屋敷などが並ぶ。
     津軽藩ねぷた村            「弘前ねぶたの館」で各種展示。津軽三味線の演奏もある。
     青森銀行記念館            明治37年建築のルネッサンス様式の洋風建築。国重文。
     弘前市役所P     14.57    2250.6   
     最勝院   15.10  15.28       飛騨高山の工人が十年かけて造った五重塔が国重文。
     長勝寺   15.34  15.50       津軽藩主の菩提寺。三門、御影堂などが国重文。
     誓願寺  15.56  16.10       重層の四脚門で切妻造り・妻入りの珍しい山門がある。
     革秀寺…R7……  16.15  16.35   2257.7   鞘堂に納められた初代藩主津軽為信の霊屋が国重文。
     新城……R280……            
  弘前半島   蟹田・中村旅館(泊)  18.25      2326.7   


   [棟方志功記念館] あの独特な味わいを持つ棟方志功のさまざまな多くの版画を間近にじっくりと見ることができた。

 
   弘前  観光・寺巡り]  弘前公園の駐車場がどこにあるのかわからないため、公園に近く、東北道弘前インターから行ってわかりやすく、行きやすい所にある市役所の駐車場に車を置いて弘前城跡の公園並びにその周辺を歩いて見て回った。寺巡りは寺院が弘前公園からだいぶ離れた所に点在するため、自分の車で順番に回るしかなかった。

 
   弘前城 弘前城の現在の天守閣は1811年に隅櫓(すみやぐら)をもとに再建したもので、三層三階の小ぶりのものだが風格のある天守で国重文に指定されている。堀に面した一、二層には切妻破風がついていて重厚な感じを与えているが、本丸に入って天守入口のある方から見ると破風がついていないために平板で見栄えしない。ここの天守は堀をはさんで外側から見る方がずっと良い。五つの城門や三つの隅櫓も国重文で見応えがある。

 
   [弘前公園] 園内には樹齢120年の「日本最古のソメイヨシノ」や棟方志功が「御滝桜」と命名したと言われるものなどをはじめとして、桜の木が多く、花の咲く春の美しさはさぞやと思われる。そのほかにも数多くの古木、名木があり、落ち着いた雰囲気の良い公園・城跡である。

 
   [公園外] 公園北側の仲町は重要伝統的建造物群保存地区になっていて数軒の武家屋敷が公開されている。もっとも公園に近い石場家住宅(国重文)は商家で、津軽の豪商の店だといい、間口の広い堂々とした構えの住宅・店舗である。津軽藩ねぶた村は津軽のさまざまなねぶた[津軽では-NEPUTA]をはじめ、各地のねぶた[青森では-NEBUTA]を見学できるほか、津軽三味線の生演奏を聴いたり、津軽の伝統工芸の制作を体験できたりする施設。津軽に「金魚ねぶた」というものがあることをここで初めて知った。公園南側の青森銀行記念館(国重文)はルネッサンス風の建築様式の立派な洋館で、構造的技術的にも優れ、随所に独創的な工夫が加えられている高い水準のものとされている。内部を見学することができる。

 
 

   
 弘前城 天守閣   弘前城 北門  弘前公園 しだれ桜
   
 石場家住宅  青森銀行記念館  津軽藩ねぷた村 金魚ねぷた

   [弘前・寺巡り] 弘前公園の南側から西側にかけて見応えのある建造物のある寺院が点在する。
 
 
   最勝院 津軽藩が津軽統一の過程で戦死した人々を供養するため、四代藩主信政が建立した寺。東北には珍しい五重塔は飛騨高山の工人を招き、十年の歳月をかけて造営、江戸初期の1667年に完成したと言う。江戸期の塔としては相輪が長いのが特徴とされる堂々とした塔。国重文。公園の南東に位置する。

 
   長勝寺 津軽藩主歴代の菩提寺。日光東照宮と並ぶ江戸初期の代表的建築物といわれ、二代藩主信枚が造営した高さ16m余の三解脱門(三門)は入母屋造り二階建ての立派な楼門で、国重文。この寺の門前は「禅林街」といわれ、その参道の左右に三十三の禅寺が並ぶ。公園の南西に位置する。

   誓願寺 1596年に創建された大寺だったが火災で焼失、山門だけが残ったという。この山門は、京都誓願寺の山門を模したものと言われ、切妻造り・妻入り(妻の側を正面とし入口とする)重層の四脚門で珍しいもの。江戸中期の造営とされている。国重文。公園の西側に位置する。

 
   革秀寺 素朴な民家風の珍しい本堂がある禅寺。初代藩主津軽為信の霊屋(たまや・霊廟)がある。この霊屋は、木部総漆塗り、極彩色の豪華なもので、江戸初期の建造という。がっしりとした覆屋(鞘堂)で保護されている。国重文。誓願寺の西、岩木川を渡った所にある。  

     
 最勝院 五重塔  長勝寺 三門  長勝寺門前 禅林街
   
 誓願寺 山門  革秀寺 霊屋  革秀寺 本堂


〔第12日〕 7月28日( 木 )

地域・場所 ルート・観光・見学箇所等  着時刻  発時刻  メーター   説 明 ・ 案 内 等 
 弘前半島  蟹田・中村旅館…R280…    7.55  2326.7  
   義経寺    8.57  9.23  2369.3  源義経が北海道へ逃げ延びたという伝説に関係する寺。
 龍飛崎  竜飛崎灯台    9.45 10.15  2381.9  津軽半島最北端の岬にある灯台。
   階段国道 10.17 10.21    日本で唯一の車も自転車も通れない国道。362段の階段。
   青函トンネル記念館…R339… 10.24 11.30  2383.4  斜坑線ケーブルカーで海面下140mの体験坑道に下りる。
   小泊 (道の駅こどまり) 12.08 13.05  2407.4  昼食・休憩。小泊は小説「津軽」で太宰治と乳母の越野タケさんが再会する場所として有名。
   五月女…K12 … 13.25    
   十三湖…K12 … 13.30 13.35  2422.6  岩木川河口に広がる潟湖(せきこ・かたこ)。最深でも3mという。
   車力…K43 …      
 川 倉  賽の河原地蔵尊 14.10 15.15  2445.7  津軽霊場。恐山などと並ぶ霊場。二千体程の地蔵をまつる。
 金 木  斜陽館(太宰治記念館) 15.30      太宰治の生家。大地主だった父親が建てた入母屋造りの豪邸。
   金木町観光物産館   16.10    さまざまな金木町の名産品や太宰治グッズなどを扱う。
   金木温泉旅館(泊) 16.15    2451.2  


   〔三厩・義経寺・義経北行伝説〕 源義経は不仲になった兄頼朝に追われて岩手平泉の奥州藤原氏の初代・秀衡(ひでひら)のもとに身を寄せていたが、秀衡の死後、裏切った二代・泰衡の襲撃を受けて衣川の館で自刃したというのが定説である。が、実はその時義経は死ななかったのだと言う説があり、その一つがこの北行伝説である。

 衣川の館から脱出した義経主従は、北をめざしてこの地(現在の三厩・みんまや)まで来たが、荒れ狂う津軽海峡を渡ることができなかった。蝦夷地を望むこの地の大きな石(厩石)の上に日頃信仰する観世音菩薩像を置いて三日三晩祈ると夢に白髪の老人が現れ、「三頭の龍馬を与える」と言って消えた。義経が厩(馬屋)石の下の三つの岩穴を覗いたところ、夢のお告げの通りに竜馬三頭が繋がれていた。義経主従はその竜馬に乗って無事に海峡を越え、蝦夷地に渡ることができたという。 その後この地は「三馬屋」と呼ばれるようになり、やがて「三厩」と呼ばれるようになったのだと言う。

 江戸初期の寛文7年(1667)、多くの円空仏と呼ばれる素朴な独特の鉈(なた)彫りの仏像を彫っては各地に残したことで知られている、諸国放浪の僧・円空がこの地を訪れたとき、海岸の奇岩の上に光る観音像を見つけた。その由来を知った円空は流木で仏像を刻んで観音像をその腹中に納め、小さなお堂を建てて祀った。そのお堂が龍馬山義経寺(ぎけいじ)になったのだと言う。津軽海峡や三厩港を見下ろす高台の上にある義経寺には、阿弥陀堂(本堂)・観音堂などがあり、観音堂の円空仏が本尊になっている。


 
   〔竜飛崎〕 北のすぐ目の前に北海道松前半島、東に下北半島、西南に小泊岬などが見渡せる津軽半島の北のはずれ。灯台付近はなだらかな起伏の草原台地になっている。崖下には、太宰治が小説「津軽」で「ここは、本州の極地である。この部落を過ぎて路はない。あとは海にころげ落ちるばかりだ.路が全く絶えてゐるのである.ここは,本州の袋小路だ。 」と書いた竜飛の集落と漁港がある。台地上またその周辺には、灯台をはじめ、青函トンネル記念館、階段国道、シーサイドパーク、「津軽海峡冬景色」歌謡碑、太宰治文学碑、大町桂月文学碑、ウインドパーク展示館(風力発電関係施設)などが点在する。

 
   〔階段国道〕 青森県弘前市から津軽半島中央から西海岸沿いを北上して竜飛に至り、そこから南東に向かって東津軽郡外ヶ浜町(旧三厩村)に至る国道339号線の竜飛崎灯台付近の一部388m程の区間が車両の通行が不可能な362段の階段になっている所のことである。登山道が国道に指定されていて車両通行不能の国道が福島県にあると言うことだが、階段になっていて車が通れない国道と言うのは日本中でここだけと言う。なぜこういうことになってしまったのか、昭和49年の国道指定段階で関係者が現地の状況を調べもせずに地図上のみで路線を決定したためという説があるが、階段として整備したのは国道指定の後だという話もあり、はっきりした理由はわからないようだ。国道指定をはずす話もあったらしいが、観光名所にしたいと言う地元の人の反対でそのままになっているという話もある。

 
    〔青函トンネル記念館〕 構想から完成までに42年かかった青函トンネルの歴史とその姿を紹介するための施設。海面下140mのところにある当時の作業坑が体験坑道として展示ゾーンになっていて掘削に使われた機械等を展示している。坑道までは青函トンネル竜飛斜坑線ケーブルカーで9分ほどかけて下りる。
 

 義経寺(上) 厩石・「源義経渡道之地」木柱   義経寺山門  龍飛崎灯台
 階段国道  階段国道・北海道  「津軽海峡冬景色」歌謡碑



   〔十三湖 〕 じゅうさんこ。岩木川河口に広がる、東西7K、南北5k、平均水深1.3mの汽水(海水と淡水が混合したもの)の潟湖(せきこ・かたこ)。ヤマトシジミの名産地として知られている。中世室町時代、このあたりは豪族安東氏の本拠地でもあり、十三湖の開口部にあった十三湊(とさみなと)は日本海海運の拠点として栄えていたと言う。

 
   〔川倉賽の河原地蔵尊〕  地蔵尊の入り口には、盂蘭盆のお祭り中だったためだろうか、大きな大祭の旗が立ち、人がたくさんいて、以前来たときの、冷たい空気が漂い、きゅっと体が縮まるような、いかにも霊場という感じのする、人のいない、ひっそりとした境内の様子とはまるっきり違っていた。

 「さいのかわら」とは、こどもが死んでから行き、苦しみを受けると信じられた、冥途(めいど)の三途(さんず)の川の河原のこと。こどもが石を拾って父母供養のために塔を造ろうとすると鬼が来て壊す、これを地蔵菩薩が救うという。「地蔵尊」発行のパンフレットには次のような説明があった。

   
賽の河原石積の由来  この河原にさまよう憐(あわれ)な嬰子たちの霊が、父母恋しさから、泣きながら河原の石を拾い集めて積み上げ、 それがいつの間にか塔を組むほどにまでなったそうです。」

 境内には、地蔵尊堂をはじめ、各村地蔵安置所、水子地蔵堂などがあるが、他では見たことがない人形堂と言うのがあった。

   
 「人形堂 未婚の男女の霊を供養し、結婚適齢期に達すると神様が夫婦として結び付けてくれると言う伝説があり ます。」

 上記のような説明のあるお堂だが、余り明るくない堂内の棚にはガラスケースに入った婚礼衣装の新郎新婦の人形などがずらりと並んでいる。何か普通と違う空気の漂う空間のような気がした。こことは別の場所であったような気もするが、青年が愛用していたのであろうヘルメットや革ジャン、女の子が大切にしていたに違いないフランス人形、着物、ランドセルなどの、若くまた幼いままに旅立ってしまった人たちの遺品と思われるものがたくさん並べられている所もあった。亡くなった若き人たちのことはもちろんだが、自分より先に逝ってしまった息子や娘を思う親心も切なく悲しく、写真など撮る気にならなかった。


 地蔵尊堂の裏手には、簡易テントが張ってあって、イタコと思われる女性が二人おり、口寄せをしていたのだろうか、それそ゛れを数人の女性が取り囲んで座り、なにやら話し込んでいた。また、賽の河原と名づけられた遊歩道のようになった小道の両側には小さな地蔵や石仏、石積みや風車が並び、盂蘭盆のお祭り中だったからだろうか、それそ゛れの地蔵や石仏の前には盆に盛られたお菓子類が供えられていた。
                                                                      


 
   〔斜陽館〕 大地主だった津島家の屋敷で、二階建て十九室という大邸宅。太宰治は中学入学までここで過ごした。この豪邸も戦後になって津島家が手放し、1950年(昭和25年)からは旅館「斜陽館」として営業していたが、1996年(平成8年)3月に旧金木町が買い取り、それからは町の記念館になった。太宰関係の資料などを展示しており、邸内を見学できる。「斜陽館」という名は太宰の作品「斜陽」からつけられたもの。

 もう二十年ちょっと前のことになるが、この旅館としての「斜陽館」に泊まったことがある。1986年(昭和64年)8月に友人と二人で東北の日本海側から入って弘前半島・下北半島などを旅した時のことだ。象潟に寄った後、秋田の駅に近い小さな旅館に泊まって、翌日のコースを検討しているうちに、男鹿半島・弘前を見て下北半島に入ることにしたのだが、どこに止まるかが問題になった。弘前、五所川原と考えるうちに、金木の「斜陽館」を思いついた。が、当時ここはもう有名な観光名所になっていたので前日の晩に宿泊の申し込みをしても空いているはずがないと別のところを考えようとしたのだが、いったん思いついてしまってあきらめ切れなかった小生は、だめでもともとと一応あたってみることにした。
 
  電話をしてみると、やはり部屋は空いていないという。普通ならここであきらめるのだが、なんとしても泊まってみたいと思い込んでしまっていた小生は、どんな部屋でもいいからなんとか泊めてもらうことはできないかと、しつこく粘って食い下がった。するとしばらく間をおいた後、「窓のない部屋でもいいですか」という返事が返ってきた。「いいです、いいです、そこでかまいません」と喜んでこの話に飛びついたことは言うまでもない。翌日行ってみると、入り口近くの帳場の奥にある部屋で、もともとは納戸だったところをその時は布団部屋として使っている部屋のようで、本当に窓のない部屋であった。が、こちらは窓などなくても夜露を凌げればよかったのだし、有名な
「斜陽館」に泊まることができたということで十分に満足したのだった。

 
  〔金木温泉旅館〕 この日の宿は五所川原あたりかなと漠然と考えていただけで具体的にどことは考えていなかった。竜飛岬を回り、十三湖を過ぎて川倉の地蔵尊前の駐車場に着いたのが二時過ぎだった。それまでは金木で泊まることなど考えていなかったのだが、地蔵堂に来てみると、お祭り中らしくにぎやかで、これはいろいろありそうで時間がかかりそうだと思ったので、適当な宿があれば金木で泊まることにした。いつも宿探しをする際に使っている「宿泊表」で調べてみると「金木温泉旅館というのがある。ガイドブック等にはまったく出てこなかったので、「えっ、金木に温泉?」と思ったが、料金も手ごろだったし、面白そうだと電話してみると宿泊OKだった。

 普通の旅館風の玄関を入って部屋に案内されると二間続きの大きな部屋で、テーブルセットを置いた板の間もついている。部屋の外は駐車場で直接出入りができるようになっていた。珍しいことに外側の部屋には流しとガス代のキッチンセットがついていた。旅館の人が居住していたことのある部屋なのか、温泉療法か何かで長期滞在する人のための自炊用だったのだろうか。どちらにしても気楽にゆったりとくつろげる部屋で、「当たり」であった。

 風呂の説明を聞いてもっとびっくり。風呂は棟続きの温泉公衆浴場だという。旅館の玄関と温泉浴場の入り口が離れた別の場所だつたため、まったく気がつかなかったのだが、棟続きの隣(裏?)が温泉公衆浴場だったのだ。長い廊下(右手には、今は使われていないような、入浴客用の休憩所風の畳敷きのスペースが続いている)を行くと浴場の入口。右手の戸を開けてはいると番台があり、年配の女性が座っていた。中はそう広くはなかったような気がするが、今ではもう珍しくなってきた番台、丸い脱衣かご、棚に並んだおなじみさんたちの入浴セット。脱衣場から洗い場に入ると両側と真ん中の島に蛇口の列。そしてその奥に浴槽。その上に定番の富士山と海岸・松林の絵もやや小ぶりながらちゃんと掛かっていた。まさに懐かしい昔ながらの銭湯、公衆浴場そのもの。思わず、「大当たり」と喜んでしまった。
 泊まるつもりもなかった金木で、思い出に残る大きな拾い物をしたのだった。

 

 
     
十三湖   川倉賽の河原地蔵尊堂  金木 斜陽館


〔第13日〕 7月29日( 金 )

地域・場所 ルート・観光・見学箇所等 着時刻 発時刻 メーター 説 明 ・ 案 内 等
 金 木  金木温泉旅館…R339…   8.10 2451.2  
   五所河原…R101…        
   鯵ヶ沢…R101…        
 深 浦  千畳敷駅・千畳敷海岸 9.28 9.48 2502.3   侵食された岩盤が18C末の地震で隆起して出来たところだ言う。
   深浦駅(五能線) 10.10  10.30    休憩
 黄金崎  不老ふ死温泉…R101K280… 10.50   11.52  2532.3   東北には珍しく波打ち際に露天風呂がある温泉。
   十二湖…K280・R101… 12.30 13.30  2550.0   白神山地西麓のブナ林の台地に33の湖沼が点在する。
   八森・能代…R101…        
   牧野…K55 …        
 男鹿半島  入道崎…K55 … 16.05  16.45 2664.2   男鹿半島の西北端。断崖となって日本海に落ち込む芝生の草原台地の突端に白黒縞模様の灯台が建つ。
   牧野…R101 …        悪天のため予定していた寒風山はカット。
   羽立…R101・R7…        
 秋 田  太平閣(泊) 17.30   2726.9   

  〔千畳敷海岸〕 五所川原駅近くの「立侫武多(たちねぷた)の館」を右手にちらっと見てR101に入り、いよいよ五能線の沿線を能代まで走ることになる。西に向かっていた五能線が南に向かって走り始めるあたりの大戸瀬崎の海岸にある広々とした岩床が「千畳敷」と呼ばれる所。素朴な無人駅の様子になんとなく魅かれた。
 
  〔不老ふ死温泉〕 波打ち際にある、日本海に沈む美しい夕陽を眺められる露店風呂が有名な温泉。ずっと以前から一度入ってみたいと思っていた温泉だったので、十年位前に一人で東北を回っていたときに、宿泊申込の電話をしてみた。すると、一人だと料金が数千円高くなるといわれてやめてしまったことがあった。その頃こちらが勝手に抱いてしまっていた、素朴なひなびた温泉宿のイメージはその時に崩れてしまっていたのだが、営業意欲満々という感じの、コンクリート作りのホテル風建物を見て、ああここは小生向きのところではなかったのだと納得した。
 露天風呂そのものは、簡単な囲いと脱衣場があるだけの素朴な自然に近いものであったが、わざわざ宿の玄関からピカピカという感じのフロントに入って六百円の料金(内風呂入浴料込)を払ってから外に出て海辺の露天風呂に行くというのがなんともアンバランスであった。露天風呂入り口に券売機や自動改札機などがなかったのがせめてもの救いだつたのかもしれない。ちなみに、立ち寄り客や日帰り客がこの露天風呂に入れるのは午後四時まで。四時以後は宿泊客専用になる。宿泊しないとこの露天風呂から日本海に沈む美しい夕陽を眺めることは出来ない。 
 
  〔十二湖〕 岩崎の海岸から3Kほど山間に入った、標高200M前後の台地上のブナの原生林の中に33の湖沼が存在する。江戸中期の大地震で凝灰岩の山地が崩壊して川などの水がせき止められたのが湖沼群の成因と考えられている。近くの山の山腹から見るとそのうち12の湖沼が見えるところから十二湖と呼ばれるようになったという。車で入れる最奥の「挑戦館」があるところから、ブナやミズナラに囲まれた大きな「鶏頭場の池」、小さいながらコバルトブルーの透き通った水の美しい「青池」、ブナ原生林、「沸壺の池」などをめぐる所要1時間ほどの散策路がある。  
  〔入道崎〕 日本海を見渡す、広々と一面芝生に覆われた台地は、晴天ならば素晴らしい景観なのだろうが、残念ながらあいにくの強風に小雨。海底透視船も運行休止。 せっかく来たのだからと傘を飛ばされそうになりながらも灯台のところまで行ってみたが、強風で目前に広がる日本海を落ち着いて眺めることも出来ない。客のいない土産物店を二三軒のぞいただけで秋田に向かって出発した。
  半島の根元付近にある、回転展望台などもあって半島一帯の眺望がよいと言われている寒風山、走るのを楽しみにしていた寒風山パノラマラインも、悪天のためカットせざるを得なかった。
 


 千畳敷海岸  不老ふ死温泉 中央が露天風呂  露天風呂 男湯
十二湖 青池 男鹿半島  入道崎   入道崎 海底透視船乗場

第14日〕 7月30日( 土 )

地域・場所 ルート・観光・見学箇所等 着時刻 発時刻 メーター 説 明 ・ 案 内 等
 秋 田  太平閣……R7……   8.35  2726.9   
       (秋田駅近くの眼科医院)  8.40 9.30 2728.2   連れ合いの目にごみが入るというアクシデントで立ち寄る。
 本 荘  道の駅 にしめ 10.30 10.50 2772.9  休憩・買い物
 象 潟  象潟 ・蚶満寺…R7… 11.20  12.10 2795.2  きさかた(古くは・きさがた)・かんまんじ。松尾芭蕉「奥の細道」の「象潟」の記述で有名な所。
   有耶無耶の関跡…R7…        予定外に寄った所。関所跡等はなく、地名だけであった。
 吹 浦  道の駅 鳥海 12.50 13.10 2821.8  休憩・昼食
   酒田…R7…        
   鶴岡…R7・R112・K47…        
 羽黒山  羽黒センター…徒歩… 14.35    2877.3   参道入口⇔随神門⇔参道・杉並木⇔須賀の滝⇔五重塔
   羽黒山五重塔杉並木…歩…        1372年再建の三間五層、素木造り、杮葺き(こけらぶき)、高さ30Mの東北地方最古の塔といわれる。国宝。
   羽黒センターK45・有料道…   15.10     
   羽黒山頂上…徒歩… 15.20    2882.7   
   出羽三山神社…徒歩…        羽黒山頂上にある国重文の三神合祭殿。月山、羽黒山、湯殿山の神々が祀られている。
   羽黒山頂上   15.55     
   有料道・K45・K47・K44        
    朝日村…R112…
   (六十里越街道・旧道)…
       
 田麦俣  多層民家…(R112・旧道)…        田麦俣は六十里越街道沿いにある集落で、兜造り、茅葺三階建ての多層民家があることで有名。
 湯殿山  湯殿山ホテル(泊) 17.05    2934.2  


  〔象 潟〕 「東の松島、西の象潟」などと言われるところで、芭蕉が「奥の細道」でその美しさを称えた所。当時の象潟は「九十九島(つくもじま)」とも言われ、遠浅の入り江状の潟に大小の島々が浮かんでいる景勝地であったが、江戸末期に近い1804(文化元)年にあった大地震で一帯が隆起して陸地になってしまった。現在は広がる水田の所々に小山になった島の名残が散在している状態だが、今でも田植え前、水を張った水田に写る以前の島々は、当時の姿をよみがえらせるという。かつては島々の浮かぶ象潟の岸辺であったと思われる所の松林の中に古刹の蚶満寺がある。
  「奥の細道」に芭蕉は次のように書いている。

 
    「江山水陸の風光、数を尽して、今象潟(きさがた)に方寸を責む(=心をせきたてられる)。……闇中に模索して雨も亦奇也(また・き・なり)とせば、雨後の晴色亦頼母敷(せいしょく・また・たのもしき)と、蜑の苫屋(あまのとまや=漁師の粗末な小屋)に膝をいれて、雨の晴を待。其朝(そのあした)天能霽(てん・よく・はれ)て、朝日花やかにさし出る程に、象潟に舟をうかぶ先(まづ)、能因嶋に舟をよせて、三年幽居(みとせ・ゆうきょ)の跡をとぶらひ、むかふの岸に舟をあがれば、「花の上こぐ」とよまれし桜の老木(おいき)、西行法師の記念(かたみ)をのこす。江上に御陵(みささぎ)あり、神功后宮(じんぐうこうぐう)の御墓と云。寺を干満珠寺(かんまんじゅじ)と云。……此寺の方丈に坐して簾(すだれ)を捲けば、風景一眼の中に尽て、南に鳥海天をさゝえ、其影うつりて江にあり。……江の縦横一里ばかり、俤(おもかげ)松嶋にかよひて、又異なり。松嶋は笑ふが如く、象潟はうらむがごとし。寂しさに悲しみをくはへて、地勢魂をなやますに似たり。
              象潟や雨に西施がねぶの花                        」

 
    各地で優れた風景を見た後、芭蕉は心せくままに待望の象潟へとやってきた。ところがあいにくの雨にたたられる。しかたなく漁師の家に宿を借り、雨が上がった時の景色の素晴らしさを心に思い描きながら、晴れるのを待った。翌日は晴天、朝日が昇る頃に象潟に舟を浮かべた。まず能因島で能因法師が一時そこに暮らしていたという跡を訪ね、その向こう岸へ渡って、西行法師が「象潟の桜は波に埋もれて花の上こぐあまのつり舟」と詠んだという桜の老木を訪ねて、能因や西行を偲んだ。そして訪れた満珠寺(蚶満寺)の座敷に座って眼前一杯に広がる象潟の景観をじっくり味わったのだった。南側には鳥海山がそびえ立ち、その姿を入江の海面に映していた……。
  
「 …入江の広さは縦横おのおの一里ほどで、その様子は松嶋に似ているようでいて又違ったところがある。たとえて言えば、松嶋は人が笑っている表情のような明るいところがあり、象潟は何事かを恨み悲しんでいるような曇ったところがある。寂しさの上に悲しみを加えたようで、この地のたたずまいは、深く心悩ませ憂いに沈んでいる人の姿を思わせるものがある。      
 
   この象潟に来て雨に煙る風景を眺めやると、咲いているねむの花が雨に打たれてぬれているのが目に留まったが、その様子はちょうどあの中国の美人・西施がもの思わしげに目を閉じて愁いに沈んでいる様子のように見えることだ。   」  
   「ねぶの花」というのは「合歓(ねむ)の木の花」のこと。「ねむる。目をつぶる。」という意味の古語「ねぶる」という語と、夜になると葉を閉じてたれるという「ねむの木」の「ねぶ」を、その音とイメージをダブらせて掛詞的に用いたのであろう。
 「西施」は、中国・春秋時代(紀元前8~5世紀頃)の越の伝説上の「傾国」の美女の名。「呉越同舟」などの言葉で知られているように、呉と越は戦いを繰り返していた。越王勾践が「会稽の恥」で知られる会稽の戦いに敗れた後、西施は勾践の忠臣・笵蠡(はんれい)によって呉王夫差の許に献上された。夫差は西施の色に溺れて国を傾けるに至ったという。彼女は美しかったがために敵国の王に献上品として差し出されることになった、その不幸な悲しい運命を嘆き悲しんでいたに違いないのである。そうしたイメージを踏まえてこの句は詠まれたのであろう。
 西施が胸を病んで(その心の憂いで、という説もある)いつもつらそうに眉をしかめて(顰=ひそみ)いたが、そのようすがまた美しいのを見て女たちが自分もまた美しく見えるようにと西施の顰を真似したという。この故事から「ひそみにならう」という言葉が生まれたとも言われている。

 
   蚶満寺〕 仁寿三年(853)慈覚大師円仁の開創と伝えられる、古くから文人墨客が数多く訪れた古刹で、正式名は皇宮山蚶満珠禅寺。落ち着いて静かな参道が続き、江戸中期の建立と推定される山門には仁王像を安置する。境内には、本堂ほか、鐘楼、大きな芭蕉の木、芭蕉像、芭蕉句碑、猿丸太夫姿見の井戸、西行法師歌桜の跡、船着場の跡と舟つなぎ石、親鸞聖人の腰掛石、タブの木(樹齢千年を超えるという)、夜鳴きの椿(寒中雪の中で開花するという)、北条時頼公のつつじ(樹齢七百年以上)などがある。入り口に近い池の辺には合歓の木もある。  


     
 蚶満寺 山門  松尾芭蕉像  芭蕉の木
     
象潟  舟つなぎの石  象潟(九十九島)跡  合歓の木


   〔有耶無耶の関〕 有耶無耶(有也無也)の関というのは、陸奥(みちのく)の歌枕(古来、よく歌に詠み込まれて親しまれた名所・旧跡など)の一つで、 「たのめこし 人の心は 通ふやと 問ひても見ばや うやむやの関 」(土御門院集)などと詠まれている所。

  ここは当初から見学等を予定していた所ではなかった。象潟からR7を南下している時に、たたまたま赤信号で停まった所(4k程南)の標識(右の写真)を見て「おっ」と思って車を止めた所だ。東北には、有名な陸奥三関〔白河の関・勿来(なこそ)の関・念珠(ねず)の関〕のほかに、有耶無耶の関、尿前(しとまえ)の関(鳴子温泉近く)などがあることは知っていて、有耶無耶の関以外は行ったことがあったのだが、ここ有耶無耶の関だけはどこなのかも知らなかったのだ。思いがけぬ発見と喜んで、右手の集落入り口らしい所に入ってみたが、案内板も何もない。人が通るのをしばらく待って聞いてみるとここは地名だけで、関所跡などは何もないという。関所跡はもっと南の方の別の場所にあるらしい。少々残念だったが、仕方ないとあきらめて出発した。

  後で調べてみると、この場所から8K位南へR7をくだった遊佐町吹浦の三崎公園という所(秋田と山形の県境)に関所跡があったのだった。その時はそれを知らずにそのすぐ脇を通り過ぎてしまっていたので後の祭りであった。なお、山形・宮城の県境にある笹谷峠にも有耶無耶の関跡というのがあるという。
  有耶無耶という名は、鳥海山に
手長足長という巨人が住んでいて、関所あたりで旅人をさらって食べたりしていたが、神の使いの三本足の烏がきて、手長足長がそこにいるときは「ウヤ」、いないときは「ムヤ」と鳴いて人々に知らせたという伝説に由来するという。
                
 
  〔羽黒山〕 古来、厳しい修行・荒行で有名な「羽黒派古修験道」によって「擬死体験と蘇り・再生」をはたす霊山、霊場とされ、修験道の行者=修験者=山伏たちの道場として知られている
 松尾芭蕉は、松島、平泉、鳴子、大石田(最上川)と太平洋岸から日本海側へと旅してきて羽黒山までやってきた。「奥の細道」に次のように記して羽黒山を称える。

 
「六月三日、羽黒山にのぼる。……五日、権現に詣づ。……僧坊棟をならべ、修験行法をはげまし、霊山霊地の験効、人貴び且(かつ)恐る。繁栄長(とこし)へにして、めでたき御山と謂(い)ひつべし。」

 芭蕉は参道を上り、山頂手前の南谷の別院に二日ほど滞在して俳諧興行などをした後に石段を上りつめて山頂の「権現」まで行ったのであろう。
「権現」は現在の羽黒山頂の出羽神社である。芭蕉もあの二千五百段近い石段を登ったのだ。芭蕉はこの後、月山に登り、湯殿山へと下って、月山神社、湯殿山神社への参拝を済ませてから象潟へと向かったのである。
 
  〔五重塔〕 羽黒センターにある駐車場から随神門をくぐって参道に入る。磨り減った石畳の参道をしばらく行くと、江戸時代に月山から水路を引いて作ったという須賀の滝がある。さらに杉林の中をのぼると五重塔の所に出る。ここから一の坂・二の坂・三の坂と、所々苔蒸し、崩れかけたところのある二千五百段近い石段が山頂へと続く。十数年前にここを五十分位かけて上ったことがある。夜行列車で来た身にはひどくこたえたことを覚えている。この時は車で来ているためここから随神門の方へと戻った。

  「
山頂に至る約ニkmの参道には、樹齢三〇〇~六〇〇年に及ぶ老杉が生い茂り、石段は全部でニ、四四六段に及ぶ。一の坂の登り口に五重塔が聳え立つ。素木造り、柿葺、三間五層の均整のとれた優美な姿で、東北では最古の塔である。昭和四十一年国宝に指定された。創建は平将門、再建は庄内の領主で羽黒の別当であった武藤政氏によると伝えられている。」 (出羽三山神社発行案内パンフレット)
  
 
  〔出羽三山神社〕 羽黒センターの駐車場から羽黒山の裾野を南側から回り込むようにして羽黒山有料道路に入り、ほぼセンターの反対側から羽黒山の頂上に上る。

  
「赤い鳥居をくぐると国指定重要文化財の三神合祭殿がある。萱葺木造建造物として日本では最大の大きさを誇り、月山、羽里山、湯殿山の神々が祀られている。度重なる火災にあったが現在の社殿は文政元年(1818)の再建である。合祭殿前の池は御手洗池であり、平安から鎌倉時代にかけて人々より奉納された銅鏡が埋納されていることから鏡池とも呼ばれている。池の東側に建つ切妻造り萱葺の建物が鐘楼である。最上家信の寄造によって元和四年(1618)に再建された。鐘は建治元年(1275)の銘があり古さと大きさで日本有数の古鐘であり、鐘楼と共に国の重要文化財に指定されている。」 (出羽三山神社発行案内パンフレット)

 
「三神合祭殿」は、冬季に雪のために参拝が不可能な月山神社、湯殿山神社を出羽神社と一緒に祀って三神への参拝が一度に羽黒山で済ませられるようにしたものという。
 
 
  〔月 山〕 月山へは立ち寄っていないのだが、湯殿山に関係する所でもあるし、かつて二度ほど月山に登った事もあるので敢えて記しておくことにします。

 車の場合、月山へは羽黒センターから南下し、月山高原ラインに入って車で入れる終点の八合目まで上る。そこからは徒歩で登山。頂上まで約三時間ほどの登り。車で来た場合はまた八合目まで戻るしかないが、車でない場合は頂上から直接湯殿山へと約三時間位で下ることが出来る。

  〔五重塔〕のところでちょっと触れたが、東京から夜行列車で来て羽黒山に上ったことがある。その後、バスで月山に来て初めて登ったときは前夜の寝不足がたたって上りもきつかったが、翌日の下りも、天気が悪く、ガスって何も見えない霧雨の中を下ったせいかもしれないが、途中、鉄梯子で下るようなところもあったりして、けっこうきつい下りだったように思う。「芭蕉(当時46歳)もこんな所を下ったのか、よくもまあ」と思ったことを覚えている。が、今にして思えば、運動不足のままいきなり登山をしていた小生(当時35歳)などより、諸国を全部徒歩で旅していた芭蕉の方がずっと体力・脚力があったに違いない。
 芭蕉は
木綿(ゆふ)しめ身に引きかけ、宝冠に頭を包み」( 木綿しめ※1を体に掛け、白木綿を巻いた「おかんむり※2」で頭を包み )という装束で月山に登った。「奥の細道」にそのときのことを次のように書いている。

 
(六月)八日、月山にのぼる。木綿(ゆふ)しめ身に引きかけ、宝冠に頭を包み、強力といふ者に導かれて、雲霧山気の中に氷雪を踏んでのぼること八里、更に日月行道の雲関に入るかとあやしまれ、息絶え身こゞえて、頂上に至れば、日没して月顕る。笹を敷き篠を枕として、臥して明くるを待つ。日出て雲消ゆれば湯殿に下る。」

           ※1  こよりか白布で編んだ紐で輪を作り首に掛けるものという。
             ※2  頭を白木綿で包み、左右に角を出したものという。

 小生は頂上小屋に泊まった翌朝下ったのだが、芭蕉は「
息絶え身こゞえて」たどり着いた頂上で一晩野宿、「笹の葉を敷き篠竹を枕にして、横になって夜が明けるを待っ」た後の下りだったのだ。さすがの芭蕉にもそう楽な下りではなかったのではないだろうか。湯殿に下った後のことは、鍛冶小屋やおそ桜のことにふれてはいるが、それ以外、次のように書いて何も記していない。

  「
凡て山中の微細、行者の法式として他言する事を禁ず。仍って筆をとゞめて記さず。」
 
  こうして三山の巡礼を果たした芭蕉は、この言葉の後に次のように書いてこの段をとじている。

 
 「 坊に帰れば、阿闍梨※(あじゃり)の需(もとめ)によりて、三山巡礼の句々、短冊に書く。
      涼しさや ほの三日月の 羽黒山
      雲の峰 幾つ崩れて 月の山
      語られぬ 湯殿にぬらす 袂かな
      湯殿山 銭ふむ道の 泪(なみだ)かな     曽良    」
      ※ 徳の高い僧のこと。また、僧の称号。

 ちなみに、せっかく月山に登ったのに悪天で何も見えなかったのが残念で、何とかあたりの景色をしっかり見たいと、車で行った二度目の時は晴天に恵まれ、頂上小屋に一泊して翌日八合目に下る時には正面に鳥海山がはっきりと見えた。さあ今度はあれに登るぞと月山高原ラインを下ったのだが、これがまた二車線ぎりぎりの道路、バスが来るとすれ違うのが大変なので、来るなよ来るなよと祈るような気持ちで下りたのだった。現在はどうなのだろうか。
  三時過ぎに鳥海山の駐車場に到着。頂上手前の小屋に泊まって翌朝登頂したのだが、あいにくのガス。頂上で一時間近く粘ったのだが結局ガスは晴れず、景色はまったく見られなかった。また今度と思ってはいたが結局それきりになってしまっている。今回も象潟あたりで下からだけでも見たいと思ったが、鳥海山は一度もその姿を見せてくれなかった。

 
   〔田麦俣〕 旧道の六十里越街道を進むと街道沿いの集落に、有名な兜造り、茅葺三階建ての多層民家が二軒並んで見えた。「旧遠藤家が見学可能」とガイドブックにはあったが、時間もぎりぎりになっていたので、数分車を止めて街道から眺めただけで湯殿山に向かって出発した。  

   
 羽黒山 随神門  須賀の滝  五重塔
 
 出羽三山神社 三神合祭殿  鐘 楼  田麦俣 兜造りの多層民家



〔第15日〕 7月31日( 日 )

地域・場所 ルート・観光・見学箇所等 着時刻 発時刻 メーター 説 明 ・ 案 内 等
 湯殿山  湯殿山ホテル…有料道   8.30  2934.2  
   参籠所前…徒歩… 8.39      参拝バスがあることを知らずに歩いた。 1K強、歩20分程。
   湯殿山神社…参拝バス…        
   参籠所前有料道   9.58     
   湯殿山ホテル…R112・K351… 10.04  10.18  2939.8  
 大 網  大日坊…K351… 10.36  11.03  2956.8  
七五三掛     (しめかけ)   注連寺…K351…
  …R112・月山花笠ライン…
11.10  12.10  2959.6  
   月山IC……山形道…   12.35    寒河江SA ・古関PA 
   村田JCT…東北道……       安達太良SA ・ 那須高原SA
   佐野SA…東北道…… 18.55  20.10 3335.9  18.20頃から渋滞。 大渋滞の解消を待ちながら夕食・休憩。
   川口JCT…主都高・中央道 …        
   国立IC…R20…        
 東京  自宅 22.10    3465.0   

  〔湯殿山神社〕 どういう所かについて、まず「出羽三山神社発行案内パンフレット」の記述を紹介しておきます。
 「湯殿山は、平成十七年に御開山一四〇〇年を迎えました。古来、出羽三山の奥宮とされ、「語るなかれ」「聞くなかれ」と戒められた清浄神秘の世界です。湯殿山神社本宮は、清冽なる梵字川の流れのほとり、幽玄なる峡谷中に鎮座しています。……湯殿山神社本宮では、参拝に際しては現在でも履物をぬぎ、裸足になり、お祓いを受けてからでなければお詣りは許されない、俗界とは切り離された神域である。」
 

 湯殿山神社には湯殿山ホテルのところから有料道路を行く。終点の仙人沢・参籠所前の駐車場に車を置いて歩き出したが10分ほど歩いた所でバスに追い抜かれた。見ると白装束の参拝者がいっぱい乗っている。団体のチャーターバスかと思ったがそうでもなさそう。失敗したかなとも思ったが久しぶりに歩くのもまたいいものだと思い直して歩いた(帰りにはこの参拝バスに乗って参籠所前の駐車場に戻った)。さらに10分ちょっと歩いて本宮入口の御祓所に到着。

 ここから先のことについて、芭蕉は「
凡て山中の微細、行者の法式として他言する事を禁ず。仍って筆をとゞめて記さず。」としているのだが、ある有名出版社のガイドブックには、湯殿山神社について、古くから、この地は『語るなかれ、聞くなかれ』とされた聖域。と書きつつ、続けて社殿もなく、注連縄(しめなわ)が張られた巨大な赤い岩が御神体。まわりにはこんこんとお湯が湧き出ており、豊穣や生殖のシンボルとして崇拝されてきた。と書いてあるので、それをここに引用して、小生が「語った」のではないことにしておく。
  
 御祓所の受付で、まずはだしになって五百円の御祓料を払い、形代(かたしろ。
切り紙の人形=ひとがた)の処理※をし、御祓いを受けてから門内に入る。
 ( ※通常は、名前と年齢を記入した形代で体を撫でて
息を吹きかけ、身のけがれや禍いを形代に移して川などの水に流す。残念ながら、この時はどう指示され、どうしたのか細かなことを覚えていない。)

 受付の小さな建物の右隣に一辺30cmくらいの角材を組んで板扉を取り付けただけで、右の柱に「湯殿山本宮」という看板を掲げた門がある。その右手には立て札があり、それには「 錠 」とあって、開門・閉門の時刻のほか、「一、門内の写真撮影を禁ずる  一、参拝者は素足にて入宮の事 」と書いてある。これを見て、門外のここはいいのだと判断して、御祓所の写真は撮らせてもらった(後で見たら湯殿山有料道路の通行券にはこの御祓所の写真が印刷してあった)。さすがにガイドブック等にはご神体の写真を載せているのはないようだが、あるホームーページでイラストを公開しているのは見たことがある。

  門内に入ってからのことは、『
語るなかれ』とあるからというより、日本人の信仰の形・信仰の場の不可思議さを実感できる貴重な体験なので、実際に行ってみてからのお楽しみということで書かない方がいいのかもしれないと思って、ここにはこれ以上書かないことにします。 

 
  〔大日坊〕 湯殿山総本寺 瀧水寺金剛院大日坊。弘法大師の開基と伝えられる寺で、大日如来を安置し、江戸初期には隆盛を極めたが、明治になってからの廃仏棄釈、続いての火災、地すべり災害などによって現在の規模になってしまったという。境内入口には鎌倉時代創建とされる仁王門があり、運慶作の阿吽の仁王像と風神・雷神像が安置されている。 また、湯殿山は女人禁制であったため、大師が女人を哀れんで「女の湯殿山」として建てたのがこの寺の起こりだともいわれている。

 大日坊本堂には「代受苦菩薩真如海(しんにょかい)上人」の即身仏が安置されている。「即身仏」とは、江戸時代の僧で、衆生救済のために自ら断食死してミイラ化した行者のことで、この真如海上人については「大日坊発行パンフレット」に次のような説明がある。

 
「代受苦菩薩真如海上人は朝日村越中山に生まれ、純真な性格の持主として育ち、幼少の頃より仏教の教えに心をひかれ、青年時代より仏門に帰依出家し、一生を捧げて弱肉強食の不平等社会を仏国楽土たらしめ、衆生を救うことを誓願され、湯殿山大権現を信仰し、本寺大日坊を拠点として各方面の教化につとめた。寺を建て慈悲を施して社会福祉につとめられたため、徳望一世に高く、生き仏として多くの人々より尊ばれた。二十代より即身仏を志し、木食の行に入り、天明三年九十六才で生身のまま土中に入定するまで七十余年の長い間この難業苦業を積み重ね即身仏となられた。今日まで約二百年以上もなるが、生きながら入定そのままの尊い姿である。即身仏とは、湯殿山行者の行う難業苦業の最たる木食の行を積み重ね、生きながらにして土中に入定し三年三ケ月後に弟子や信者の手により堀り出し、これを洗い清め乾かして即身仏となる。」

    ※「木食」とは米などの米穀や野菜を絶って食せず、木の実、山菜のみを食して修行すること。

 「出羽三山神社発行案内パンフレット」には、即身仏について、次のように記されている。

  
「 昔 湯殿山の行人の修行は一期千日であった。想像を絶する苦行を続け、自らの穢れを祓い、他人の苦しみを代わって受けよう(代受苦)としたのである。湯殿山系の即身仏は荒行により体内の脂肪分をとり、入定後腐敗せず即身仏となるのが特徴である。そして、永く世の人々を救おうとしたのである。」

 
  〔注連寺〕  作家“森敦"がこの注連寺を訪れ、ひと冬を過ごした体験をもとに綴られた小説 『月山』 が昭和49年に芥川賞を受賞したことで有名になった寺。また、本堂に鉄門海上人の即身仏が安置されている事でも知られている。堂内には現代作家四人の天井画などもあるほか、境内に森敦文学碑、「森敦文庫」、二色の花を時期を違えてつけるという、樹齢三百年の七五三掛(しめかけ)桜などもある。

  鉄門海上人の即身仏については「注連寺発行パンフレット」に次のような説明がある。

  「 庄内に現存する六体の即身仏のうち、多くの伝説をもち、関東にまで及ぶ足跡を残しているのが『鉄門海上人』です。鶴岡市に生まれた上人は、得度して厳しい修行を終え各地に寺院を建立しで布教を行いました。江戸で、自らの左眼球をくりぬいて眼病退散を祈願したことから、恵眼院鉄門海と称され、難所だった街道を改修する等社会事業にも尽くし、湯殿山の名を全国に広めたのです。」

  また、注連寺については次のようなことも書いてある。

   
「 湯殿山大権現[大日如来]は太陽に例えられ、その光明は、あらゆるものに救いの手をさしのべています。開創当時、女人は湯殿山に登ることを禁じられでいたため、大日如来を拝むことができませんでした。注連寺では特に女人をあわれみ、胎蔵界曼陀羅大日如来を刻み、本尊として安置しています。女人にも祈祷を行い、お注連(しめ)をいただけるようにしたのが注連寺の信仰の特徴ともいえます。」


 
 湯殿山神社 参籠所前大鳥居  湯殿山本宮 参道  湯殿山本宮 御祓所
   
 大日坊 山門  大日坊 本堂  注連寺 本堂

                              

                          東北旅行 宿泊先一覧               2005年7月現在      

     宿 泊 先 電  話   最 寄 駅 ・ 場所 種 類  一人料金 
 1  湯野上温泉  民宿ひらのや  0241-68-2404  会津鉄道湯野上温泉駅より歩約10分  二食付 8,500
 2  福 島  シルクホテル(BH)  024-521-5211  JR福島駅より歩3分  ツイン ※7,800
 3  銀山温泉  源泉館  0237-28-2232  山形新幹線大石田駅よりバス40分  二食付 9,600
 4  仙 台  勾当台会館(地共済)  022-222-3301  市営地下鉄南北線勾当台公園駅より歩7分  朝食付 4,700
 5  宮 古  休暇村陸中宮古  0193-62-9911  JR宮古駅より「休暇村」行バス25分  二食付 8,400
 6  盛 岡  いわて共済ビル(地共済)  019-651-8821  JR盛岡駅より歩15分  素泊り 4.410
 7  角 館  プラザホテル  0187-54-2727  JR角館駅より歩15分  朝食付 6,800
 8  葦毛崎  八戸シーガルビューホテル  0178-33-3636  JR八戸線鮫駅よりタクシー5分(送迎あり)  二食付き  10,000
 9  青 森  ホテルニュームラコシ(BH)  017-722-8095  JR青森駅より歩1分  ツイン ※7,350
 10  む つ  パーク下北(B民宿)  0175-23-1051  JR下北駅より約4㎞  二食付き 5.670
 11  蟹 田  中村旅館
0174-22-2046
 JR蟹田駅から歩7分  二食付き 6,300
 12  金 木  金木温泉旅館  0173-52-2235  津軽鉄道金木駅より歩約8分  二食付き 6,825
 13  秋 田  太平閣  0188-35-1642  JR秋田駅より歩5分  二食付き 5,000
 14  湯殿山  湯殿山ホテル 0235-54-6231  JR鶴岡駅よりバス55分  二食付き 10,000
                                                    ☆ 料金の※はルームチャージ



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